Lv100第六十七話
「獏 -笑理と知里とテンテン-(ひらまきパークその一)」
登場古生物解説(別窓)
 冬、仙台のとある居酒屋。
 二人の女性が盃を交わしている。
「じゃあゾウはゾウでもアネクテンスゾウを見て育ったっていう感じなんですね」
「そうそう、そうなんすよ。だから口が長いゾウなんか普通に地球の日本にいたもんだと、こっちは認識してるのにですね!」
 片方の語気が強まっていくのは、酒の勢いのためだけではなかった。
「口が長いゾウなんかいるわけないじゃんとか言うんですよ東京の人は!鼻しか長くないって!そっちが勝手に知らないだけだっつうの!」
 聞き手はうんうんと頷いていたが、ふと気付いて一言。
「ゴンフォテリウムだけじゃなくてゾウ科のゾウにも半分間違いですもんね」
「え?」
「鼻の半分は上唇なので」
 そう言われて、怒っていたほうの眉間がみるみるうちに緩まる。
「さあっすがチリさんですねえ〜っ!」
「へへ」
「そんなチリさんにはテンテンの特に可愛かった頃を見せてあげましょう」
 チリと呼ばれたほう、佐藤知里は、相方がスマートフォンを素早く操作して突き出してくるのを受け取った。
 写っているのはゾウにしては小さく、バクにしては大きくて鼻がやや長い獣と、明らかにその幼獣と分かる小さな一頭であった。
「実家に帰ったときちょうどこんなんだったんですよ」
「おおーっ」
 画面をスワイプすると二頭が柔らかな土の上を駆け、鼻で撫で付け合い、木の枝を掴む様が現れた。
 そうしている間に相方はテンテンがいかに可愛らしかったか語り続けていたが、知里にはそれがかえって後悔の種であった。
「あー……、ナウマンゾウにかまけてた間にこんなに可愛いのを……」
「仕方ないですよ、あじさい子ちゃんも可愛いですもん」
 画面をスワイプし続ける知里の目は、しかし、テンテンだけを見ているのではなかった。
 放飼場の周りは豊かな緑に囲まれ、内側にも瑞々しいカエデが育ち、木の幹を活用した設備が並んでいる。
 広い運動場には土が敷かれ、大きな池にはアネクテンスゾウの体が楽に浸かる。寝部屋の建物はどこかと思えば、丸太で丁寧に隠され木々に溶け込んでいた。
「いいところですねえ」
「でしょ」
 宮城より岐阜のほうが先に春が来る。そのときに必ず。知里は決意を固めていた。

*****

 三月。岐阜の郊外にある私達の動物園、「ひらまきパーク」にも春の気配が漂っている。
 ひらまきを漢字で書くと平牧。この近辺に横たわる千八百万年も前の地層、平牧層のことだ。
 アネクテンスゾウの親子、母のネネと娘のテンテンが運動場に出る前に、寝部屋で体の埃を払う。この作業にも二頭はだいぶ協力的になってきた。もう外に出てもそこまで冷え込まないからだ。
 並んだ鉄柱の向こうにあるネネの背中は、ゾウといってもせいぜい人の背丈ほどの高さしかない。同僚の振る竹ぼうきが楽に届く。
 私はバクの鼻を長めにしたような顔に向かって声をかけ続ける。
「お痒いところございませんかー、掻き足りないところありませんかー」
 ボボッ、とネネが鼻を鳴らし、鼻を上げて長く裂けた唇をめくる。上顎の内側から前に向いた牙と、下顎の先にある小さな牙が見える。どちらも白く健康だ。
 ゴンフォテリウム・アネクテンス、和名でアネクテンスゾウ。ゾウの歴史の半ばで後に岐阜になる土地までやってきた、今のゾウとだいぶ異なったゾウだ。
 鼻が少し太短く見えるのは口全体が長くなっているからだ。頭はあまり出っ張っていない。耳は小さくて綺麗に丸い。体型も今のゾウと比べると胴長短足だし、産毛が濃い。
 ただ目付きはゾウらしいと言ってよいものだ。
 知性も今のアジアゾウほどとはいかないのでもっと簡単な言葉をかけてもいいのだが、美容師さんの真似をすると体の様子や機嫌が分かるような気がするのだった。
 多少こすった跡はあるが傷にはなっていない。この寝部屋の壁や設備は柔らかめの丸太で覆われ、怪我や底冷えを防いでいるのだ。
 テンテンが鼻でぺたぺたとネネの脇腹に触れた。今、ネネの八割ほどの背丈だ。
 ネネはブオッと息を鳴らして、テンテンに鼻を向けた。
「ちょっと厄介そうにしてますね」
「寝部屋を別々にする訓練を進めないと」
 テンテンが大きくなって、ネネは人間に対する寛容さは取り戻したが、テンテンには厳しくなったようだ。母子の仲がこじれてトラブルが起きる前に私達がケアしなければ。
 離れた寝部屋からコンコンと音がする。テンテンの父親のゴン太だ。
 ゴン太の上の牙は、常に口から突き出るほど長く大きい。それであたりを叩いているのだ。ブウブウと鼻を鳴らす声も聞こえる。
 立派なゴン太の牙だが、茶色く細かい傷が増えてきた。
 急かしてくるところに悪いが、まだ運動場に出てもらうための作業がある。
 同僚は餌の用意。牧草を決まった量に量るだけでなく、他のエリアにいる恐竜などの分とまとめて野菜を切ったり、保管所で木の葉の付いた枝を束ねたりしないといけない。グルメなのだ。
 私は場内に敷かれた土の整備だ。汚れたり湿ったりした部分を掘って除き、新しい土をかける。
 分厚く柔らかい土はアネクテンスゾウの足に優しく、ヒトの足と猫車の車輪に厳しい。しかも運動場の中は石組みの台で区切られ曲がりくねっていて、猫車のハンドルさばきが要求される。
 坂を下った先が大きな池なのも、最初は突っ込みそうで怖かったことをいつも思い出す。
 しかし力仕事だけに気を取られてもいけない。
 台の上に突き立てた木の枝に目をやると、何本かは折れていた。これはテンテンのおもちゃだ。引き抜いて新しいものにしてやる。
 それと同時に、台の内側に植えられたカエデを見る。どの枝も折られず、明るい色の葉を広げ始めている。しばらくはゾウ達の鼻が届くこともなく無事に育ちそうだ。
 作業は終了、安全は確保。開園とともに寝部屋とサブ運動場のゲートを開く。まずはゴン太のほう、無事場内に進んでいくのを見てからネネとテンテンのほうも。
 三頭が運動場をずんずんと進んでいくのを運動場の外から見ていると、園路からもずんずんと、いや颯爽とこちらに進んでくる人影が見えた。
 明らかに園内の関係者でもないし研究者なら平日に来る。なんと、こんなに早い時間に真っ直ぐこっちに来るお客さんが。
 その女性はクスノキの並びからメタセコイアに変わる並木を抜けて、門のように立つモミジバフウの手前から大きなカメラを構えた。
 キャスケット帽、明らかに成人しているがあえて、という感じのふわりとしたツインテール、そして左肩から長く垂らしたマフラーに、春物の上着。どれも茶色で、なにか見覚えのあるものに見えるような気が……、
 ナウマンゾウだ。ナウマンゾウの頭のでっぱりと耳、鼻、毛皮を連想させるのだ。
 考えすぎかと思ったが鞄にもナウマンゾウのマスコットが付いている。よほどゾウが好きでうちのアネクテンスゾウを見に来てくれた人に違いない。
 あんなにファッションを統一するほどのナウマンゾウのファンに見られると思うと、ちょっと気持ちが引き締まる。
「おはようございまーす!」
「あっ、おはようございます」
 挨拶を返してくれたものの目線とカメラは運動場の中に向いたままだった。アネクテンスゾウに熱心になってくれるならそれがなによりだ。
 アネクテンスゾウ達が場内に出てきた目当てはもちろん餌だが、いきなり葉物を好きに食べさせるということはない。
「ネネー、ネネー」
 私がバケツを掲げて声をかけるとネネがすぐに振り向いてきた。バケツの中身は賽の目切りにしたイモだ。
 鼻だけが届くよう、石垣と鉄格子の間に入る。そして手の中に、ボタンを押すとカチッと鳴る道具、クリッカーを持つ。
 ネネが鼻をこちらに伸ばしてくるがそれだけではまだ駄目だ。ほらほらー、高いところでクリッカーが鳴ってるよー。こういうときはどうするのー。今度は思うだけで余計なことは喋らない。
 何ということもなさそうにネネは鼻を高く上げ、長い口を開いてみせた。おかげで寝部屋で少し口を開いたときと違って牙だけでなく、串団子をずらずらと並べたような奥歯までしっかり見える。健康そのものだ。
 鼻が下りてくるのですぐにイモのかけらを巻き込まさせる。イモは下の牙に沿って口の中にすべり込んでいき、私は鼻の背を撫でつける。
「よくできたねー、ありがとうねー」
 健康管理のための動作とはいえこちらの頼みでやってもらっていることだ。その気になってくれるような頼みごとの手順というものがある。
 右や左を向かせたり、そのまま足元でクリッカーを鳴らせて足を見せてもらったりするのも同様だ。
 さて、ネネはイモに飽きるまで充分トレーニングに付き合ってくれる。
 問題はテンテンである。鼻上げ一つにも何十回とクリッカーを鳴らしてやらなくてはならない。
 どうもまだ我々を頼みを聞いたほうがお得な相手と認識してくれていないところがある。もしかしたら母親と違ってイモが好みではないのかもしれない。
 ……とかいうことを真面目に考えてしまうと、苛立ちがあらわになってただでさえやってくれない向き変えがますます失敗しそうな気がする。ほれほれーい。イモが待ってるぞーい。かわいい左手見せてみろーい。
 なるべく明るくテンション高めな感じでやっていると、向かって左をじわりと向いてくれた。
 そしてそっと左前足を持ち上げてくれるところまでいったが……。
 テンテンの脚の間に別の脚と顔が見えた。
 ドン、とネネがテンテンを押し、テンテンはそれっきりネネについていってしまう。
 そんな一部始終を先程のお客さんもしっかり見ていたようだ。ああ、あんな熱い視線がさっきのいまいちなハズトレに注がれていたのか。
「娘のほうにはまだまだ練習が必要そうです」
「いえいえ、ありがとうございます。親子仲良しなんですか?」
「母親は子離れしたように見えることも多いんですけどねー、まだまだ一緒が心強いみたいです」
 ともかくテンテンのトレーニングについては再考が必要そうだ。
 ネネとテンテン、それに仕切りの向こうのゴン太も、今は池の岸辺に積まれた野菜で腹を満たそうとしている。野菜を鼻と下の牙に挟んで次々つまみ上げるところがよく見え、お客さんもじっと観察している。

 さて、私の腰にはアジアゾウで使うような手鉤の代わりに……手鉤自体その意味を知らないアネクテンスゾウには通じないのだが、剪定ばさみが吊り下げられている。
 これは運動場と寝部屋の周りをぐるりと取り囲む場内や野山の木々や草花、言ってみればアネクテンスゾウを取り囲む環境を整える作業が、飼育員にも日課として組み込まれているためである。
 さくさくと落ち葉を踏みながら、雑木林の道を歩く。
 後ろについてきているのはボランィアガイドのおばあさん、堀部さんだ。季節ごとの植物の様子や、アネクテンスゾウが食べる木の葉の解説をしてくれている。
 歩調を合わせようと意識しなくてもゆっくり歩かざるを得ない。
 周りに立ち並んで高く育ったコナラやアベマキ。うっすら緑がかってきたその一本一本どころか、枝の一本一本が心配の種だ。
 細い梢に数珠つなぎになった冬芽がついに開き、緑の葉を現し始めてはいるが、その数は果たして充分なのか。園芸師さんではなく私が枝を切ったところの先だけ少なかったりしないか。同僚が切ったところは。とても春の訪れを祝うどころではない。
 おおむね充分な葉が開きそうではある。初夏にもなればアネクテンスゾウ達は切られた枝を鼻と牙の間に挟んで、葉を器用にしごき取るだろう。去年ドングリは不作だったから今年は豊作のはずだ。これらはアネクテンスゾウが生息していた当時にも得られたであろう恵みだ。
 頭上にアネクテンスゾウの腹を満たすはずの実りがある一方で、地上にはこの林をアネクテンスゾウにふさわしくないものに変えてしまう侵略者がいつ現れないとも限らない。千八百万年前にはなく、今の野山にはありふれた植物、ササだ。
 園芸師や先輩飼育員から何度も聞かされていた。ササがいかに厄介かということ、切ったり引っこ抜いたりしただけでは何の意味もないこと、そして根を丸ごと掘り返して切れ端を残らず取り除き、それを数年繰り返してようやく、アネクテンスゾウがいた頃によく似た、ササのないドングリの森を作り上げたこと。
 それ以来私達は、アネクテンスゾウの展示の背景でもあるこの雑木林に二度とササが入り込まないよう目を光らせているのだ。
 この林に生えてもいいものといけないものを不自然な基準で分け、しかもそれがおおむね里山を守ろうという市の方針にも噛み合っているから実行しているだけなのだが……。
「シジュウカラですねえ」
 急に堀部さんに声をかけられた。
「え?」
「あら、驚かせたかしら。シジュウカラが鳴いていたもので、春らしいと思ってつい」
「えーっと……ああっ、本当ですね」
 シジュウカラなら私でもなんとか分かる。ツツピーというさえずりが右から、それと前のずっと遠くからも交互に聞こえる。
「ごめんなさいね。お散歩気分でゾウさんと関係のないこと」
「いえいえっ、そんな!お散歩気分最高じゃないですか!」
「そーお?」
「私だけじゃ山の様子に全然気付けないですから」
 コナラやアベマキが育ちササが生えないことが実利であり、それだけが見るべきところだと私が思い込みがちなのを、堀部さんが補ってくれる。堀部さんがいなくては山のことが分からない。
 以前の秋にグミの木という大発見があったのも堀部さんの功績であった。

 周りの植物の様子が分かったので、場内の掲示板にその分の「季節の植物案内」を追加した。ここにはあくまで簡単な紹介だけである。
 もう少し踏み込んだ内容を書いたものもあり、それは寝部屋の裏にある展示館のほうに貼る。さっそく堀部さんと一緒にそちらに向かう。
 寝部屋が鉄柱越しに見えるのと反対の壁には、まずアネクテンスゾウの見付かった地層のことや、アネクテンスゾウ自身のことが外の解説板より少しだけ詳しく掲示されている。季節の植物のこともこのあたりに貼る。
 奥に進むともっと詳しい掲示や研究成果の発表などもある。どのくらい文章を読む気があるかで進むか引き返すか決められるわけだが。
「中村さん、一番奥にお客さんが」
「珍しいですね……あっ」
 先程のゾウ好きのかたが、パイプ椅子に座って長机に向かっている。
 日誌や広報、SNS投稿などをまとめたファイルを読んでいるようだが……、あの分厚いファイルをあんなにちゃんと読んでいる人はなかなか見かけない。
 堀部さんが先に出て声をかけた。
「こんにちはあ。ここはお寒くはないですか」
「あっ、お気遣いありがとうございます。夢中で読んでたから気にならなかったです」
 彼女は明るい笑顔で振り返った。
「とっても熱心なんですね」
 そう返事しつつ、それをさらに裏付けるものが目に入った。
 机の上に備え付けでない彼女の私物の本がある。タイトルは「古代ゾウの母になった男たち」。
 このひらまきパークのアネクテンスゾウと、東北にある「日本エレファントセンター」のナウマンゾウの飼育が始まる前から軌道に乗る頃について書かれた本だ。

 ナウマンゾウは新しいゾウのグループに属する知能の高いゾウである。エレファントセンターはナウマンゾウの生活そのものを現世に再現することを目指し、ナウマンゾウに雑木林を直接歩かせたりもする斬新な施設だ。
 センターを始めるときに何が起こったかというと、蘇ったばかりで親もないナウマンゾウ達、桜太郎と桜子に職員たちの手で食べられる植物を一つずつ教えていかなくてはならなくなった、というわけだ。
 幼いゾウをなんとか山に連れ出して草木の見分けを覚えさせた先達の苦労は計り知れない。それが「古代ゾウの母になった」ということである。
 さして知能の高くないアネクテンスゾウを従来どおりの運動場に住まわせるひらまきパークでも、餌に関しては似たようなものだ。
 最初に再生されたゴン太が牧草ばかりでは長生きできないことは目に見えていたが、野菜や人工飼料、アルファルファ中心ではそのうち量が追い付かなくなることも分かっていた。価格の問題もあるが、本来の食料でないものをそれほど多く食べさせられない。
 木の葉をなるべく多く食べさせなくてはならないが植物管理員との連携は難しいし、一種類ごとに食べられるということを教えなければ食べないことには変わりない。
 ゴン太が吐き出したドングリの殻をむき、少しでも食べる気になるようにしてやる日々をここの先輩達もくぐり抜けてきたのだ。

 というような話を、エレファントセンターについては武勇伝、ひらまきパークについてはそれになんとか追随しようとした苦労話として書き記したのが「古代ゾウの母になった男たち」である。
「とてもゾウがお好きなのですね」
「はいっ。いつもは東北のほうでナウマンゾウを見てまして」
「まあ、東北!それはそれは遠くからようこそお越しくださいまして」
 私も堀部さんと同じように、遠くから来てくれた彼女をとても歓迎してはいた。
「エレファントセンター、ですね」
 一方で、エレファントセンターのナウマンゾウの大ファンが相手ともなると怖気づく部分もあった。
「そうなんです、こっちもずっと気になってたんですけどセンターで生まれた子ゾウもあんまり可愛くって目が離せなくって。でもテンテンちゃんも可愛くってよかったです」
「ちっちゃかった頃はもっとよ〜、このあたりのアイドルだったんだから」
「ふふ、確かに」
 彼女と堀部さんは明るく話しているが、私はなんだか変に口数が減ってしまっていた。
 そんな私の気持ちをあたかも知っていたかのように、外から異音が聞こえてきた。
 ガリッ、メリバキッ。
 ブウウ、とうなり声。
 何か設備が壊れたのかもしれない。この方向と声はゴン太だ。
「ちょっと見てきます」
「行ってらっしゃい」
 ゴン太のいる区画に来てみれば、ゴン太の足元に何か散らばっていた。大きめの木くずだ。
 ゴン太は運動場を区切る鉄の柵のそばでじりじりと足踏みしている。その立派な牙がちょうど届く位置に、裂けた丸太がある。
 金属の設備にはゴン太が直接触れずに済むように皮付きの丸太をくくり付けてあるのだが、その一本を牙で突き割ってしまったのだ。
 それ自体は全く想定内。設備の覆いに使っているのはコルク質の分厚い樹皮を持つアベマキだ。こういうときに柔らかい樹皮が怪我を防ぐという目論見である。
 しかし今回は細いものを折ってしまったようだ。柔らかいのは樹皮だけで中の材はけっこう固いというのに。木材には使えないものを選んだ分か、ゴン太のパワーがそこまであったということか。
 運動場の周りで見ていたお客さんもこれに驚き、子供達や若い父親が騒いでいる。
 当のゴン太は破片をいじったり踏ん付けたりすることもなく離れていく。
 怪我がないなら何よりだが、うっかり踏まないうちに同僚に連絡して後片付けの段取りをつけなくては。
 業務用携帯で通話中、例のゾウ好きの彼女もやってきて、折れた丸太の写真を撮っていた。
「お騒がせしてすみません」
「いえ。アネクテンスゾウも木を折ったりするんですね」
「普段は細い枝をおもちゃにして折っちゃうくらいなんですけどね」
 木を折ることなら、野山を自力で切り開いているナウマンゾウのほうが本業なのだった。
 ゴン太も細い木の一本くらい倒してみせないと気が済まないのだろうか。

 ちょうど昼過ぎの餌の時間でもあったので、ゴン太には屋内で餌を食べてもらい、その間に運動場の木切れを片付けるという手順になった。
 目撃……してもいないが目撃者に近い私が、ゴン太に怪我や動揺がないか確認する役だ。
 今朝のようなハズバンダリートレーニングで覚えてもらった、合図に従って決まった動作をしてくれることがここで役に立つ。それにはご褒美になる特別な餌が必要だ。
 あげる予定のあったものの中でご褒美にできそうなのは、今手に入るシラカシの葉なのだが……、
「あんまり乗り気じゃないみたいです」
「動揺しててではないよね?」
「単にシラカシだからっぽいですね」
 予定外だが結局イモに切り替えることになった。
 牧草やアルファルファより木の葉が良いとはいえ、木の葉の中でもさらに好みがありシラカシは下のほうだ。しかも冬の間のおやつがずっとシラカシだったものでシラカシに飽きている。
 裏の木々の葉が完全に開けば、もっと好みのものを食べさせてやれる。一番はコナラ、特にドングリから芽吹いて間もない若木なら喜んで食べるはずだ。
 ゴン太の我慢が終わるよう、木々が早く伸びればいい。

 堆肥置き場、ドングリ農場、大工場、糞に含まれるホルモンを調べる検査所……作業しなければならない場所はいくらでもある。
 展示場の前を通りかかると、堀部さんがボランティアガイドをしているところが目の端に入った。
 地元の子供達に混ざって、あの熱心な彼女もガイドを聞いていた。足早に通り過ぎたので、どんな顔をしてガイドを聞いていたのかは分からなかった。

 午後四時。日の光が黄色みがかって、風が冷たくなってきた。
 ネネとテンテンが寝部屋に帰っていく様子を、ゾウ好きの彼女が見守っていた。
 ネネが先を行き、テンテンに譲ることはない。いつも決まった順番だ。そして親子が落ち着けるよう、この時間からは展示館側の通路にも三角コーンを置いて通行止めにしてしまう。
 そのあたりで彼女も帰ってしまったかと思ったが、掃除をしに運動場に入ると、石垣の向こうにまだ彼女の姿があった。
 周りの風景や、植え込みの草木を見ているようだった。
 木の幹や植え込みにも簡単な説明がかかっていて、彼女はそれをきちんと読んでいる。アネクテンスゾウと同じ地層からも化石が見付かっているのだが、そこに注目しているのだろうか。
 すると、彼女がこちらに気付いて微笑みかけた。
「じっくりご覧くださってありがとうございます」
「とっても楽しませてもらってます」
 少しだけ打ち解けた雰囲気になり、つい、こんなことを口走ってしまった。
「エレファントセンターと比べると、大したところではなかったでしょう」
「いえ、いえ!そんなことはっ」
 彼女は首を素早く横に振る。
「アネクテンスゾウにぴったりの、すごく過ごしやすそうなところだと思います……ボランティアのかたからも色々聞かせていただきまして」
 そう言って取り出したのは例の本、「古代ゾウの母になった男たち」だった。
「ネネさんがお母さんになってから、皆さんはアネクテンスゾウをもっと大きく包み込む、森になろうとしてるんですね」
 そう言って彼女は深々と私に一礼して、展示場を後にした。
 運動場のカエデにはよく見ると茜色をした小さな小さな花が、梢ごとに咲いている。
 「母になった男たち」が育てたゾウが母になった後は、飼育員は森に、か。
 彼女は、私にも見えていなかったものが見えるところまで深く読み込んでくれたのだった。
 これからも暮らしやすい森を目指していこう。
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