Lv100第六十六話
「ザラタン -麻衣と三葉虫展示室-」
登場古生物解説(別窓)
 片道三時間半の道のりの末。私は真新しい展示室の中、床に掘りつけられた水槽に対面し、その住人に圧倒されていた。
 水槽はシャーレのような浅い円形、住人の正体は三葉虫。この組み合わせは私が普段扱っているものを思わせる。
 しかし「シャーレ」は直径十メートル、底泥に半ば埋もれた個体も、泥の上を行く個体も、五十センチを超えていた。
 「世界最大級の三葉虫・I.レックス、国内初公開」。この博物館の入り口やホール、展示室前にも、そんな惹句が賑々しく掲げられていた。
 I.レックス、すなわち、イソテルス・レックス。
 薄い緑灰色をした、装飾や凹凸の抑えられた滑らかな背中には確かな量感がある。鼻先と尾の先は少しだけ尖った形をしている。
 あるものはどっしりと泥に浸かり、あるものは意外にも軽やかに進む。私が今まで見たことがある中で最大の三葉虫でも、この背中の幅にしか達しない。しかもそれが八匹はいるようだった。
「ありがたや……ありがたや……」
「いや、なんでよ」
 私の友人で同じ高校の生物部の部員、「しじみ」が両手を合わせてイソテルスを拝み、同じく生物部員の小川さんに呆れられている。
「実物を前にするとこう、厳かな気持ちにならんかね」
「ならん」
 他の来館者はたびたび驚きの声を上げ、黒でまとめられた展示室の厳粛さを崩している。今日いきなり「I.レックスという何かすごそうなもの」を目にしたのだ。
 公開前に写真や動画を見ていた私やしじみには、突発的な驚きではなくむしろ感慨があった。
「小川さんは平気?」
「え?」
「虫が苦手だと思って」
 彼女は普段、私の扱っている小さな三葉虫にもあまり近付かないようにしている。
「うん、思ったよりカメっぽいっていうか」
「カメ」
「足も見えてないし、大きすぎて虫感がないし」
 確かに凹凸や節の少ない背甲はカメの甲羅を思わせる。カブトガニをドン亀と呼ぶ地域もある。
「よかった」
 私がイソテルス・レックスを見に行くと言ったものだから、小川さんまでしじみに引っ張られてここまで来てしまったのだ。
 しかしこの展示室にはカメのようにどっしりとしたイソテルスだけでなく、もっと虫然とした三葉虫もたくさんいるようだった。
「しじみ、小川さんに三葉虫以外のものを案内して」
「え?あー、分かった」
 しじみは勝手を通すことも多いが、その後は大抵私の頼みを素直に聞いてくれる。そういうところが好い。
「よーし、仁奈の好きそうな最高にチャラい古生物を見せてやろう」
「チャラくないっつの」
 しじみは小川さんの肩を押し、大型恐竜の骨格がある白亜紀の展示室に向かっていった。
 これで私は三葉虫とだけ向き合うことになった。
 イソテルス・レックスには単に巨大だという以外の特徴もあるはずだ。まずそれを探したい。
 さすがに水族館ではなく博物館である。壁には掲示や標本展示もずらりと並んでいて、展示の量でいったらそちらのほうが多い。
 まず目を引くのがパネル群だ。
 「I.レックスが世界最大の三葉虫なのか?」「I.レックスに敵はいたのか?」「I.レックスは何を食べたか?」というように一枚ごとに一つのテーマが大きな文字で掲げられ、見やすくなっている。
 食べる物のことは特に気になるのでパネルに近付くと、動画を流すディスプレイとセットになっていた。
 透明な板の上にいるイソテルス・レックスを下から映したものだ。頭部の中央、口元に何か……、
 生きたゴカイだった。イソテルス・レックスにゴカイを与えて捕食させる実験の記録映像なのだ。
 肢の先でゴカイを掴んでいるかと思えば、そうではない。肢は外に向いたままなのに体の中央でゴカイが前に送られ、砕かれていく。
 肢の付け根から内側に向かって何本も棘が生えている。それが左右の肢で対になることでトラバサミのように働く。
 さらに前後に並んだ肢の対を順序よく動かすことで、捕らわれたゴカイが砕かれ、逆Uの字をした覆面で覆われた顔の裏にある口へと送り出されていく。
 口に強い顎のある今の昆虫や甲殻類では見られないメカニズムから目が離せなくなる。
 餌の粉砕までこの棘で行うのは、大きなもの、それも生きたものでさえ餌にするイソテルスならではだ。巨体を維持するには、沈殿した有機物の粒子だけでなく、拾えるものなら生きていようと何でも食べなければならないのだ。
 普通の数センチの三葉虫ではこんな捕食の様子は観察できない。これでこそ、部室の小さなシュードフィリップシアを置いてここにイソテルスを見に来た甲斐があったと感じる。
 動画が切り替わり、今度はイソテルスが歩きながら顆粒状の餌を吸い込むシーンが映る。あまり大きなものを一度に与えると栄養が偏るので、普段は普通の三葉虫とさして変わらないものを与えているとのこと。
 食べれば育つ。
 脱皮殻の標本が成長の順に並べられて、壁にかけられている。
 最大の殻は生体とほぼ変わらない巨大さだが、徐々に小さく、やがて一列でなくジグザグに折り返して並ぶ。最小の殻は小指の先ほどしかなく、頭が大きい。成長と公開にかかった年月が殻に刻まれているのだ。
 しかし最小の殻が収まった標本箱から、さらに矢印が伸びていた。
 まだ遡れる。
 その先にあったのは双眼実体顕微鏡と、透明な樹脂でできた幼生の拡大模型。
 顕微鏡を覗けば、ミジンコを思わせるものが通り過ぎていった。
 今のは何だろうか。
 羽のような腕を振って水中を進んでいたようだが、もしや。
 模型を見て形を確かめると、やはりミジンコかダニに似た姿をしていた。その構造は、まるで口から肢が生えた壺だ。私の知っている、円盤状で底を這う幼生とはかなり違う。
 もう一度顕微鏡へ。先程の生き物、イソテルスの幼生が再び腕を振って視界に泳ぎ出た。
 海底を這う成体とは全く違った姿、違った生活の、ごく小さなプランクトンとして生まれるのか。
 掲示によるとイソテルスとその近縁種はこのような幼生として育つとのこと。これは彼らの生存戦略を反映した、際立った特徴だ。
 並んだ脱皮殻から、そして水槽の成体から、急に生き物としての現実味が立ち昇ってきた。オルドビス紀の海でイソテルスは独自の生活環を回して暮らしていた。
 そしてそれを現世の博物館で成り立たせようとする、人間の労力が現存している。
 ここにいる他の三葉虫も見たい。三葉虫の多様性に触れたい。
 イソテルスの水槽のそばに、それを小さめにしたような水槽がもう一つある。似たような暮らしをするものがいるようだ。
 ただしその水槽で真っ先に目に付くのは足跡だった。底泥に刻まれた、タイヤの轍にも似た浅い溝。
 そして水槽の中央には台が据えられ、土色の板が立てられている。
 足跡の化石「クルジアナ」のレプリカだ。三葉虫が生きていた当時に海底に彫りつけられた足跡が現在まで残ったものだ。
 溝の中は左右に分かれ、細かい横溝がびっしりと並んでいる。三葉虫が柔らかい泥を歩くとこんな足跡になる。
 クルジアナ自体はたびたび見かけるが、ここにあるものは何か派手に見えた。横溝の上にさらに細かい縦溝がある。
 水槽にあるのも化石も全く同じ形だから、どちらも同じ種の三葉虫が付けたのが明らかだった。
「レックスよりこっちのほうがかっこいいー」
 小学校低学年くらいの男の子が足跡の主を指差す。
 そっとそちらに寄ると、イソテルス・レックスと比べればほんの小さな……それでも両の手の平に余る、大型の……精悍な姿があった。
 鼻先から両脇の棘まで矢印のように続くシャープなライン、尾の先の棘。レトロフューチャーのホバーカーを思わせる、流麗なメギスタスピスだ。
 見た目どおりの俊足とまではいかないが、素早く進んで足跡を彫り付けていく。現世からオルドビス紀の化石までつながる線路だ。
 水槽は床だけでなく壁にもある。
 赤く弱い光で照らされた水槽がいくつか目に入る。深海を意識して作られたのは明らかだ。
 薄暗い中に、指でつまむほどの大きさのものがいるのが分かる。
 イソテルスやメギスタスピスのような巨人より、むしろこちらのほうが三葉虫らしい。くっきりとした「彫りの深い」顔は見慣れた感じがする。
 もっと目を凝らせば、両脇から細い肢と鰓がはみ出しているのが見える。
 よく「三葉虫とはこういうもの」と図解に登場するトリアルツルスだ。ここでも三葉虫の基礎知識に関する掲示がトリアルツルスの水槽の周りにたくさんある。
 水族館など高度な施設でしか見られない種ではあるが、育てるのが難しいわけではなく色々な場面が観察されている。
 交尾や産卵の写真もある。「交尾」とはいうものの三葉虫の雌雄が重ねるのは尾ではなく、頭だ。
 そして胡麻粒ほどもない楕円の卵が頭の両側から出てくる。誰が何と言おうと可愛らしい。私のシュードフィリップシアにも、いつかは。
 そうかと思えば一転全く見慣れないものが登場してきた。
 Uの字をしたものが丸みの先から泥煙を吹き出している。Uの底が三葉虫の円い体で棒は後ろ向きの棘なのだが、泥の出方がおかしい。
 泥煙は体の下からではなく、顔の前を取り巻く縁の部分そのものから湧き出ている。泥が殻を貫通しているとでもいうのか。
 水槽の手前にルーペが備え付けてある。それを使って見てみれば、事実泥はその三葉虫の殻の縁を通って巻き上がっていた。
 殻の縁に孔が並んで網になり、それを通じて底の泥が体の下から上に出ている。この元となる流れは、体の下側で、三葉虫の肢によって作られている。
 オンニアはこうして、泥から餌となる有機物の粒子や微小な動物を漉し取っているのだという。
 海底の粒子や動物を食べるという基本を変えていないのに、こんな奇策に出る種もいたとは知らなかった。
 私は最初、色鮮やかなファコプスや棘が優雅なディクラヌルスのような、観賞用のものから三葉虫の世界に入った。
 今まで三葉虫のことを、大小や装飾、色彩の違いこそあれ、底生の種であれば行動はどれもそう変わらないものと思い込んでいたかもしれない。
 そして、次に展示されている種こそ、その行動の違いを見せつけるものだった。
 丸い体から逆Y字に角と棘を伸ばすアンピクス。今は暗い泥の上で泥をかき混ぜて餌を探しているだけだ。
 しかし大きく掲示されている写真はアンピクスの他にない行動をまざまざと見せつけていた。
「ちっちゃいのが並んでる!かわいー!」
「ええーっ、ゾロゾロしてて気持ちわりいじゃん」
「そういうこと言わないでよー」
 カップルが写真だけ見て通り過ぎていく。
 アンピクスが一列に並んで歩いている写真だ。
 メギスタスピスの、互いに無関係に重なった足跡とはまるで違う。自発的に列を保って、集団行動を保っている。
 それは彼らの列の作りかたから明らかだ。前向きの角を、一つ前の個体の後ろに向かって伸びた二本の棘の間に差し込んでいる。アンピクスは目が見えない種だが、それでも前の個体を「触れ失わない」ようにしている。
 メギスタスピスの足跡と同じく、化石でもアンピクスが行列になって見付かってはいた。にも拘わらず、生きているアンピクスが行列になるところを観察することに成功したのは世界でここが初めてだ。
 イソテルス・レックスどころではない。こちらのほうこそ、ここでの飼育で自然な行動が引き出されたことをはっきり示している。
 私のシュードフィリップシアにそんな条件を用意してやれているだろうか。とても怪しい。
 分からないことだらけの私より博物館のほうが良い環境を用意できるのは明白だ。では私がシュードフィリップシアを預かって飼う意味とは……。
「あー、やっぱりいたいた。あの髪が長い子ですよ」
 急にしじみの明るい声が響く。
 振り返ると、しじみが女性の職員さんを連れて戻ってきていた。
「こんにちは、学芸員の櫻田といいます」
「ウミユリの解説してくれてたんだけど、三葉虫も担当してるっていうから来てもらっちゃった」
 するとしじみが突然頼んで持ち場を離れてもらったのか。
「葉上といいます。彼女のわがままに付き合っていただいて」
「いえいえ、三葉虫にとっても熱心なかただって聞きましたから」
 櫻田さんは優しく微笑んでいる。それなら、聞きたいことを尋ねてみないと。
「こちらのアンピクスなんですが」
「はい」
「自然な行動を引き出すのに、どのような工夫をされたのでしょうか」
「あー、それなんですけどねえ」
 すると櫻田さんの笑顔が苦笑いに変わった。
「前の展示室の水槽からこっちに移したすぐ後にですね、突然、列になって歩き始めて。誰も見たことないし化石と一緒だーっていって撮影して発表したんですけど、それっきりその後はやらなくって」
 たった一度だけ。
 恒常的な行動と勘違いしていた。
「ということはアンピクスにとって良い環境だから自然な行動を取ったわけでは」
「自然だとは思うんですよねえ、化石とおんなじ形の列ですし。ただ……もしかしたら、違う水槽に移されたせいで驚いちゃって、みんなで逃げ出そうとしたのかも」
 そのとき、展示室がつい先程までとは全く違って見えるようになった。というより、雰囲気に呑まれていたのが、イソテルス・レックスの周りの展示を見て感じていたとおりに戻った。
 いくら私と博物館では知識量に大きな差があるとはいえ、ここを成り立たせているのは私と同じ、苦労をわざわざ買って出る現生人類だ。古生代の環境を丸ごと蘇らせる魔法などない。
「なぜ行列になったのかは、これからなんですね」
「化石も生体もたくさん見ないといけないです」
 櫻田さんの笑顔が爽やかなものに戻った。
「葉上さんが調べられてるのはシュードフィリップシアなんでしたよね」
 しじみが教えたのだろうか。
「ええ、その」
「こちらはご覧いただけましたか?」
 そう言って櫻田さんが案内してくれたのは、順路の最後の三葉虫だった。
 リンギュアフィリップシア。岩手県産、石炭紀に生息した小さくシンプルな三葉虫である。
「シュードフィリップシアに似てると思いますけども」
「はい。かなり」
 少し長い楕円の頭に、乳白色の地肌と赤褐色の斑模様を持つ。しかし、私の灰色をしたシュードフィリップシアとほぼ変わらない。
「石炭紀以降は三葉虫がこの系統しか残らなかったわけですから」
「シュードフィリップシアもリンギュアフィリップシアの系統の子孫ということですね」
「葉上さんのご研究も三葉虫の歴史の最後のほうを知るのにとっても役立つんですよ」
 そう言われて水槽の中のレイアウトに気付いた。
 白い砂の上に塊状のサンゴが置かれている。このサンゴ自体は現生種だが……、サンゴはシュードフィリップシアであれば休息したり身を潜めたりする場所として重要なはずだ。
 私がそういう観察をして、発表したことがある。
 しじみのほうに振り返ると、本当に心当たりがないという首の傾げかたをした。あの子の隠し事が見抜けないはずはない。
「大変、恐縮です」
「いえいえ。末期の三葉虫の飼育を手がけるかたってとっても少ないですから」
 実にそのとおりで、もっと華やかな三葉虫を飼っている人皆がシュードフィリップシアを見て怪訝そうな顔をするのを私も見てきた。
「葉上さんがどんなことに苦労して、どんな工夫が上手くいったか、私達も喉から手が出るほど知りたいんです」
 まさか今この場でそんなことを言ってもらえるとは。
 櫻田さんは相変わらず優しい笑顔を見せているが、目には熱が宿っている。
「頑張りましょうね」
「はい」
 ここに来てよかった。それに、しじみがついてきたおかげで櫻田さんと知り合えた。しじみ本人もそう思っているようでものすごく自慢げに笑っている。
 その後ろに小川さんもちゃんといるのに今ようやく気付いた。
「小川さん、虫が苦手なんじゃあ」
「三葉虫好きな人がいすぎて、なんか、慣れた」
 慣れた。
 櫻田さんと私にとって、虫が苦手だった人から得られる言葉としてはベストではないか。
「楽しむに勝る布教なし、か」
 しじみがなんだか分かったようなことを言う。
「そうですね、楽しくやっていきます」
「楽しんでいきましょ、櫻田さん!」
 しじみには櫻田さんの肩でも叩かんばかりの勢いがあった。
 わざわざ飼って、苦労して、何かが分かって、それが楽しい。
 今回の遠出で得られた最も大きな収穫は、この博物館に仲間が増えたことだった。
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