Lv100第六十四話
「ウンセギラとカイム -はるかとドリスとマルチェロ(九州ペンギンミュージアム歴史館その一)-」
登場古生物解説(別窓)
 閉館後の、しかもバックヤードだというのにこの水族館はやたらと賑やかで、ここに呼ばれてきて二ヶ月経ってもまだ慣れなかった。
 ガラスドームになった天井に響くのは人間の声ではない。
 地質時代の海鳥の声だ。
 今のペンギンとほぼ変わらないパラエオスフェニスクス、ペンギンモドキと呼ばれるコペプテリクス、巨大なペンギンのイカディプテス。
 特に古いペンギンのムリワイマヌはまだ非公開だが、裏では他と変わらずやかましい。
 ペンギンミュージアムと名付けられた水族館の、さらに歴史館と銘打たれた施設にはふさわしい音風景だろうか。
 ここまでは首長竜や恐竜が絶滅した後のもの。
 首長竜と同じ海に暮らしていたのは、ここで唯一飛べるイクチオルニスと、後ろ足で進むパラヘスペロルニスだけだ。
 それで、小型の首長竜、ドリコリンコプスの隣の水槽にいるわけだが。
「ギャアーッ!」「ジャーァッ!」「ギャアーッ!」「ジャーァッ!」
 二種が入り乱れて特に妙な鳴き声を立てるのだから困ったものだ。
 幸い、こうした我が物顔の大音声はもう予備水槽舎には響かなくなっている。
 飼育技師である私がここに来て初めてやったのは、予備水槽舎と本舎の間の大きな開口部を発泡スチロールで仕切ることだった。
 予備水槽を囲う通路にしゃがみ、手すりの土台からそっと目まで出して覗き込む。
 妊娠したドリコリンコプスのドリスが決して驚かないタイミングで。
 小舟のような濃紺の背が、平静に浮かんでいる。
 首長竜としては小型といっても、ドリスの口先から短い尾の先までは三メートルある。
 首は長くなくて分厚く肉が付き、全体が量感のある紡錘形の体をしている。顔はハンターそのものだ。細長く突き出た口には小さく尖った歯がずらりと整列し、真っ黒く丸い目が左右を見張る。後頭部は太くなって首に続く。
 四肢は全て、凶器の口を獲物に向かって鋭く突き進ませるための長く洗練された鰭である。首長竜の本当のアイデンティティは首ではなく、この鰭だ。
 ただし今ドリスは猛烈な躍動を見せることはなく、鰭をそっと前後に動かして水面をじわじわ進んでいる。
 そしてこれで良いのだ。
 来たるべき出産に備えて静かなところに……ドリスには「あまり生き物のいない沖合いだ」と認識していてもらいたいのだが……身を潜めているのだから。
 お腹の子は順調に成長しているはずだが、見た目には分からない。首長竜の骨はお腹まで厳重に形を固定している。
 水底に、先程ドリスが落とした糞が見える。
 そちらに向かって、そうっと、気付かれないようにゆっくりと、ホースをたらしていく。
 そしてポンプのスイッチに手を伸ばすと、糞は静かに吸い上げられていく。
 この糞に含まれるホルモンの変化からでないと、胎児の成長を確実に知ることはできないのだ。本当に子供を育てているのは私ではなくドリスだとはいえ、なんとももどかしいことである。
 それにもし無事産まれてからでも、ドリスが重大な不安を感じれば育児放棄もまだ充分ありえる。一度に一子だけを産み手厚く保護する習性のあるドリコリンコプスだけに、もし育児放棄されれば子供の安全は大きく脅かされる。
 以前、私が来る前に、ドリスが出産に失敗したことがあるように。
 とにかく、ドリスと子の不安の元は何であれ断つ必要がある。
 当時の海生爬虫類としては弱い存在で、だからこそ確実に子孫を残そうと懸命に生きている。八千万年ぶりに彼らが生きる場を与えてしまった人間として、その在り方に応えるべきだ。

 首長竜が専門の技師とはいっても、獣医がそうであるのと同じく、私も飼育員のひとりには違いない。
 ドリスに落ち着いて過ごしてもらうことができた今、慣れない海鳥の作業も獣医の長岡さんの指導により覚えつつあった。
 海鳥というのは、単に海の鳥類だというだけの呼びかたである。今私の前にいる史上最大級のペンギン、イカディプテスには、そんなのどかな海辺を思わせる言葉は少しも似合わなかった。
 鉄格子と透明なプラスチック板を隔てて、女性としても小柄である長岡さんをわずかに超える背丈のものが立っている。
 私達が近付くと、目線の高さからガンガンと激しく音が鳴った。そのあたりから餌が出てくるのを知って加減なく要求しているのだ。
 体つきや白い腹はペンギンそのものだが、サーベルのような長く頑丈なクチバシで武装している。もし直接対面してこのクチバシをまともに受けたら、人間の顔面はひとたまりもない。
 長大なフリッパーの力も全く油断ならない。短く見える足ですら強靭な爪を備えている。
 羽毛のない真っ赤な額に、鋭い目付き。ちょうど羽毛が生え変わる時期で、ぼさぼさと荒っぽい見た目になっているのも威圧的だ。
 首長竜以上に厳重な設備がなされているのにも納得の危険な鳥、文字どおり「猛禽」である。
 長岡さんはマルチェロが踏んでいる体重計の表示を記録すると、それ以上そちらにはかまわず、手に持った道具をカチカチ鳴らして場内に声をかけた。通常ペンギンにはあまり使われないクリッカーというものだ。
「サラー、サラおいでー」
 ペンギンといえども持ち上げるどころか同じ空間にもいられないイカディプテスの世話をするには、各種の合図を覚えさせる必要があるのだ。
 場内の陸場には土が敷かれ、鉢植えの木がまばらに並んでいる。鉢は擬岩に隠されて自然な感じになっている。
 その岩の間から、オスのマルチェロと同じ体格のメス、サラが現れた。
 べたり、べたりと、億劫そうに一歩ずつ近付いてくる。その間マルチェロが壁を叩く音を聞き流しながら待つことになる。
「換羽中だからねー、めんどくさいんだろうねー」
「あまり動かなくなるんでしたよね」
「ペンギンの羽は大事な潜水服!なのにその羽がダメだからねー」
 サラの背中もまた、乱れて白くなっていた。
 長岡さんはサラを待つ間にも手早く記録を付けている。
 じりじりとじれったくこちらに進んできたサラがステンレスのレールを踏み、さらにその先の黄色いラインを越えた。
「閉めてー」
「閉めます」
 スイッチを入れると展示側と寝部屋を仕切る自動格子がガラガラと音を立てて閉まっていく。
「はい、オッケー」
 猛獣並みの収容作業と設備である。
「マルチェロー、マルチェロほら」
 長岡さんは、餌をせかすマルチェロに指し棒のようなものを見せた。先には赤い玉が付いている。これも普通ペンギンには使わないターゲットという道具だ。
 マルチェロはすぐにそれに注目し、口を開けてみせた。長岡さんがすかさず覗き込み、手早く用紙に記入する。健康状態のチェックだ。
「はいっ」
 長岡さんの合図とともに、鉄格子に付いたポケット状の餌入れにイカをすべり込ませる。
 餌入れを向こう側に押し込むと、マルチェロは眼前に現れたイカを瞬時にくわえ上げて飲み込んだ。
 マルチェロの集中力が途切れないうちに次に移る。
 長岡さんは再びターゲットを見せると、ターゲットもろとも体を目一杯かがめ、ほとんど這いつくばった姿勢になる。
 マルチェロはまずターゲットの指した右足の裏、次いで左足の裏を長岡さんに見せた。
 合図を受けて再びイカをマルチェロに。
 二杯のイカを呑んだマルチェロは目を細めて首を縮めた。体重計からはもう動かない。
 サラももう一方の体重計に呼び寄せるのだが、これがなかなかクリック音に応じない。催促もしてこず大人しいのは単に換羽の影響で食欲がないだけであり、かえって非協力的で厄介なのだ。
「これは足優先だねー」
 そう言って長岡さんは最初からかがみ込み、サラの足元をターゲットで指した。
 長岡さんはなんとか両足の裏を見ることができたが、サラはそれ以上ターゲットに興味を示さなかったので口の中を調べることはできなかった。
「足が見れただけで感謝かなー」
 首長竜であれば足に当たる鰭はたやすく見えるし、むしろわずかな時間しか開かない口の中こそ見逃さないようにしなければならない。ペンギンはその逆のようだ。
「海鳥は足の裏の病気が重要なんでしたね」
「そうそう。趾瘤症(しりゅうしょう)だねー。運動不足で足の裏のイボがひどくなる病気。だからほら」
 イカディプテス達を寝部屋に収めて健康チェックをした後は、展示側の清掃である。
 柔らかい土を敷き詰めているため足に負担をかけず、趾瘤症の予防になる。一方、糞で汚れた土の交換が欠かせない。
 ほうきとちりとり、たわし、替えの土の袋を用意。
 場内の鍵には、鍵そのものよりずっと大きな札が付いている。
 札の質問を長岡さんが読み上げ、私が答える。
「・イカディプテスはみんな寝部屋にいますか?・イカディプテスがみんな寝部屋にいる場合は仕切り扉が閉まっていますか?・イカディプテスが場内にいる場合はヘルメットと防具を身に着けましたか?」
「はい。イカディプテスはみんな寝部屋にいます。仕切り扉は閉まっています」
 こうしないと場内に入ってはいけない。寝部屋の鍵にも少し違う質問の札が付いている。
 鉢植えを囲む擬岩はいくつもあり、その間を縫う土の道を残らずチェックしていく。糞が土に付いていれば土を交換し、擬岩に付いていればたわしでこすり落とす。
 陸に上がることのない首長竜なら必要ない作業だ。
「ペンギンは不便ですね」
「ん?」
「陸に上がらないといけなくて」
 あまり良くないことを言ってしまったと、つい口に出してから気付いた。ドリスの出産を控えている不安のせいだろうか。
 長岡さんが怒っても仕方がないことだったのだが、長岡さんは、あーっ、と声を出してから、
「その発想はなかったなー……むしろ便利ですごいと思ってた」
 こう答えたのだった。
「便利?」
「泳ぐのも歩くのもそこそこ上手くて。カメとかアシカとかみんな歩くのはもっと下手だから。あ、そっちお願い」
 話し続ける余裕はあまりなかった。
 私から見ると、ペンギンが歩けるのは卵を産む必要にかられて持たざるを得ない能力に過ぎなかったのだが。
 場内の、擬岩と植木に囲まれた空間は案外静かだった。寝部屋もひっそりとしている。ドリスのいる予備水槽と同じと言えば同じだ。
 他の動物の目が届かない場所が必要なのは陸に上がろうと上がるまいと変わらないのか。
 歴史館で一番数の多いパラエオスフェニスクスの声が聞こえる。
 不便なペンギンのほうが、不便でないドリコリンコプスより順調に繁殖している。陸に上がらなければならないのが良くないとは言えないようだ。

 翌日。
 展示水槽側にいるドリコリンコプスの給餌は、展示の一部として十時と二時に少しずつ行われる。
 冷凍されたアジから固くとがったぜいごと鰭を切り取り、鰓蓋に栄養剤を詰める。ペンギンに与えられているものとほぼ同じで、特に好物で気を引く必要がないときの主食となる。
 これを直接ドリコリンコプスの口に手渡すことはない。
 展示水槽の中ではロレッタ、ジュード、ビルの三頭が、鰭をはためかせて注意深く徘徊している。獲物が「現れる」のを見逃さないようにだ。
 どこから現れるか。水槽の端から底まで続き、水槽の出水口の力を利用して底から水を吹き出している樹脂の配管からである。
 そのうちの一つに、脇腹の白が目立つジュードだけ寄ってきた。
 食いしん坊のジュードを先に満足させるチャンスだ。
 所定の料を配管に落とすと、アジは沈んで水流に乗り、ジュードの真横に放り出される。
 暗い水底に現れた銀のきらめきを、ジュードの黒い瞳が見逃さない。
 ジュードの体が鰭の力で飛び出し、長い口先が突き出てしなやかに振り回される。
 ばらばらだったアジの大半を一息で捕えてしまった。
 鼻先が黒っぽいロレッタと、右前鰭の先に白い点があるビルもその様子に気付き、動きが活発になる。
 二対の鰭がリズミカルに羽ばたいて水を切り、三メートルの体が水中を目まぐるしくうねる。放っておくと水槽に渦潮ができてしまいそうだ。
 これが活発な捕食者であるドリコリンコプスの本来の泳力である。
 決まった量を食べさせるには、一頭ずつタイミングよくやらなくてはならない。
 ロレッタから見える位置の吹き出し口へ。
 餌はうまくロレッタの眼前に現れ、ロレッタも勢いよく突進してくる。
 しかしロレッタが取りこぼした分を、横からジュードが持っていってしまった。
 ジュードがそれですっかり満足してしまったので、ビルには難なく餌があげられたのだが、ロレッタの不足分は今回補えなかった。次に多めにあげることになる。
 さて、記録と他の作業をこなしていると一時間や二時間はあっという間に経ってしまう。
 その間、三頭とも逃してしまって底に残ったアジは食べられない。活きが悪いと判断されているのだと思う。
 十二時。潜って作業をする時間である。
 ペンギンのときとは逆に長岡さんが上で見ている。
 ウェットスーツを着込んで潜ると、比較的高い水温とはいえひんやりとして感じられる。
 驚く来館者の顔が展示窓からいくつも見える。親子連れの親がこちらを指差し、子供を驚かせている。
 私がドリコリンコプス達に食べられてしまう心配でもしているのだろう。
 来館者はこの歴史館に入る前に、羽毛恐竜の潜むジャングルになったケージを通り抜ける。ジャングルの次はこの大水槽に圧倒され、ドリコリンコプスを海の怪物だとでも思っているのだ。
 確かに、展示ストーリー上ドリコリンコプスに与えられた役は「白亜紀にペンギンの祖先を圧迫していた海の支配者」だし、私も三頭を刺激しないよう、水中をゆっくり動いて食べ残しを拾っているが。
 目立たないようにやってもジュードの目は誤魔化せない。ジュードの起こす水流が後頭部をかすめて振り返った。
 来館者はすくみ上がっているのだろう。
 私は、腰の入れ物から食用アンモナイトを取り出し、殻を見せつけてやればよい。
 ただし、最大限の観察力で。
 ジュードはプレゼントを喜ぶように口を開いた。
 その瞬間に集中し、口の中を睨む。
 暗い水底でも異状の有無を見逃さない。
 右の奥、歯が一本抜けていたところに新しい歯が生えてきている。
 ジュードはすぐにその口をすぼめてせり出し、殻に歯を引っかけて奪おうとする。用は済んだので、素直に明け渡してやった。
 アンモナイトを殻から噛んでしまったジュードはそれを一旦離し、口の先で弾いて器用に回転させた。
 そして殻の口から出ている身に噛み付いた途端、首をたわませて振り回した。
 しっかり固定されていた身が殻から引きちぎられ、ジュードは獲物の美味しいところだけをくわえて去っていく。殻は水面に浮かんでいき、それに気付いたロレッタとビルにも二頭の分のアンモナイトを見せてやる。
 水槽の外の来館者もやわらいだ表情をしているようだった。
 ドリコリンコプスは優れた捕食者だが、それは来館者の頭上に吊り下げられた長大な骨格の持ち主、ティロサウルスのような、本当の海の支配者としてではない。小さな魚やアンモナイトを抜け目なく捕える、素早い中間捕食者としてである。
 この水槽の前から順路に進むと、まだ公開できていないムリワイマヌの水槽を挟んでイカディプテスの水槽がある。
 あれも泳いでいたら海のハンターに見えるのだろうか。

 数日経ち、水槽内の作業が済んで別の作業に移ったときのことだった。
 バックヤードの通路を早足で通り抜けようとしていた私の目に信じがたいものが飛び込んだ。
 イカディプテスの場内、木々の合間に、黒くて私より少し低い頭が見えたのだ。
 長岡さんがヘルメットもせず中に立っている!
「長岡さん!?」
 慌てて声をかけると、その頭が振り向いて長いクチバシが現れた。
「わ」
 頭の主は、長岡さんと同じくらいの背丈のマルチェロだったのだ。
 背後にゴム長靴で駆けつけた長岡さんの気配があった。
 振り向いたとき、長岡さんは口の前に右手を突き出し、左手を反らしてお尻に付けていた。
「僕マルチェロだペン」
「ペンって」
「長岡さんと中身が入れ替わったんディプテス」
「ディプテス」
 ドリスの出産が近付きつつあるこのときに、長岡さんの揚げ足取りのようなジョークは心にこたえた。
 こたえたが、出産間近だからこそ、心を乱してはいけない。
 少しのトラブルでも排除しておきたかったのだとか、本当に異変があって呼んでいるのだったらどうするのだとか。
 もし仮に例え話として、怒鳴りつけたいくらい強く思っていても、そうしてはいけない。
 私は深く息を吐いて、とりあえず、おちょくられ続けそうなネタをこの場で破壊することにした。
「マルチェロの羽の抜けかたがですね」
「うんうん」
「頭のてっぺんだけ残ってるじゃないですか。それで髪の毛に見えたので」
「分かる分かる」
 長岡さんは私の言い訳を受け流し……、というより、換羽の進み具合のことを聞いて、マルチェロのほうにだけ視線を注いだ。
「もう古い羽は頭にしか残ってないね」
 それは、マルチェロ自身の足やクチバシが届きやすいところはすっかり換羽が終わったということだった。
「またすぐ潜ってくれるよー」
 マルチェロの様子を書き留める長岡さんは満足げに見えた。
 トラブルはなく、生き物の様子は順調である。それが何よりと言うべきところだ。

 翌日にはもう長岡さんの言うとおりになった。
 展示側から水槽の三頭の状態をチェックし、記録が終わろうとしていたときである。
「あーっ、こっちにもデカいのいるーっ!」
 順路の先から男の子の声が上がった。
 ここの水槽は高さがあるので、水槽の中が見えるフロアからは陸がよく見えない。
 振り向くと、まさに巨大な陰が水中を駆けていた。
 あんな首長竜いただろうか。後ろ足の鰭を畳んで泳いでいる。
 一瞬そう思ってしまった。
 イカディプテスのペンギン離れした巨体を再び別のものと見間違えたというわけだ。
 しかし、潜っているのが換羽を終えたマルチェロだと分かっても、まだ首長竜じみたものを感じずにいられなかった。
 大きさもさることながら、ドリコリンコプス同様に長く突き出した口、流線型の体。
 力強く羽ばたいて鰭が水を切り、体を揺らしながら進める。
 鰭が一対だから少しシンプルな動きだ。首長竜とペンギンの泳ぎかたの違いとはそういうものだったのか。
 背中から細かな気泡が止まらず湧き出てくる。
 これが新しくなった羽衣の働き、冷たい水から身を守るために羽の間に余分に蓄えた空気が漏れているのだ。
 背中から何十もたなびく泡の筋により、ちょっとコミカルなほどにスピード感を見せつけてくれる。
 イカディプテスもまた間違いなく、優れた海のハンターだと確かめられた。
 こっちに「も」大きいものがいると、先程の男の子は言った。
 ドリコリンコプスとイカディプテスは、首長竜が絶滅しペンギンが大きくなるという海の主役の交代劇を演じることができている。
 これからはペンギンのことを少し違った目で見ることになりそうだ。
 首長竜が専門なのにペンギンだらけのこの水族館にいることで落ち着かない気持ちになるのを、避けられるくらいには。
 マルチェロが換羽を終えて潜るようになったことを自分のノートに書き留めておく。
 すると、順路の先から早足で長岡さんが現れた。
「マルチェロ、しっかり潜るようになりました」
「見ててくれたんだー。なんか逆になっちゃったみたいね」
 逆ということは、長岡さんがドリコリンコプス……妊娠したドリスの様子を見て、何か気付いたのか。
「これ、糞の数値」
 長岡さんが渡してきた紙は、前日までとは全く違う段階に入ったことを知らせていた。
「これだと、すぐ……今夜にでも産まれます」
「やっぱり」

 首長竜の胴体の骨格はリジッドすぎて胎児が大きく成長しても目に見えては膨らまない。
 それは同時に、妊娠中も出産時も母体への負担が大きいということでもある。落ち着いて過ごせる静かな環境が必要だったのはそのためだ。
 さらにそのことが、二つの並立してほしくない困難を生み出す。
 首長竜の出産は難産であり、なおかつ、母親の混乱を招くような手出しができない。
 ドリスが暗い水槽の中でいくら落ち着かなさげに水面を動き回り、尾の付け根の総排泄孔から赤黒い体液を漏れ出させていてもである。
 私にできるのは、誰も予備水槽に不用意に近付かないよう連絡を徹底すること。
 そして、水槽側面の小さな観察窓にパイプ椅子を置いて貼り付き、水上のマイクからの音声をイヤホンで聞いて、様子を全て記録することだけである。
 閉館前から始まった観察は数時間に及び、時刻は深夜に迫りつつあった。その間、ドリスの動きに大きな変化はなかったのだが。
 不意に、ドリスがびくりと動きを止め、体液の煙幕が一際大きく上がった。
 子の尻尾、さらに後ろ足の先が現れたのだ。
 まだ何も達成していない!私は自分に強く言い聞かせ、喜びで目が曇るのを抑えた。
 それから三十分かけて後ろ足全体、そして脇腹全体が出てきても、同じことだ。
 これは母子ともに命を危険に晒すとんでもない行為の真っ最中なのだ。
 今にも前足が総排泄孔の中でおかしな引っかかりかたをして、子を諦める羽目になりドリスまでも瀬戸際に立たされるかもしれないのだ。
 その前足が付け根から先にずるり、ずるりと抜け出してきても。
 とうとう先まですっかり現れ、残るはすんなりとした首から先だけになっても。
 イヤホンから聞こえてくるドリスの苦しそうな息継ぎの声は変わらないのだ。
 子の顔が薄闇の中に初めて現れ、あたかも出産に成功したかに見えたとき。
 私はむしろぞっとした。
 ドリスがこの子を押し上げて息を吸わせるのに失敗するかもしれない!
 だがドリスは、行動でもってその恐怖を晴らした。
 すかさず潜ってきたドリスは、頭に子を載せて再び水面に向かった。
 イヤホンからドリスより高い息継ぎの声が聞こえる。
 いいや、まだだ。ふとした拍子に何が起こるかも……、
 右肩を静かに叩かれた。
 驚きも押し殺して振り向くと、唯一この観察窓に近付いてよいことになっていた長岡さんだった。
 峠を越えたので負担の大きい役を代わってくれるのだ。
 長岡さんなら、ここから先の記録を任せても大丈夫だ。
 私はそっと椅子を退いたが、それ以上動き回ることが考えられなかった。
 別の椅子に座り込み、そのまま意識を失ってしまった。

「おはよーございまーす……」
 今どき珍しい寝起きドッキリのような囁きで目を覚ましたが、そこが物音を立ててはいけない場だということは忘れていなかった。
 長岡さんがそんな呑気な起こしかたをしてくるということは。
 私は節々の痛む体を押して、よろめきながら観察窓に取り付いた。
 斜めに差し込んでくる朝日の中、ドリスと子は並んでゆったりと泳いでいる。
 子はドリスの全長の四割ほどもある。本当によくこんなに大きな子を腹に納め、産んだものだと思う。
 気を抜けないことそのものは変わりなかったが、その意味は昨日までとも昨晩とも違っていた。
 ドリスの子がミュージアムで生まれた命の仲間入りを果たした、全く新しい朝だった。
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