Lv100第五十二話
「シーサーペント -鈴音と麻理恵とモリー、アクアサファリわかやま(ジュラシックアイランド)-」
登場古生物解説(別窓)
   解説員として研修を受けて数ヶ月。
 先輩の静川さんがジュラ紀の生き物の食事を解説するので、私はそれに間に合うよう順路を急いだ。
 一週間もすれば私もその解説を行うのだ。
 三畳紀のジャングルと浜辺を抜け、プラコドゥスが貝を噛み割る音を聞き、ウタツサウルスやユングイサウルスの泳ぎを横目で眺める。
 皆元気なのに安心しながら、ジュラ紀の始まりを告げるトンネル水槽へ。
 眩しい光の中でいくつもの丸い影が漂う。
 手の平に三匹も乗りそうな可愛らしいアンモナイト、プシロセラスだ。こう見えて三畳紀の終わりに絶滅しかけたアンモナイトの命脈を保ったたくましい種でもある。
 さらに、いかにもジュラ紀というべきシルエットが左から頭上に迫る。
 真っ直ぐな棒のような体幹。半分は首、後ろ半分は少し太くなった胴体。四つの鰭がゆるやかなリズムで振り下ろされ、軽々と体を進めていく。
 首長竜の代名詞であり先駆者のひとつでもある、プレシオサウルスだ。
 槍の穂先にも見える小さな頭があり、唇のない口には細い歯が生え揃っている。右の前歯が一本少し傾いていることから、二頭いるメスのうちサリーだと分かった。
「わあ……」
「やっぱ大きいね」
 全長三メートルほどの細長い体は特大とは決して言えないものの、来館者の静かに驚く声がなにか嬉しい。
 奥からジョンとメアリーも追ってくる。といってもプレシオサウルスの場合、群れとしての行動ではなく餌の時間を察してのことだろう。
 トンネルは大きな岩の中に続く。これは海底から屹立する島なのだ。
 足元は黒みがかった石材、しかも実物。
 それによく似せた擬岩が、縦に大きく開いた窓を縁取っている。
 八方をぐるりと水に囲まれた空間。床の直径が二十メートルはある。
 高さもそのくらいあるのだが、部屋全体が先を切った筍のようにすぼまっていて、水が覆いかぶさってくるかのようだ。
 その周囲を、先程のプレシオサウルスと同等か一回り大きな動物達が十頭、そしてたくさんのイカらしきものと魚が、自在に泳ぎ回っている。
「海の中に閉じ込められちゃったよ!」
「大丈夫だよ、島の中だから崩れないよ」
 慌てる子供の声が響き、親がなだめる。
 三畳紀の海中トンネルと違ってここでは声が反響する。ますます本当に閉じ込められたような気がするだろう。
 右手の水槽の底は室内の床と同じ高さで、ところどころに岩がそそり立ち、変化に富んだ地形をなす。
 左手側は、底の斜面がずっと向こうまで続き、水面を波が強く揺らしている。
 床の中央には三畳紀のラボと同じような、化石の展示スペース、ジュラ紀のラボがあり、さらにその上は水槽を観察できる丸いデッキになっている。
 デッキに上がると、すでに静川さんが中心でマイクを持っていた。
 私は来館者の邪魔にならない、というか全体を見渡せる隅の方に立つ。
 すると、背後から肩をぽんと叩かれた。
「よっ。私もお隣いいですかなっ」
 爬虫類チームの飼育員の安中麻理恵さんだった。私とそんなに変わらないくらいの年齢で、小柄ながらちょっと頼もしい体つきをしている。
「あ、はい。もちろん」
 食事の様子を観察することで動物達の体調管理に役立てるのだ。胸にはタブレットを抱え、耳と口元にはインカムを付けている。
 来館者はデッキの上にもラボを囲む観覧通路にも集まっていた。
「ジュラシックアイランド内部にお集まりの皆さん、これよりフィーディングタイムを始めたいと思います。お相手は解説員の静川、そして、この島の周りに生息している、ジュラ紀の海の動物達と、彼らを調査している調査員達です」
 静川さんの流暢で落ち着いた解説が始まった。
 イベントでは解説の内容まで、ここが野外だということにする姿勢を崩さない。よって飼育員も「調査員」と呼ばれることになる。
 小さな子供達は緊張したりすごいと騒いだりしているが、人工の施設だと分かっている大人達はリラックスした笑顔だ。
「ここは後にヨーロッパになるたくさんの島のひとつをくり抜いた観察基地です。隣の島に続く浅い内海と、広く深い外海で暮らす動物達を見ることができます」
 内海によくいるのは三種類、それぞれ異なる体型をしている。
「水上にいる調査員も餌の準備ができたようです。四種類の動物達はどのようにして獲物を捕えるのでしょうか」
 隣の安中さんがタブレットを構えた。水上との通信と食事の記録を行うので、もう話しかけてはいけない。
「まずは最もよく見られる、クリプトクリドゥスです。長い首があることから分かるとおり、首長竜の仲間です」
 五頭もの群れをなしているのですぐに見付かる。親のデズモンドとモリーを先頭に三頭の子供達、ヴェラ、チャック、デイブが続いて群れを作っている。
 プレシオサウルスに似た首長竜然とした姿だが、色がやや明るく、プレシオサウルスと比べて少しずんぐりとした印象を与える。顔から首筋、脇腹にかけて黒い筋が走る。
 人の頭ほどのものが水面から三つ投げ落とされた。
「アンモナイトだ」
「中身食べるのかな」
 しかし、その殻には軟体部がない。よく見れば口に海藻でゆるく柵を作ってあるのが分かる。
 クリプトクリドゥスの群れはすかさず鰭を振り、殻に急接近した。
 殻はごくゆっくりと沈み、わずかな水流に漂いつつあった。
「アンモナイトの殻が海に入ってきました。この殻の中にはクリプトクリドゥスの餌が詰まっています」
 一番大柄なモリーが先陣を切って殻をつつくと、口からピンク色のかけらのようなものがこぼれ出てきた。
 モリーはピンクのかけらを水ごとくわえ取った。だが水まで飲み込んではいない。
「クリプトクリドゥスが食べているのは小さなオキアミです。小さな生き物はたくさんいる代わりに一匹ずつ捕まえるのが大変なので、クリプトクリドゥスは水ごと口に貯めて、びっしり生え揃った歯で餌だけを濾し取るんですね」
 デズモンドや子供のクリプトクリドゥス達も、顔面でアンモナイトを押しやってオキアミを食べている。
 アンモナイトはあらぬ方向に弾かれることがあり、長くてあまり曲がらない首を振り回して追いかけるのはなかなか大変そうだ。
 これもいい運動になっているのだが、少し不器用なクリプトクリドゥスの様子は来館者には微笑ましく映るようだ。
 いつの間にかクリプトクリドゥスの群れの周りに、イカのようなものと、大きな魚が群がって来ていた。
 イカの腕や鰭は光に透けるが、胴体には濃い影ができている。
「食べこぼしのオキアミを狙って他の生き物も集まってきました。イカのようなものはイカの祖先に近いベレムナイトという生き物で、ベレムノテウティスという種類です」
 実際にはこれらにも行き渡るようたっぷりと与えられているのだ。
「魚のほうは、マグロとは他人の空似のヒプソコルムスという魚です」
 ヒプソコルムスのスマートな鰭や紡錘形の胴体はマグロによく似ている。顔付きや、背中が出っ張っているところはむしろサケを思わせる。大きいものは一メートルはある。
 ヒプソコルムスがベレムノテウティスを押しのけたりもしているが、和やかな食事が繰り広げられているように見えていた。
「さて、ここにはもう一種類首長竜がいますが、どれがそうなのか分かりますでしょうか」
 静川さんがクイズめいた問いかけをするが、図鑑を読み込んでいる子供か、図鑑で育った大人でなければこれは分からない。
「首長いやつ一種類だけだよね?」
「大きいのと小さいので違うのかなあ」
 観光でやってきた大半の来館者は戸惑っている。ちらりと隣にいる安中さんの横顔を見てみると、なにやらにやにやと笑みを浮かべていた。
「ヒントは、首ではなく鰭です」
 するとクリプトクリドゥスの群れより手前を、大きな影が横切った。
 思わぬ乱入者に驚きの声が上がる。
 オウサマペンギンにマレーガビアルの頭を付けてフリッパーを前後二対に増やしたような、ラグビーボール形の生き物。
「あれだ!首長いやつと鰭が一緒だよ」
「首短いじゃん」
「他のはもっと短いよ」
 そんなやり取りも聞こえてくる。
「ちょうど近くに現れましたね。首の短い首長竜、ペロネウステスです!」
 へえ、という声と、えーっ、という声が上がった。
「首みじ竜じゃん!」
 男の子が叫んで、その周りで笑い声が上がった。
 安中さんもくすくす笑ってしまっている。
「はい、首長竜のことを本当はプレシオサウルス類って呼ぶべきなんですけど、昔の人がプレシオサウルス類は首が長いのが普通だと思って首長竜って呼ぶようにしちゃったんですねー」
 来館者は笑っているものの、プレシオサウルス類と言うとプレシオサウルスにごく近縁な種しか含まないようにも聞こえるのがまた厄介だ。
 今横切ったのはオスのロッキーだ。ミッシェルとギデオンもクリプトクリドゥスの群れを外側から見ている。
 餌の時間なのは気付いているが、アンモナイトから小さなオキアミしか出てきていないので取りに行かないのだ。
「ペロネウステスも空腹のようですね。争いにならないようにクリプトクリドゥスから離しますので、水槽右側をご覧ください」
 再び、三つのアンモナイトが投げ込まれた。しかし今度は真っ直ぐ沈んでいく。
 水底に転がるとすぐさま、突進してきたロッキーが口先で突き飛ばした。
 ゴルフボールほどの、丸いベージュ色のものがいくつも殻口から転げ落ちる。
 ロッキーは一つつまみ上げると、頭を上に振ってそれを奥歯でくわえ直し、力を込めて噛み砕いた。
 そのスピードとパワーに、皆が驚き唖然とする。
「今ペロネウステスが食べたのはツメタガイという巻貝です。ペロネウステスは小さな餌を集めるのは苦手ですが、代わりに少し固いものでも食べることができるんです」
 そうしている間にミッシェルとギデオンが別のアンモナイトをつついていた。
 そちらからはイカやアジを細切れにしたものが出てくる。噛み砕く必要もなく、口先でつまみ取っては飲み込んでいく。
 三頭は代わる代わる三つの殻をつついては餌をつまみ上げる。
 クリプトクリドゥスと比べるとかなり身軽で、アンモナイトが遠くに転がりそうになってもすぐに追いついて弾き、巧みな動きでどんどん餌を平らげる。
 来館者は、大きくて滑らかな動物が軽やかに動く様子に嘆息を漏らして見入っていた。
 食べこぼしを狙う魚は、クリプトクリドゥスのときとはまた違った種類だった。
「サンマがいる」
「サンマ鎧着てる。角も生えてる」
「ジュラシックサンマだ」
 来館者が魚のことをサンマと呼び立てる。大きさといい体型といい、確かによく育ったサンマに見えなくもない。尖った鼻先はカジキに似ている。
 体が細い分ペロネウステスの間をかいくぐりやすいのか、かなり積極的にアンモナイトに迫っていく。
「鼻先の尖った魚が集まってきましたね。アスピドリンクスといいます。ジュラ紀にはこういった鎧のような硬い鱗の魚が色々生息していたんです」
 大きなペロネウステスとたくさんのアスピドリンクスがアンモナイトに群がり、いかにも水族館のフィーディングタイムという騒ぎになった。
 その周りを先程のペロネウステス達自身のようにうろつく生き物がいる。
「浅いほうにいる三種類のうち残った一種類は、ワニです!海に適応しきったワニの、メトリオリンクスです」
 ワニと呼ばれた二頭、ムンチャとサンチャは今のワニと似ているような似ていないような、おかしな姿をしている。
「えっ、あれワニだったの?」
「デカいダツだと思ってた」
 細長い口、少し膨らんだ円筒形の胴体、長い尾はワニらしいかもしれない。
 しかしその尾の先には三角の尾鰭があるのだ。
 目は頭の上ではなく横に付いているし、背中に鎧はなく、つるりとした皮膚に覆われている。
 申し訳程度の前脚は脇腹に畳まれ、それと不釣り合いにしっかりした後ろ脚の大きな水かきが広がっている。背中は真っ黒く、腹は白い。
 尾を力強く振るい、水かきでバランスを取って泳ぐ様はまさに陸を捨て海で暮らす動物そのものだ。
「ワニもずっと泳いでるとあんなんなっちゃうんだー……」
 来館者もこの不思議に触れて呆気に取られている。
「メトリオリンクスもチャンスをうかがっていますね。メトリオリンクスは首長竜ほど泳ぎが上手くはありませんが、その分さらに何でも食べることができます。例えば……」
 水中に最後のアンモナイトが飛び込んできた。それも、十個ほど。
 中身は正真正銘、殻の持ち主の頭足類である。食用に養殖されたペリスフィンクテス。
 メトリオリンクス達は突然槍のように飛び出し、ペリスフィンクテスを奥歯でしっかりとくわえ込んだ。
 そして乱暴にそれを噛み砕き、かけらを辺りに撒き散らした。
「アンモナイトの硬くて頑丈な殻も、割って中身を食べてしまいます」
 静川さんは声のトーンを一段落として言った。
 ついさっきまでこそこそと残り物を拾っていたメトリオリンクスに、来館者は驚きと賞賛の声を上げた。
 ペロネウステスのミッシェルもペリスフィンクテスに一瞬興味を示したが、すぐにツメタガイよりずっと面倒なものだと気付いて、メトリオリンクスのムンチャに明け渡した。
 内海の三種が多様な採食行動を見せている間に、外海ではそっと照明が抑えられていた。
「今までの三種類は浅い海を好んでいますが、もちろん反対側の深い海にも動物が暮らしています。ジュラ紀の海で最も泳ぎが上手い、魚竜のステノプテリギウスです!」
 静川さんが手を外洋側に差し向け、来館者も振り向く。
 しかしステノプテリギウスの姿はすぐには見付からない。外洋の水槽は広大なのだ。
 茫洋とした水槽の薄闇に、ぽつんと白い点が現れた。
 と思った瞬間、黒い影がそれをかき消した。
 スポットライトを当てられた丸ごとのイカを、ステノプテリギウスがすかさずさらっていったのだ。
 少し離れたところにもう一つ、またすぐに消える。今度のがメスのメイなので、先のがオスのセラだったとようやく分かった。
「ご覧になれましたでしょうか。ステノプテリギウスはマグロやサメそっくりの体付きのおかげで、ワニや首長竜よりずっと速く泳ぐことができるんです」
 目が慣れるとステノプテリギウスの姿が捉えられるようになる。
 静川さんの解説のとおり、高い背鰭と三日月形の尾鰭のある紡錘形の体はホホジロザメそっくりだ。ただし先頭は三角の鼻ではなく細長いクチバシで、そのすぐ後ろには黒く丸い目がある。
 ステノプテリギウスはイカが照らされて初めて動くのではなく、イカが落とされたときにはもう気付いてそちらに向かい始めているのだ。
 首長竜やワニとは次元の異なる、まさに狩りと言うに充分な食事に、来館者は静かに圧倒されていた。

 フィーディングタイムは終わり、静川さんも従業員通路へ戻っていったが、私はジュラシックアイランドに残っていた。
 飼育生物を説明するアプリや冊子は配布されているものの、解説員が直接質問を受けることもよくある。
 特に魚や頭足類に関しては、アプリや冊子の解説がまだあまり充実していない。
 タブレットにはフィーディングタイムの解説の台本と、安中さん達飼育員や研究員から聞いた話のメモを表示させている。
 自分が解説を行うときのために、これらを復習しておきたい。
 メモの中でも特に私の注意を引くのが、アンモナイトの殻を使った給餌方法が生まれるまでの話だ。
 これは十年前に取り組みが始まり、数年前ようやく使い始められたものだという。
 それまでは単に水面に直接餌を撒くようにしていた。しかしこれでは首長竜もワニも魚竜も皆上を向いて餌をくわえ取るだけで単調になってしまう。
 しかし、それぞれの種に固有の動きを引き出してやることで、充分な運動を取るという飼育上の必要と、充実した観察の成果を得るという研究上の必要を満たすべきだと指摘されていた。
 また、当時はイルカのようなパフォーマンスをしないのかという来館者や観光・交通関係の各団体からの声を抑えるのが難しかったという。
 そこで、動物園で行われているように、何らかの容器に餌を入れ、動物自身が容器を揺らすことで餌が出てくる、いわゆるフィーダーを導入することになった。
 最初に試されたのは柔らかい樹脂のボトルだが、これはすぐに却下された。
 作り込まれたジュラ紀の世界ではボトルはあまりに不自然に見えた上、すぐにペロネウステスの鋭く強い歯に引き裂かれてしまうのだ。これでは誤飲の恐れもある。
 そのため、見た目に自然でなかなか壊されない大型のアンモナイトの殻を用いることが決まった。
 殻にボトルを突っ込むのが使いやすいと思われたが、器用なペロネウステスはこれも引き抜いてしまうのだった。
 また、アンモナイトの殻は半分近くが浮き袋の役目をする空洞になっているので、浮力の調節にも課題があった。
 改良を重ねて完成したのが、殻の何ヶ所かにドリルで穴を開けたものだった。
 餌を詰めたら、口に沿って開いた穴に近海の海藻を結び付けて、餌が徐々に出るよう緩い柵を作る。海藻が取れてしまっても生き物達に害はない。
 浮力を調節するには、空洞部分に穴を開けて水を入れてやればよい。
 生き物が作る不均一なものを充分な数用意して穴を開けるのはボトルを使うより大変だが、この方法なら生き物達の様々な動きを引き出し、不自然なく来館者に見せることができる。
 アンモナイトの殻から関係ない餌生物が出てくるのはややシュールだが……。
 ――という飼育員や研究員の努力に関して、全く触れることなくフィーディングタイムが行われている。
 体格や模様、歯並びといったちょっとした違いで私も静川さんもすぐに個体を識別できるのに、フィーディングタイムではそれを語る機会はない。
 そもそも静川さんが行った解説の原稿自体、ここが本当にジュラ紀の島の中だという設定で書かれている。
 安中さん達の努力やクリプトクリドゥス達の実際の生活について伝える場にはなりえないということだ。
 多くの来館者を一度に相手にするイベントでは、施設自体のコンセプトである臨場感は覆せまい。
 フィーダーの話は館内解説用のアプリや冊子から読める記事としてまとめるのがいいか。この工夫の話は隠しておくには惜しすぎる。
 ついフィーディングタイムのことが置き去りになってしまう。一人で考えているせいに違いない。食後の動物達の様子を見ているはずの安中さんに声をかけるか……、
 場内を見回しても安中さんの姿が見当たらない。そう思った次の瞬間だった。
「どこを見ている……」
「後ろ!?」
 なぜか背後の隙を突かれていた。
「いや、あの、仕事中ですからね」
「なんかキツそうな顔してると思ったら私を探してるっぽかったから……」
 来館者の前に出る立場でいながらそんなに表情に出ていたとは。指摘してもらって助かったと言わざるを得ない。
「それにしてもあれだね、フィーディング終わっても残ってくれてる人が多くてありがたいね」
「そういえばそうですね」
 水族館のイベントが終わった後といえば、順路に多くの人が流れて混雑するのが普通だ。
 しかし、場内を見下ろすと、デッキから降りた来館者の半分近くはジュラシックアイランドに残り、観察を続けていた。
 統計データ上も、このイベントの後は水槽を見る時間が長くなる傾向があると出ていたはずだ。
「やっぱステノが人気だねー」
 外海の水槽はもう明るくなって、泳ぎ回るステノプテリギウスの姿がよく見えた。
「速いねー!」
「これが一番かっこいいね」
 そんな声が聞こえる。
 私は、タブレットに表示させた安中さんから前に聞いた話のメモを見た。
「安中さんは、ステノのことを「泳ぐことしか頭にない」って言ってましたね」
「まあね。そこが可愛いよね」
 ああ、来館者とは違って可愛く見えるのか。
「鈴音ちゃんはお気に入りってあるのかね」
「なるべく平等に見ようとしてるんですが……、」
 もし一番を選ぶとしたら、私の狙いは定まっていた。
「クリプトです。プレシオに似てるのに泳ぎ方が力強いのが面白いです」
「そこかあ」
 安中さんはにやりと笑った。
「クリプトは骨とかもプレシオよりがっしりしてるから鰭が強いんだよね。骨格のことはそっちのほうが分かるかもしれないけど、プレシオだとフィーダーを変なほうにやっちゃって追っかけられなくなるみたい」
 ラボにはプレシオサウルスの産状化石とクリプトクリドゥスの生の骨格がある。後で見てみなければ。研究者とも話したい。
「世話してても丈夫で扱いやすい感じがするよ。繁殖も順調だし」
 家族連れの来館者がクリプトクリドゥスの群れを見上げて指差している。親子だと分かったようだ。
「で、プレシオ用のフィーダーは開発中なんだけど」
「お手伝いできることがあれば協力します」
「ありがと。やっぱフィーダーあってのフィーディングタイムだからね!」
 安中さんはそう言い切って自信ありげな笑顔を見せた。
 どう見てもフィーダーの説明がなくて不満とは思っていない。むしろ自分達は大活躍しているという顔だ。
 これでは私が先程気にしていたことなど意味がなくなってしまいそうである。
「ところでなんか私を探してるんじゃなかった?違った?」
「あー……今話した分で大丈夫みたいです」
「なんだよー、仕事中なんじゃないんですかー。私じゃなくてお客さんと話せよー」
 全くそのとおりと言うほかない流れになってしまった。
「お客さんといつでも直接話せるの、けっこう羨ましいんだよ」
 安中さんはそう言い残すと、デッキからさらに水面上に行く階段を昇っていった。
 大体の来館者はデッキから床に降りて水槽に近付いていた。私も床に降りると、さっそく話しかけておくべき会話が聞こえてきた。
「なんだこれ、かっけー!」
「えーっ!やりすぎだよ!」
 弟と姉らしき子供達が、ラボにある水槽の前で正直な本音を言い合っている。両親は離れたところにいるらしかった。
「こちらはコスモセラスといって、アンモナイト界のカブトムシと呼ばれています」
 そう言われるとおり、水槽の中のコスモセラスには二通りのものがいる。
 一方は、殻口の左右から真っ直ぐへら状の突起が伸びていて、全体が尖った棘で覆われているもの。殻全体はレモン色で、突起と棘は明るいオレンジ色だ。
 殻全体の幅は狭く、シャープな印象を与える。イカに似た体も歌舞伎役者を思わせる濃い色の帯で彩られている。
 もう一方は突起がなく棘の先が丸い。代わりに突起のあるほうと比べて倍大きい。身は全体が褐色だ。
「角があるのがオス!?」
「そのとおりです」
「私メスのほうがいいなー」
「同じ種類でも二種類の姿があるアンモナイトがいるのは化石でも分かっていたんですが、オスとメスだということがはっきりしたのは生きている姿が見られるようになってからなんです」
 おおー、と男の子が感心してくれた。そして、
「じゃあここが出来てよかったじゃん!」
 と一言。
「ええ」
 ここができて初めてコスモセラスの雌雄が分かったと思っている、つまり、このアクアサファリを本物のタイムマシンのようなものだと思っているのだろうか。
 ここが出来てよかったことには変わりないと私も思っている。
 それ以上彼と言葉を重ねる前に、姉弟は両親に呼ばれて去って行った。するとその直後。
「すみません」
 二十代前半くらいの大人しそうな青年だった。
「あのクリプトクリドゥスって親子で集まってるんですよね。前のほうの大柄なのが親ですか?」
「はい、そのとおりです。父親と母親に対して三頭の子供達がついてきていますね」
 青年は水槽に振り向いて小さくうなずくと、新たな質問を続けた。
「どっちが父親か母親か見分けるには……?」
 デズモンドとモリーの見分けなら私は説明できる。安中さんはどんなアングルで見てもなんとなく分かるそうだが。
「メスのほうが年上な分、体が少し大きいですね。それから顔と脇腹にある黒い筋がメスは細いです」
「順調に繁殖しているんですか?」
「クリプトクリドゥスは比較的そうですね。三頭とも去年の子供なんですけど、三年前の子供も他の水族館にいます」
 先代の子供達がいるどこかの水族館の近くから来たのかもしれないな、とふと思った。青年は礼を言って水槽の前に戻っていく。
 当然のことだが、今の青年はここが本当のジュラ紀の世界ではなく飼育施設だという前提でたずねてきていた。
 どちらにしろ私がそれを判断できて、最終的に来館者が動物達の魅力を感じてくれさえすればよいのだ。
 動物達にどんな魅力があるか、知っていれば知っているだけ良い。
 私はタブレットのメモを保存したフォルダを見ると、苦労話のメモを別フォルダに隔離し、飼育員、研究員、SNS上の意見、来館者アンケートと、動物に魅力を感じたというあらゆる意見がすぐ見られるようにした。
 せっかく自分が観察を行うなら、これらの魅力が自分でも感じられるようにする観察でなければ。
 青い光の中で鰭を力強くはばたかせるモリーが、とても偉大で頼もしい生き物に見えた。
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