Lv100第五十話
「ケサランパサラン -鈴音と玲子と再生放散虫、アクアサファリわかやま(ラディオリウムホール)-」
登場古生物解説(別窓)
 アクアサファリわかやまのテレビコマーシャルは、青一色の映像だ。
 ストラヴィンスキーの「火の鳥」最終楽章が低く鳴り始め、外洋と見まがう奥行きを感じさせる水中が映る。
 すぐに管弦楽の音色が力強く響き、中生代の海の支配者が、差し込む陽光に背を照らされながらうごめく。
 首長竜が岩の向こうから顔を出し、鰭をふるって去っていく。
 魚竜は目覚ましい速さで水を縦に貫き、イカをかすめ取る。
 頭上を悠然と通り過ぎるのは一見サメに見えるが、すぐに突端から口が裂ける。モササウルス類だ。
 一瞬、たくさんの雪の結晶のようなものが光る。
 それが過ぎると、旋律が緩やかになるとともに円盤状の塊が手前に向かってくる。
 それは左右に長い鰭を伸ばし、ゆったりと羽ばたいている。
 その生き物の顔面が認められる。つり上がるように傾いた黒い目、突き出た分厚いクチバシ。どんどん迫ってくる。
 史上最大のウミガメ、アルケロンの横顔と向かい合ったところで画面は暗転し、アクアサファリわかやまのロゴとともにオーケストラの音色が終結する。
 力強い体験を約束する映像だ。
 アクアサファリわかやまは国内でも数少ない、古生物専門、それも大型のものがいくつも揃った水族館である。
 何よりアルケロンの存在が、私、明石鈴音にとって一番の魅力だ。
 ウミガメを研究して学生時代を過ごし、プロジェクトの広報も担当した私が解説員として就職するのに理想的であった。
 ただし、今のところもっぱらアルケロンとは全く別の、ごく小さな生き物と向き合っている。
 座学の研修が終わってからしばらくはそういう役目なのだ。

 巨大なドームの付いた建物が、磯に張り付くように建っている。陸側の広い駐車場を通り過ぎて近付くと重厚な正面ゲートがある。
 チケットの購入と受け付けを済ませると、黒い石造りの廊下に抜ける。
 石の中にある白い模様は全て様々な生き物の殻が化石になったものだ。
 壁や床は次第にほんのりと青い照明の色を帯びる。
 とうとう真っ青になったら、そこは観覧ルートの起点となるホールだ。
 沢山の椅子が並び、半円の天井が頭上に大きな空間を作る、薄暗い空間。まるでプラネタリウムのように見えるだろう。
 ただし、中心にあるのは投影機ではなく、天井に映し出されるのも宇宙の星々ではない。
 おまけに、並んだ椅子は網目で出来たおかしな形の物体だし、椅子と椅子の合間に何ヶ所か岩石標本が混ざっている。
 この「ラディオリウム・ホール」の中央にあるのは、私達解説員が全体の案内と、ホールの展示の管理を行うためのブースだ。
 私達は航海士を思わせる濃いめの青色をした制服を着込んで、来館者を待ち受けている。
「うわっ、でっかいカメ!」
「CMのカメだよあれ!」
 ホールに入ってきた来館者が解説員ブースの真上を指差して驚く。
 そこに吊されているのはもちろんアルケロンの骨格だ。
 今のカメをはるかにしのぐ、甲羅の幅と厚み、頭の大きさ、前鰭の長さ。傘の骨のように隙間の開いた背甲、刺々しい形の板を組み合わせた腹甲。
 しかしいくら最初のインパクトがあろうとも、このアルケロンは決してホールの主要な展示物ではない。
 アルケロンの顔の左に小さな透明の球体が浮かんでいる。
 さらにその球体は、もっと大きな球体と円錐でつながっている。大きな球体の中には、皆が見慣れないであろう物体の姿がある。
「あれ何だろう」
「海の中のプランクトンかなあ」
 家族連れが不思議そうに見上げる。
 球の中にある物体は、十段に分かれた半透明のチョココロネに、銀の針をたくさん突き刺し、口から銀の紐を出したような形をしている。
 今家族連れの父親が推察したとおり、これはプランクトンの拡大模型だ。
 針の部分が放射状に出ているのに注目して名付けられた、放散虫という単細胞の生き物である。
 アルケロンの骨格のさらに上、半球天井に、ホールの本当の展示物が映し出される。それは最初はごく小さく、たくさん散らばって煌めいているので、普通のプラネタリウムのように星を映しているように見える。
 しかし、放散虫、ラディオラリアを映すから「ラディオリウム・ホール」なのだ。
 星々の後ろを巨大な銀色の影が横切る。
 その正体は白亜紀の小魚、レボニクティスだ。
 半球の縁から煌めきが湧き上がってくる。次第に一つひとつが大きく、数が少なく、はっきり形が認められるようになってくる。
 そのうちの一つは、球の上下から真っ直ぐな角が生えている。球の部分は五角形と六角形の骨組みからなる、透明なかご状の物体である。中生代の放散虫、パンタネリウムの殻だ。
 パンタネリウムと同じく、他の放散虫の殻も網目の構造を持ち、透明なガラス質で出来ている。
 私はドームに映る放散虫の名前を一つひとつ暗唱した。ホールに立っているからには覚えておきたい。
 枝が付いたままの洋梨のようなランプロキクラス・マルガーテンシス。
 平たいクモの巣にも雪の結晶にも見えるのはエンネアフォルミス・エンネアストルム。
 てっぺんに一本の角、下に三本の脚を持つ人工衛星のようなリクノカノマ・マグナコルヌタ。
 雪だるまそっくりのバルプス・ヤポニクス。
 オナモミを思わせるウヌマ・エキナートゥス。
 魔法使いがかぶる喋る帽子さながらのネオアルバイレッラ・シュードグリファ。
 短い鉛筆のようなものが三つ、放射状に組み合わさって回りながらやってくる。シルエットはよく似ているが軸に当たる部分の網目が全く異なるポドキルティス達だ。ふっくらした形で細かい目のミトラ、粗い網目のチャララ、ほんの骨組みしか残っていないゲーテアナ。
 そしてアルケロンの横にある拡大模型は、ディクティオミトラ・ムルティコスタータ。
 ホールに入ってきた来館者は皆これら放散虫の殻に見とれて、しばし天井を見上げる。なかには放散虫を模して作られた椅子に座って過ごす人もいる。
 ただし、今映っているこれらの姿はあくまで殻だけだ。
 低い楕円柱の放散虫が一際大きく前に出てきた。中心に球体、周囲に網の帯を持つテトラピレ・オクタカンタである。
 その中心にある球体の一番奥で、何かが生まれた。
 細胞核である。
 さらにその周りにゼリー状の物質が湧き出し、球体をはみ出して全体を覆う。琥珀色の粒をすぐには数え切れないほど抱え、淡いオレンジの塊になる。
 最後に、周りに向かって無数の針を突き出し、テトラピレは生細胞の姿を取り戻した。
 パンタネリウムもランプロキクラスもポドキルティスも、同じようにして蘇っていく。
 ポドキルティスのように細長い円錐のものは先端の内部に核があり、パンタネリウムのように中心が丸いものは、そのさらに内側にある球の中に核が収まる。核は大抵薄い褐色をしているが、中には鮮やかな赤色のものもある。
 細胞核を収めたままなら殻は丈夫な鎧になりそうなのに、どれもこれも柔らかい細胞質で殻を包み込み、さらに仮足と呼ばれる、触手の役割をする棒をいくつも周りに突き出す。
 この姿は私にとってかなり落ち着かないものだ。固い殻を柔らかい体で覆うなんて、カメとは全く逆の、何を考えているか分からない造りである。
「あんな生き物だったんだー……」
 来館者の中にも唖然としている人が見られる。
 ひととおり放散虫達が姿を見せつけたところで天井は一旦真っ暗になる。
 そして今度はCGではなく、実写の放散虫が映る。ガラス質でできたたくさんの放散虫は、先程までのような化石種もあれば、今も海にいる種の殻もある。
 それらに混じって白い丸がいくつも現れ、再び生細胞の姿を示す。今度は実際に顕微鏡で撮影した動画だ。
 放散虫はじわじわと仮足を動かす。仮足を素早く殻の中に引き込むものもいる。小さな餌をこの動きで取り込むのだ。
 テトラピレのように藻類を体内に持っているものは、その藻類に光合成させて栄養を得ることもできる。
 こうした一連の映像に見とれた来館者には、海の中がすっかり違って感じられるようになったことだろう。
 自然の海は迫力ある大きな生き物だけで成り立つわけではない。海の生態系が無数の小さな生き物で支えられていることを思い出してもらい、このホールの先にいる大きな生き物達も生態系の一員として見てもらうのがここの展示の狙いだ。
 そして、あくまで順路の始めにあるホールなので、私達解説員は案内をしなくてはいけない。
「ようこそ、アクアサファリへ!解説アプリもしくはガイドブックをどうぞ!」
 観覧ルートに進もうとする親子連れに、スマホアプリのダウンロードを行うためのQRコードが記されたボードと、冊子を差し出す。
 父親はスマホをQRコードにかざし、息子は冊子を受け取った。どちらも基本的に同じ内容の解説を読むことができる。
 ガイドを頼まれて来館者を導いていく先輩もいるが、私はまだまだそこまで至らない。
 アプリやガイドブックよりはるかに多くのことを覚え、飼育員や研究員と来館者をつなぐことができてこそ一人前の解説員になれるのだ。
 順路に進む門の両脇に、放散虫の殻の透明な拡大模型が立っている。順路の最初である三畳紀にいた種類、トリアッソカンペ・デヴェヴェリだ。
 いくつも段の付いた長い円錐形で、先端近くにLEDが仕込まれて光っている。
 クリスマスツリーのようにも、神社を守る狛犬のようにも見える。

 バックヤードの様子をこまめに知っておくことも解説員には必要だ。
 中でも、見てほしいものが色々あるといつも言われているので、帰る前に放散虫研究室に立ち寄った。
 さすがに大学の研究室よりは片付いているものの、作業机とスチールデスクの上や周りに、実験器具、工具、砕かれた岩石、アンモナイトの化石と生殻、プラスチックパイプやアングル材などの資材、書類ファイル、新旧のパソコン、研究内容と関係ある書籍、関係ない書籍、ジャンクフードの包装、脱ぎ捨てられた衣類、プラモデル、もらっても嬉しくなさそうな土産物などが散見される。
 美しい展示空間と同じ施設の中とはとても思えないが、壁に太い配管が走り、水槽がいくつもあるあたりはやはり水族館だ。
「やあ、いらっしゃい!えーっと、明石さんか」
 長く波打った髪を無造作にまとめた白衣の女性が振り返った。放散虫チームのリーダー、築道(ついどう)玲子さんだ。
 手にクッションらしきものを持っている。低い楕円柱、側面が白の網目模様で端面がオレンジ色。テトラピレの形をしたクッションだとすぐに分かった。
「業者から出来上がってきたんだ」
「触り心地もいいですねえ」
「これだけじゃないよ。他にもまだ増やしてる」
 築道さんが次に出してきたのはテトラピレの模型だった。両手に載せるほどの大きさで、殻だけの純粋に透明なものと、細胞核や共生藻、仮足も全部備えたオレンジ色のものの二つ。
「椅子も発注したし」
 そう言いながら見せてきたのは椅子の図面であった。こちらも楕円柱で、テトラピレの形に合わせてへこみが付いている。
「こうやってテトラピレを揃えてるっていうことは」
「ふふふ」
 築道さんは嬉しそうにパソコンを操作して動画を表示した。
 パソコンとつながっている背の高い装置がかすかなモーター音を立てた。縦の円筒と照明の付いた台がある。大型の顕微鏡だ。
 七個体の、オレンジ色をした生きているテトラピレが、じわじわと仮足を伸び縮みさせ、共生藻を揺らしている。
「化石からのですよね」
「もちろん!殻を形成させて一ヶ月生かすのに成功したよ。展示にまわせそうな映像もいっぱい撮ってある」
「おめでとうございます」
 テトラピレは現在の海にも生息しているが、化石としても発見される。
「水温や水質は今テトラピレがいるところを参考にすればいいからね。共生藻を用意してやるのは大変だったけど、それさえクリアすればもう今のと同じ」
 ホールでもテトラピレが大写しになるが、今そこにある顕微鏡で撮影されている映像には強い臨場感がある。
 共生藻の粒は熟しかけのトマト、それを抱える殻は野菜かごのようだ。
「可愛いでしょ」
 築道さんは嬉しそうだが、私はつい聞き返してしまった。
「放散虫の中では可愛いほうなんですか?」
 すると築道さんは少し困った顔をして頭をかいた。
「形的にも可愛いほうなのは確かだけど放散虫はみんな可愛いし……、ほら、手塩にかけた我が子だから」
 特定の生き物に熱中する人として当然の感覚なのだった。私も調査のためタグを付けたウミガメが戻ってきたら可愛いと思ったものだ。
「繁殖まで至らせてやりたいけど」
「今の放散虫でも飼育下では難しいっていう話でしたよね」
「まあね。だから化石のほうもまだまだだね」
 築道さんは映像を止め、顕微鏡の台からシャーレを取り出すと、冷蔵庫に似た装置に収めた。装置の中は厳密に温度管理されている。
「明石さんはカメ屋さんだからディクティオミトラのほうが気になると思うけど、えー……、申し訳ないけど、殻の形成すら」
「ああ、お気になさらないでください」
 アルケロンの骨格にディクティオミトラ・ムルティコスタータの模型が添えてあるのは出鱈目ではない。アルケロンとディクティオミトラは同じ地層から見付かっているのだ。
「テトラピレはあくまでテストで、みんな本当はテトラピレよりディクティオミトラに期待してるんだ。昨日もカメチームとモサチームの人が来てさ」
 築道さんは再びパソコンに向かい、表計算ソフトを開いた。
 水温や水質、照度などの数値、ディクティオミトラの生細胞が生き延びた日数、殻の形成の有無が記録されている。
 日数はどれも五を越えず、殻の形成の列には延々と×が並ぶ。
「これだけ環境にうるさい生き物なら当時の海の環境をすごく詳しく教えてくれるはずなんだけど、テトラピレと比べればノーヒントに近くてね」
「それで皆さんもディクティオミトラに適した環境を知りたがってるんですね」
「飼育員を手ぶらで帰したくはないんだけど」
 築道さんは横に置いてあったディクティオミトラの模型を手に取って見つめた。
 アルケロンに添えてあるのと同じく生細胞の姿だが、実物を見た人はまだ誰もいない。推定で作られたものだ。
「直接ではないけどアルケロンに応用すればもっと快適な暮らしをさせてやれるはずだからね。CMにまで出して利用してる以上、そういう努力を惜しんだらいけない。ディクティオミトラの研究は、アルケロンのエンリッチメントなんだよ」
 築道さんの口調には熱がこもっていく。
「ディクティオミトラだけじゃなくて、一万種を超える放散虫がみんな海の環境を教えてくれるようになったら、飼育されてる古生物にとってすごく助かるはずなんだ」
 その言葉は、本当にことを成し遂げる生き物屋のものであると私には信じられた。
「築道さんなら、きっとできます」
 すると築道さんは、きょとんとした目つきでこちらに振り向いた。
「その言葉はありがたく受け取っておく。でも私でなくてもいいんだ」
「え?」
「いや、誰かだけでなくて、世界中でできるようにならないと不充分だよ」
 築道さんは本当に放散虫の研究が人類の財産になると信じているのだ。
 私も、ウミガメに関する知見は人類の財産だと信じている。
「何か私でも分かりそうな放散虫の論文ってありますか」
「ん?じゃあ、これがいいかな」
 築道さんが差し出した写しは、岐阜県のある地層から発見された千七百万年前の放散虫についてまとめたものだった。
 お礼を言って退室し、真っ直ぐ家に向かって車を走らせた。論文を読む時間が空けられるように。
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