Lv100第四十三話
「三尸(さんし)の虫 -由季と恵美と三葉虫づくしの一日-」
登場古生物解説(別窓)
 年の瀬。
 私の友人の、小さな水族館で働いている恵美は、休暇をもらったというのに実家にも帰らず、同様に帰らない私を自分の水族館に誘った。
 どうしても自分で案内したかったのだという。そうして、自分が担当しているオルドビス紀の三葉虫を一生分以上に見ていってほしいのだという。
 確かに恵美は私の片足を「三葉虫の沼」に引きずり込み、華やかな見た目の割に飼いやすい三葉虫ディクラヌルスを飼い始めさせたのだが。
 最初の展示室は、それほど長く見続ける気にはなれなかった。
 薄暗い室内の壁際に擬岩が並び、そこからいくつもの光の柱が、七色に変わりながらほのかに立ち昇っている。これは円柱形の水槽だ。
 その中でごく小さな、指先ほどのものが漂っている。一つや二つではなく、円柱全体が煌めいて見えるほどだ。水槽の下から湧き上がって上に去っていく。
「遊泳性の三葉虫だよ」
 恵美がそう説明するので、このふわふわとしたものの一体どこが三葉虫なのか確かめてみようと目を凝らすのだが、色鮮やかなばかりの暗い照明はあまり形を観察する役に立ってくれない。
 かろうじて、丸い尾をときおり上下に振っているのと、複眼が異様に大きくて三葉虫というより昆虫のような顔をしているのが見て取れた。胴体はどうなっているのかよく分からなかった。
「これがキクロピゲでこっちがシンフィソプス」
「このクラゲでよくある感じの見せ方、あんまり好きじゃないんだけど」
「まあねー、見やすくはないよねー」
 円柱の水槽よりも、部屋の中央にある丸い水槽のほうが見やすそうだった。胸くらいの高さで上から覗き込める。
 そこにはもう少し見慣れた印象の三葉虫が数匹いた。手の平に乗るくらいの大きさがあり、そこまで目を凝らす必要はない。
 ただしこちらも複眼が大きく、尾は丸く幅広かった。脇腹の張り出しは小さい。
 身軽そうだな、と思った途端に、一匹が浮き上がってさっと加速した。
 そして放物線を描いてまた沈んでいく。
 砂の上をさっと撫でるように泳ぐものもいた。こんなに素早い三葉虫がいるとは。
「これも深海で泳ぐ三葉虫だよ。パラバランディアっていうやつ」
「そっちの小さいのもこんな形なの?」
「ああ、小さいほうはもっと極端だね。これ見てみ」
 円柱のほうの小さい三葉虫の名前を示すプレートには「深海を泳ぐ三葉虫」としか説明はなく、その横にQRコードが添えられていた。
 スマホで読み込んでリンク先に飛ぶと、遊泳性三葉虫キクロピゲの解説ページが開いた。
 このページに写真と図がたくさんあるおかげで詳細な姿が確認できた。花に来るアブのような大きな複眼のある顔と、団扇のような尾。
 それに、脇腹の張り出しがほとんどない胴体にはひらひらとした肢と鰓が並んでいる。これをしゃかしゃか動かして進むのだ。長い触角は深海で役に立ちそうだ。
 もう一方のシンフィソプスはキクロピゲとよく似た姿だが、前に突き出た短い角の下で両方の複眼がゴーグルのようにつながっている。
「ああ、こうやって見せられたら分かるわ」
「文章は後でゆっくり読めるしね。直すのも楽だしすっきりしてるし」
 とはいえそんなに詳しいページがあるならここの水槽は見なくても良いと思ったもので、次の部屋に移ることにした。
 水族館にしては狭く曲がった廊下。
 そこを抜けた途端、視界が白く飛んだ。
 深海の部屋から一変、浅い海の広間に出たのを私は理解した。ただし、丸い広間の正面に大きな水槽はない。
 水色の床で揺れる光を辿って見上げれば、大水槽は私の頭上にあった。
「天井が水槽になってる!」
 普通の住宅ほどの高さしかない天井は透明で、その上にかすんだような色合いの水が、ゆるやかな波を立てているのが見えた。
 水槽はそれほど深くはないようだったが、かえってこちら側が深い水の底のような気がしてくる。
 しかも水を透けて通ってくるのは太陽の光だから、先程の派手な照明とは打って変わって、まるで自然の海の中だ。
 水ばかり見ている場合ではない。
 私は目を凝らし、水槽の中に無数の小さな生き物を認めた。手前に向かうゆっくりとした流れがあるようで、皆それに逆らって部屋の奥に向かって進んでいく。
「恵美、これも三葉虫!?」
「そうだよん。さっきのと別の分類だけど泳ぐやつ。カロリニテスとオピペウテレッラの2種類」
 さっき深海の水槽にいたキクロピゲとよく似ている。しかし複眼はさらに丸々と膨れ上がって左右に張り出している。
 尾は鰭にはなっておらず、体を真っ直ぐにしたまま鰓と肢だけを動かして、白く透けた背中をこちらに向けて泳いでいる。その様子が何かに似ていると思ったが思い出すのに時間がかかった。ホウネンエビだ。
「ずっと泳いで暮らしてたの?」
「さっきのキクロピゲとシンフィソプスもだけど……、こっちのは外洋の浅いところでオキアミみたいに暮らしてたんだよ」
 まったくこの水槽を見てのとおりというわけだ。さっきの水槽よりはるかに実感が湧く。
 ごく小さな、思ってもいなかったような姿の三葉虫が群れを成して進んでいく。今のオキアミと同じくプランクトンを食べて他の生き物に食べられていたに違いない。こんなに軽く水に浮いて生活する三葉虫がいるとは思わなかった。
 広間の床には丸い段になったところがあって、海に浮いた島のように見えた。
 その上に立てば水槽にもう少し近付くことができ、泳いでいる三葉虫が二種類いるのがちゃんと見て分かった。体も棘も少しがっしりしているものと、少しスリムで複眼が前後に長く、棘が細いものがいる。
 また、台の上には上から覗き込めるケースもあり、見てみれば小さな水槽と、泳ぐ三葉虫の精巧な拡大模型がセットになっていた。
 上から見ることになるのでわっしゃわっしゃと水をかく動きがよく見える。がっしりしたほうがカロリニテスでほっそりしたほうがオピペウテレッラであることや、長い触角があること、オピペウテレッラの尾に棘があることまでよく分かった。
 床にあるのは台だけではなく、丸く浅いシャーレのような水槽も二つ据えられていた。その底は水色の床と違って砂が敷かれている。
 天井を泳いでいるのと同じくらい小さな三葉虫が、砂の上を素早く駆け回っていた。少し浮かんで進んでいるようだ。ということはこれも泳ぐ三葉虫か。
 砂の上のものは天井にいるものほど極端に大きな目は持っていなかったが、流線型でいかにも速く泳げそうだ。ちょっとゲンゴロウやマツモムシのようでもあるが、淡水の昆虫達と違って銀色に光って見える。
 スリムで頭が丸いレモプレウリデスはミズスマシのようにくるくると向きを変え、平たい楕円形のヒポディクラノトゥスは大きな円を描く。
 そして部屋の最も奥には、畳んだ傘のような形と大きさの生き物の模型が、数匹の集団になってぶら下げられていた。
 長い円錐形の殻から無数の触手、円盤のような目を出している。
「何あれ」
「直角貝だよ。オウムガイの仲間で、三葉虫を食べてたかもしれないやつ」
「かもしれないって何よ」
「生き返らせてもね、当時の自然では何を食べてたのか判断するのは難しいんだよ。綿密な調査と実験をしないと」
 確かに、三葉虫を飼うときも与えているのは当時なかったはずの人工飼料だ。
 これでこの外洋の広間にある展示は一通り見てしまった。
 しかし私はその海から上がってしまうのが惜しく、しばらく天井の水槽を見上げて過ごした。段になっているところに座ってしまっていいのだと恵美も言ってくれた。
 小さなカロリニテスとオピペウテレッラが後から後からやってきては去っていく。まったく太古の豊かな海そのものに見える。これを私は知らないで済ませていたのか。オルドビス紀の海原の情景を。
「ねえ恵美、こういうのってさ」
「ん?」
「個人で飼えるの?」
 私がそう聞くと、恵美は、どうだったかなあというように上を向いた。
「テレフィナ科……、って上にいるやつだけど、個人では聞かないかなあ。ヒポディクラノトゥスとか、前の部屋のキクロピゲならあるけど」
「そっか」
 しばらくは自分のディクラヌルスを可愛がることに専念しよう。

 その夜。恵美のマンションにて。
 鍋をやるからと言って引っ張り込まれてきたものの、土鍋にたたえられた湯の底では昆布とはほど遠いものが三つ並んで出汁を発していた。
 大きさは六センチほど、形は全体的に小判型だが鼻先と尾がちょんととがっている。赤褐色で、濃い色の小さな斑点が散らばっている。
 見ればすぐ分かることとはいえ受け入れるのがためらわれるのだが、今夜の鍋は、三葉虫から出汁を取るものらしい。
「ダルマニテスの干物だよ」
 そう言って恵美がお玉で出汁をすくい、一口すすった。
「うむ。ロマンの味がするぜ」
「無茶に付き合わせるなら事前に無茶の内容を言いなさい」
「無茶じゃないもーん、出汁を取る用にって業者が干物にしたやつだもーん。あ、由季、エビカニアレルギーないよね」
「ないけどさあ……」
「じゃはい」
 恵美は唐突にお玉の柄を差し向けてきた。試せというのか。
 別に三葉虫をグロテスクだと思っているわけではない。そんな段階はとっくに通り過ぎた。
 しかし味は、グロテスクだと思わずに済むとは限らないかも……。
 いや、以前食べたナマコもホヤもそれほどひどくはなかった。三葉虫も大したことはないかもしれない。
 覚悟を決めてすすってみると、そのとおり、案外凡庸な甲殻類の風味だった。
 拍子抜けした途端これまた凡庸な不満が残った。
「なんか雑味がある。はらわた取ってない?」
「解体しないで干したやつだからねえ。まあ太古の味ってことで」
「ごまかしちゃダメだよ。こんなんでもせっかくなら美味しく食べないと」
 私は恵美を立たせ、急に奉行ぶりやがってとなじられるのも聞かず、おろししょうがのチューブを探させた。
 お玉の中でしょうがを少し出汁に溶いて試すと、三葉虫であることが全く忘れられるまっとうな味になっていた。
「よし、煮るか」
「待てやコラ」
 恵美が出してきたボウルに盛られた具材の頂上には、すこぶる怪しい物体が三つ載っていた。
 一瞬大きめのエビに見えるかもしれないが、本気でそう思う人はいないだろう。妙に滑らかな楕円形の体をしていて、尾の先は長く平たい三角形をしている。
 頭部には二つの複眼がぎらつき、クモじみた肢が四対と、鰭のような肢が一対。おまけに先頭には小さなハサミまである。
「明らかにウミサソリだよね」
「うん。フグミレリア」
「種類はどうでもいい」
 恵美はかまわず、具材と、具材と呼んではいけなさそうなものを鍋に突っ込んでいった。
 よく見るとまともなほうの具材も妙にキノコと海藻が多い。三葉虫やウミサソリと同じ時代からあったものに寄せたつもりか。さっき出汁を味見したのは何だったのか。
「プロトタキシイタケ……」
 恵美が意味不明なことをつぶやいた。
「は?何って?」
「ダジャレを説明させる気かね」
「説明しなくていいダジャレを言いなさい」
 それにしても、ダルマニテスもフグミレリアも大事に飼っている人も多いはずだが。
「水族館職員が食っちゃうかね……」
 その背徳的な水族館職員は涼しい顔をして写真など撮っている。
「業者さんが食用にって心を込めて育ててるやつだからね。それに、飼育員だからこそ食べるんだよ」
「は?」
「味まで含めてあらゆることに好奇心を働かせないと。深海チームがヌタウナギ食べて報告してるのうらやましかったしね」
「そういうのは職場でやりなよ」
 さて私は先程からひとつ疑問を抱いていた。
 この部屋の隅にはしっかりとした水槽があり、恵美はそこで個人的にも三葉虫を飼っている。
 頭の縁が大きく丸い形に広がって、かんじきそっくりの形をしている。さらさらの砂の上でも沈まずに進む、ハルペスという種類だ。
 燃えるような赤色の縁取りが本当に見事なのだと言われているが、驚いたとき以外その部分は砂から出てこない。
「あれは食べようとか思わないわけ」
 私が水槽を指差すと、恵美はピンとこない様子でゆっくり振り返った。
 かと思うと、飛び跳ねるようにこたつを出て水槽にひっしと覆い被さった。
「なんてことを!鬼!悪魔!直角貝!」
「直角貝て……。「かもしれない」じゃなかったわけ」
「直角貝が三葉虫を食べた実例はあるし!」
「そ」
 可愛がっているものと食材として買ったものでは、恵美なりに線引きがあるのだろう。
 取り乱した恵美をなだめるまでに鍋は一度吹きこぼれてしまった。
 全く古生物の世界は、深い深い業でできた沼だ。
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