Lv100第四十話
「白鹿 -藤子と二代目大鹿様-」
登場古生物解説(別窓)
 先日、二代目大鹿様が亡くなった。
 愛鹿会一堂、そろそろ夏の暑さに耐えきれない年齢と体力なのではないかと心配し通しで七、八月を過ごし、なんとか乗り切れそうだと安心しかけた九月のことだった。
 神社の詰め所には、私達愛鹿会の面々が集まって神社の皆さん、特に真ん中の神主さんと向かい合っていた。
「やはり、大鹿様の角をお貸しするのは難しいですな」
 神主さんが重々しく口を開き、私達はため息をついた。
 直接いたわってきた私のほうがよっぽど二代目のことを分かっているのに。
 そう思ってもすでに神社に納められた角を私達のものだと言い張ることもできず、奥歯を噛み締めた。
 展示館には二代目の骨格が、角のないままで晒されている。

 大鹿。生き物としての名前を、ヤベオオツノジカ。
 大型のウマほどの体格にもなるシカの一種である。角の形はこの古都と鹿園にたくさんいるニホンジカと全く異なり、四つの手の平で何かを押し返そうとしているかのような形だ。
 特に二代目大鹿様と呼ばれていた一頭は、肩の高さが男性の背丈ほどもあり、角も数年前までは特に立派だった。
 私も女としては特に背が高いのを気にしていたものだが、二代目の巨体と並ぶとそんな悩みも薄れてしまった。
 しかし、ここがいくら古都だといっても、いわゆる氷河期の日本にいた動物であるヤベオオツノジカがずっと生き残っていたなどということはない。
 古都として知られる街の東側にあるこの広大な林は、千年以上の歴史を持つ寺社仏閣を内包している。
 ここに暮らすニホンジカは神の遣いと考えられて大切にされ、地域の人々と密接に関わり合ってきた。
 長い年月を人々と同居してきたここのニホンジカは、れっきとした野生動物であるにも関わらず、人をさほど恐れず、人前に出ることをいとわず、触れられることさえ受け入れ、餌をねだることまでする。
 私も含め、この古都や近県の子供達は皆遠足で林にやってきて、シカにちょっかいを出しては痛い目に合わされ、野生の厳しさを学んで育つのだ。
 そんなに人に近いシカと人間の間を取り持つのは、古くはとある寺、その後は別の神社、そして先の大戦の後からはその神社の境内に建てられた施設「鹿園」、そこを運営する「古都愛鹿会」である。
 鹿園は飼育とふれあい、そして啓蒙と行事の施設である。ここに色々な事情で外で暮らせなくなったシカや確保しておかないといけないシカを集めている。怪我。病気。出産。畑荒らし。暴力沙汰。林からの逸出。ゴミを食べてしまった急患。神事「角切り」のために集められた長い角のオス。
 そして、現代の技術で化石から甦り、他の県の動物園からやってきたヤベオオツノジカまで。
 ヤベオオツノジカは、ここでの通称を大鹿というが、これこそこの地に神様を乗せてきたというシカと関わりのあるシカではないかとまで言われ、喜びをもって迎えられた。まだ大昔の生き物がとても珍しかった頃だ。
 果たして鹿園は大鹿を見に来る人達で賑わい、大鹿の中から代表となるオス、「大鹿様」を選び出して神事に出すようにもなった。
 初代の大鹿様はそれはもう気の荒いシカで、神事に出すたびに大の男が十人がかりで抑えつけていたのだという。
 私が愛鹿会で働くようになってからはすでに大鹿の飼育頭数は十頭近くに増え、大鹿様は二代目になっていた。
 飼育の年月を積んだため初代よりずっと人に慣れ、数々の神事をつつがなくこなして皆に親しまれていた。角切りの会場にじっとたたずみ、見物客に見上げられていた姿が目に浮かぶ。
 鹿園の飼育場の隣には展示館がある。この古都のシカについて、歴史や暮らしぶりを伝えるための施設だ。ここも大鹿のおかげで掘っ建て小屋からまともな建物になった。
 丁寧な解説が壁にかけられているのはもちろん、鹿園のシカに与えている餌の見本、シカが間違って食べて摘出されたゴミ、冬になって抜け落ちた角、角切りに使う道具、足跡、糞、全国でこの林にしかいない青いフンコロガシ……と、見せられるものはなんでも見せる。
 その中に、大鹿のコーナーもある。
 特に目立つ掲示は二代目の写真だ。数年前の初秋、黒みがかった毛皮をまとい、阿修羅の腕のように……ここは仏像のある寺ではなく神社だが……、しなやかに伸び上がる角を頂いて、隆々とした首と四肢で屹立する雄姿がそこにある。
 それが晩年になると、毛はだいぶ白っぽくなって、それほど大きな角を生やすこともできなくなり、おまけに耳まで垂れてきて、すっかり気のいいおじいさんになってしまっていた。
 そしてもはや大鹿の展示も掲示物だけではない。
 展示館の一番奥では、二代目がその巨体を再び立ち上がらせているのだ。ただし……、骨格のレプリカとなって。
 生き物の標本を扱うノウハウのない私達に代わって、他県の科学博物館の人達が作ってくれたものだ。
 一つひとつの骨から精巧に型を取られ、辺りを見渡すポーズは生きていたときと全く変わることがない。肩のあたりの骨はこんなに頑強だったのか。四肢の骨はこんなに軽やかだったのか。新たな発見がたくさんある。
 だがこの骨格には肝心なものが足りない。
 角である。
 毎年大鹿様が生やしては晩秋に抜け落ちる角は全て回収され、神社に建てられた御堂に納めることになっている。
 どうせなら数年前の、一番大きな角のレプリカを取って骨格に取り付けたいのだが……。

「御堂に納められた角はこれまでの大鹿様の歩みを記録する、とても大切なものです」
「わきまえとります」
 神主さんと愛鹿会の会長が差し向かっている。
「レプリカというのは、柔らかい樹脂の中に角を沈めて型を取るわけですな」
 会長が博物館の人のほうに振り向くと、博物館の人は慌てて首肯した。
「葬儀の際も、骨に残った薬剤を完全に落としきってから行う必要がありましたが」
「うう」
「それはまあ、角に薬剤を残さんようにすることも可能でして」
 博物館の人が苦しそうに弁明した。
「それならそれはいいでしょう。しかし一度納めた角を再び取り出すのは、これは大変なこととなりますよ。せめて御堂の中で型を取ることはできませんか」
 会長はまた博物館の人に向いた。だが、博物館の人の答えはあまりに正直なものだった。
「御堂には作業をするのに必要最小限の広さがあります。しかし……、中で作業をすれば、御堂を汚してしまう恐れがありまして……」
 会長は額を手で押さえ、神主さんが重々しく口を開いた。
「やはり、大鹿様の角をお貸しするのは難しいですな」

「神主さんもー、別に意地悪しとるわけではないんやけどなあ」
 林から街へ帰るバスの中で、隣に座る愛鹿会の先輩と話していた。飼育にはあまり手を貸さない事務員さんだが、私にとっては姉のような存在だ。
「分かります」
「お勤めに熱心なだけやねんなー」
「汚さんで型取れればええんですけどねえ」
「それか、他の大鹿の角付けるかやなあ」
 先輩もそうは言ったものの、明らかにいい案だと思っていないのが分かった。
 せっかくの二代目大鹿様の骨格に、迫力に劣る他の大鹿の角を付けるなんて。アイデンティティの崩壊だ。
「やですねえ」
「それはややなあ」
 バスは林を出て歴史博物館の前を通るところだった。骨格のレプリカを作ってくれた科学博物館と違って、仏像や古文書などの文化財が納められている。
 博物館前の、堅い石材が敷かれた広場にまでニホンジカが何頭かたたずんでいた。
 観光客も暗くなってきた林から街に出ないといけない時間ではあったが、シカにかまっている人の姿もまだまだ見られた。そのうち一つのグループは明らかに欧米の人だった。中国か韓国っぽい人もいる。
 辺りは夕日のオレンジに照らされたところが狭まっていき、暗い青がじんわりと広がっていた。

 翌日。
 亡くなった二代目のことばかりではなく、私にはニホンジカや他の大鹿の世話もある。
 大鹿の飼育場はニホンジカと比べて木の多い、日陰になったところにある。
 牧草の袋を載せた猫車を押してオスの飼育場の前を通ったとき、三代目の大鹿様に選ばれたオスは奥の池の中に立っていた。
 三代目はまだ若く、晩年の二代目とは逆に今後角が大きくなる余地がある。毛皮はつややかで、耳はぴんと立っている。もちろん体格も文句無しだ。
 大鹿ことヤベオオツノジカは氷河期の動物とはいえそこまで寒い気候に適していたわけではないそうだが、体は大きくて熱がこもりやすいし、この古都の残暑はやや厳しい。大鹿には涼める日陰や池が必要なのだ。
 そんなわけで木が多いものだから走り回るのは難しく、運動量も不足しがちである。
 オスの飼育場を過ぎて、メスのほうに向かった。猫車の気配に気付いたメス達が、餌箱に集まってきた。
 メスには角がない。その分頭が軽く、首や肩がほっそりしている。メスのほうがかわいらしいのはニホンジカと同じだ。
 とはいえ、ウマほどもある大鹿が五頭も六頭も迫ってくるのはニホンジカよりはるかに迫力がある。
 鹿園の外でシカ用の餌を求めて観光客にたかっていくのが大鹿でなくてよかったなどと思う。
 私は金網でできた柵の扉を開け、猫車に積んでいた袋の中身を餌箱に開けた。
 そして皆があまり食べ進めないうちに、素早くサプリメントをふりかける。ウマ用のカルシウム剤である。角を伸ばしている最中のオスならもっとたくさん必要だ。
「ねえ見て、ウマがいるよ」
 女の人の声が聞こえてきた。
 四十代くらいの夫婦が歩道からこちらを見ていた。まだ朝早いうちから林を見て周り始めたみたいだ。
「ええ?あれウマかあ?でもウマみたいだなあ。なんでウマがいるんだろう」
「ここにウマがいたらさあ……」
「シカと並べたらなあ……」
 そう言ってくすくす笑いながら近付いてくる。
 私はその間に、愛鹿会事務所の棚から大鹿の角を取ってきた。
 そして戻ってくると、夫婦はすでに金網に着いてウマ、もといメスの大鹿を眺めていた。
「こちらヤベオオツノジカ、通称大鹿のメスなんです」
「大鹿!?あ、聞いたことあるかも」
「ほらー、ここにウマがいるわけないだろ」
「はい、ウマと同じくらい大きい氷河期のシカなんです。オスはこんな角が生えるんですよ」
 私は角を前に掲げてみせた。夫婦は目を丸くしてのけぞる。
「ええっ、すごい!何これ!」
「その辺のシカと全然違うなあ!」
「どうぞ、触ってみてください」
 夫婦は驚きの声を漏らしながら角をなでた。
 それからオスの飼育場を案内すると夫婦は喜んで見に行き、金網の前でアニメ映画に出てきたシカの神様の名前を叫んだ。
 この前はゲームに出てきたシカのモンスターの名前を言った子供もいた。両方ともヤベオオツノジカというよりエウクラドケロスという種類みたいだが。
 角を片付けながら思うのは、やはり二代目の角のことであった。
 同じ大鹿でも大鹿様に選ばれていなければこんな風に気軽に角を扱えるのだが。科学博物館にも分けているし……。

 勤務時間が終わって、その後に約束があったもののまだ時間があったので、林のさらに東にある山に寄っていった。
 山といっても林自体がその山の裾野の部分に当たり、特に急に突き出ている部分を山と呼んでいるのだ。
 そして、山には端のところにしか木が生えていない。ほとんどは草原に覆われている。
 深緑の林を抜け、眼前には黄緑色の壁がそそり立っていた。
 その中に何十もの粒があり、一つひとつが少し動いては止まりを繰り返していた。
 もちろんニホンジカである。草を食んでは新しい草を求めて進んでいるのだ。
 ずっと山でこうしていたシカもいれば、日中林をうろついて夜を山でのんびり過ごそうとしているシカもいる。見ているうちにも山に登っていくシカがいた。
 この古都に暮らすニホンジカは、飼い慣らされていると誤解されることもあるが、皆野生のニホンジカである。
 ごく珍しい巡り合わせと歴史の積み重ね、そして先人の努力によって、人間とシカがすぐ近くに寄り添う林が出来上がったのだ。
 そして、ニホンジカ達はときたま、隣人ではなく野生動物としての一面をあらわにする。
 山の草原はそうしたニホンジカの姿を眺められる絶好の場所なのだ。
 どこか遠くの原野で暮らすレイヨウか何かのように、ニホンジカがニホンジカ同士だけの秩序に従って群れをなし、草を食み、子供を守ったり角をつき合わせたりしている。
 古都の歴史よりもっと前までさかのぼれば、ニホンジカはいたるところでこうして暮らしていたに違いない。
 氷河期までさかのぼれば、大鹿、いや、ヤベオオツノジカも。
 今、ニホンジカは野生だが大鹿は野生ではない。山を自由に走らせてやることはできない。
 それができていたら、二代目は体力が付いてもう少し長生きできただろうか。それとも事故や環境の違いで早死にしただろうか。
 もうだいぶ日が短くなってきた。
 私は山から振り向き、街行きのバス停に向かった。

「汚さんかったら型取らしてくれるだけマシやん」
 ひとしきり話を聞いてくれた私の旧友はそう言い放った。
 私達は街の居酒屋で、テーブルを挟んで向かい合っている。私は酒も箸もあまり進んでいないが、旧友はビールジョッキを一つ空け、二つ目ももう半分になっていた。
「せやねんけどなあ」
「あんのクソ寺の生臭坊主に比べたら神さんやでえ……あ、神主さんか」
「あんた、世話んなっとる坊さんのことボロクソやな」
「てへっ」
 旧友は舌を出してみせた。
 彼女は歴史博物館で、文化財の記録を残していく仕事をしているのだ。なお今彼女が言っている寺とはこの古都にある寺ではなく、他県の(他「府」ではない)寺であることは念を押しておかねばならない。
「でもアレやで、うちなんか型どころかスキャンしてもあかん、データの公開なんぞもってのほかやーって言われたで。あの坊主に」
「スキャンなあ。まあ古文書とかは破くかもしらんし」
「ん?ちゃうで。ちっさい仏像。一切触りまへーん、さっとセンサーかざすだけですー、言うてんのに……」
「あ?」
 そこで旧友も私と同時にそのことに気付いたようだった。
 博物館勤め。文化財の記録。仏像のスキャン。一切触らず。
 こいつ、立体に触れずに形状データを取る方法を知っとる!
 邪悪な笑みを浮かべてくっくと笑う旧友を、私は身を乗り出してにらみつけた。
「ああー、せやんなあ。寺ならアレやけど神社はあんま立体モンないもんなあ。灯籠ぐらい?そら誰も気付かんわなあー。これはアレやな、東大モトクロス部やな!っはははははは」
「手伝ってくれんのかくれへんのか」
「んな怖い顔すんなやー。ところでなあ」
 旧友はへらへらしながら無駄にかわいい二つ折りの財布を取り出し、ぱたぱたと羽ばたかせてみせた。
「今日この子軽うてなあ。これ以上軽なったらどっか飛んでってまうわー。したら追っかけんのに忙しゅうてスキャンの話どころやないなあー」
 私の三倍飲み食いしている分際で。
 これも角のためだ。私は事を成すための犠牲になることを覚悟した。

 それから半月ほど経って。
 スキャンは旧友の言うとおり、ティッシュ箱ほどの機械を何回か角に向かってなぞるようにかざすだけで済んだ。
 ようやく二代目の骨格は、往時の一番立派な角を頂くことができた。
 高々と首を上げ、角の先が天井に付かんばかりだ。
「やりましたなあ」
「何よりのことです」
 会長も神主さんも、集まった誰もが二代目の角を見上げて微笑んでいる。科学博物館の人は早く歴史博物館の人と話してデータの取り方を教えてもらおうとそわそわしている。
 3Dプリントされたものだから樹脂製とはいえ、しっかりと仕上げられているので色も質感も完璧に近い。
 もっと良いことは、費用が出せればだが、この一番の角をいくつでも複製できることだ。
 もう一対作られたレプリカを、私達は代わる代わる手にとった。
「本物と変わらんなあ、重さも!」
「中に鉄入ってますから」
 この展示館に備え付けて、誰でも触ったり持ち上げたりできるようにしておくのだ。
「二代目がどんなに素晴らしい大鹿様だったか、訪れた誰もに伝わるでしょう。大変結構なことです」
 レプリカ作りには気が進まなかったはずの神主さんが、嬉しそうにそう言った。
 これでようやく、二代目が安らかに眠れるようになった気がする。
 私がここに勤め始めたときが二代目の最盛期で、あとは老いていくのを見守るばかりだった。
 私は展示館をそっと抜け出し、オスの大鹿の飼育場に向かった。
 三代目は凛々しく首と脚を伸ばしてたたずんでいた。角は木漏れ日を四つの手で受け止めようとしているように見える。
 他にも三頭のオスがいる。三代目はまだ若いが、他のオスに対して決して弱い立場ではない。
 きっと二代目にひけを取らない大鹿様になってくれるはずだ。
 三代目と私達が作る古都の鹿の世界はどんなものになるだろうか。必ず、もっと良いものにしていかなければならない。
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