開園前の動物園はすっかり冷え込むようになってきた。
中央の通りに植えられたハナミズキの葉も、すっかり落ち着いた色合いに紅葉している。そこらじゅうに生えているコナラからドングリが落ちてくるのもすぐのことだろう。
動物達は真夏と比べて元気な姿を見せてくれることが多い。シカもカンガルーもレッサーパンダも、木陰に入ったりせず歩き回っている。
しかし、私が担当している、この動物園で最も大きな古生物の様子は特に何も変わらない。
岩のような濃い灰色の、円筒形の建物。直径は十五メートルほどあり、上はガラスのドームになっている。
「スロースケイヴ」というちゃんとした名前が付いている、まだまだ新しい施設である。
中はほとんどが丸い運動場で、アクリルガラスで観察通路と仕切られている。
運動場の掃除を済ませると開園時間は間近だ。
私は運動場の外からロープを引いて、寝部屋の鉄格子を開いた。
ギギときしむ音を聞いて、部屋の主が起き上がり始めた。
つい一万年前まで生息していた巨大なナマケモノの仲間。メガロニクスの「ヒロシ」だ。
クマよりもごわごわした灰褐色の毛に覆われた体は、長さ二メートルをゆうに越える。
丸々と盛り上がった背中。体を囲んでいた長い腕が伸びていく。脚は反対に短い。
しかし、丸く見える手足の毛皮の中からは太く頑丈そうな鉤爪が覗いている。手は丸めて甲を地面に付けている。
鉤爪があるのなら猛獣なのかといえば、丸くて穏やかな顔はとてもそんな風には見えない。黒くて分厚い唇が微笑んでいるようにさえ見える。何に似ているかと言えば、やはりナマケモノだ。
柵を開いてもヒロシはそんなにすぐには出てこられない。
なにしろナマケモノだから。
長い腕をぶらり、短い脚でぺたり。ゆっくり、ゆっくり、進んでいく。
そうしているうちに、開園から真っ先にここを目指してきたお客さんが建物に入ってきた。五十歳ほどの夫婦で、旦那さんはかなり立派なカメラを持っている。
「おはようございます!」
「おはようございます」
私と挨拶を交わすほどの顔見知りになっている。お二人はヒロシのファンなのだ。
じわじわと歩を進めるヒロシを、旦那さんは早速撮影する。歩く様子は体調が読み取れる数少ない機会だ。
特に変わったところがないのを認め、私はバックヤードに入った。
ヒロシはなにもただ広いところに出たいだけではなく、ちゃんと目的地があるのだ。
観察通路と飼育場を隔てるアクリルガラスを区切るように、木が立っている。三メートルほどの高さで切れ、左右に枝を伸ばした、強化プラスチックの擬木である。
数十分して私がバケツの数個載った台車を押してバックヤードから出たとき、ヒロシは擬木の正面まで達して止まっていた。
そして左腕を持ち上げ、太い爪を枝に引っかけた。
続いて右手も枝にかけて、少し前に進み、ヒロシは完全に立ち上がった。
短い脚が毛皮にうもれて、まるで胴体に直接足が付いたゆるキャラみたいに見える。尾も体を支えるのに使っている。
ヒロシはこうして、擬木に寄り添うように立ち上がって過ごす。
最初からいたご夫婦だけでなく、ここまでの間に他にもお客さんが見に来てくれていたので、ヒロシの立ち上がる姿には驚きの声が上がった。
しかし、まあ、今日のヒロシの見せ場はここまでだろう。
擬木の通路側の面には扉がある。
私は南京錠を解いて扉を開け、台車を引くようにして入った。
中は空洞で、太いアングル材の骨組みで幹と枝を支えている。骨組みにはアルミのはしごがかかっている。
私は台車からバケツを下ろし、そのうちの一つの取っ手にロープをかけ、はしごに昇って引き上げた。
擬木の上から顔を出すと、ヒロシとの間には目の粗い金網がある。
バケツの中身は米ぬかと野菜を丸めた団子である。
団子を網に並べていくと、ヒロシはぐっと腕に力を込めて顔を上げた。
そして唇を突き出して団子を食べていく。
もちろん団子が尽きるまでこうしているし、なくなっても次の団子が来る時間までずっと立っている。
団子を載せ終わって擬木から出ると、あのご夫婦を含めて多くのお客さんは他に移ってしまっていた。
なかには階段を昇ってデッキに行った人もいるようだ。
スロースケイヴで暮らしているのはヒロシだけではない。
床の飼育場には確かにヒロシしかいないが、スロースケイヴは二層構造なのだ。
天井を見上げると、ガラスのドームの下には鉄パイプで組んだ格子が据え付けられている。さらに、格子には葛のつるが這い回り、一見人工物というより植物のように見える。
そして、その葛のジャングルのなかにもう一人の住人が潜んでいるのだ。
本当によく目を凝らさなければ見付からないだろう。動かないので有名になるほど動かない上に、細い四肢や長い毛は容易に植物に溶け込む。
私もデッキに上がり、きょろきょろと迷っている家族連れに案内をした。
「ナマケモノはあちらですよ。右端の垂れ下がったつるの根元です」
「あっ、本当だ!」
フタユビナマケモノの「ジェニファー」。ヒロシと交流することのない同居人だ。
サルの仲間と勘違いされがちな長い四肢、コンパクトな胴体、丸い頭。手足はハンガーのフックのようになっていて、めったなことでは格子……本来は木の枝……から落ちることはない。
「なんでナマケモノがいるんだろう」
家族連れの息子さんが疑問を呈した。
大きさから何から似ても似つかないかもしれないが、顔を見れば分かるだろう。
「下にいるメガロニクスとフタユビナマケモノはとても近い仲間なんですよ」
「ええっ!」
二種類のナマケモノがいるからここはスロースケイヴ、ナマケモノの洞窟なのだ。
ヒロシとジェニファーが同居するために、空調に工夫がしてある。
デッキに上がると下の観察通路よりずっと暖かい。氷河時代のメガロニクスと熱帯のフタユビナマケモノがどちらも快適に暮らせるよう、わざと暖かい空気が上にこもる造りにしてあるのだ。暖房は上にしかないし、換気口は下にしかない。ドームから差し込む日光は下にはあまり届かない。
絶滅してしまったナマケモノと今も生き残っているナマケモノ、二つを見比べることのできる巧妙な施設なのだ。
そして……、対比はときとして格差となる。
デッキから見下ろしていると余計によく分かるのだが、ヒロシの食事シーンはあまりお客さんの目を引くものではないようだ。
一度立って食べ始めると、もう口しか動かない。口元がよく見えるわけでもない。
ヒロシの背の高いのにひとしきり驚いたら、さほどじっくり観察することもなく、デッキまで上がってくる人が大半だ。
そして、ジェニファーは意外にも大胆な動きを見せてくれることさえある。
「あっ、あんなところに!」
ジェニファーが格子からドームの鉄骨に渡り、さらに昇り始めたのだ。
つるの這う格子もむき出しの鉄骨も、ジェニファーにとってはさして違いはないらしい。ジェニファーはどんどん高みに進んでいく。
とうとうドームの一番上まで昇りつめると、ジェニファーは中心に集まった鉄骨の間に体を潜り込ませた。葛の葉の中以上に快適な隠れ家だと思っているようだ。
「あんなに身軽なんだねえ」
「怠けてるだけじゃないんだね」
サルでもなんでもそうなのだが、高いところから落ちずに行動できるというのは、それだけで人間にとって異質な能力である。必然、動物園ではとても説得力を発揮する。
同じ動かないにしても地上では。
「あれと比べたら下のやつはでくのぼうだなー」
「完全にでくのぼうだねー」
若いカップルがヒロシを見下ろしてそんなことを言っている。
こんなのはもう慣れたから気にならないが、
「あんなんだから絶滅したんじゃね?」
これはさすがにこたえる。地上性ナマケモノが絶滅した原因の張本人たるホモサピエンスが何を言うか。
もはやちょっと大柄な古生物だというだけでは効果的な展示にならない時代なのだ。
かといって、設備を新しくしたり、ヒロシから今以上の動きを引き出したりできるだろうか。
否。
デッキの窓から隣のジェフロイクモザルの運動場が見える。池に浮かんだ島に、8の字型の雲梯が立っている。さらに丈夫な消防用ホースが、高い柱から雲梯に向かっていくつも伸びたり雲梯から垂れ下がったりしている。
雲梯は錆び付いた古いものだし、ホースはどうということもない使い古しだ。それでも、クモザル達は長い四肢と尾を駆使して、雲梯やホースにぶら下がって元気よく跳び回る。
さらにその周りの池には、カピバラが住んでいる。これなどはただここに引っ越させただけだが、本来の住み処である水中で、クモザルとほどほどに刺激し合いながらのびのびと泳いでいる。
この動物園は限られた予算で動物達が生き生きと暮らせるよう、こうしたささやかな工夫を積み重ねている。
できて十年こっきりのスロースケイヴが新たな予算を取れるはずもない。
それではスロースケイヴにもこうした工夫を加えればいいのだろうか。
私はメガロニクスの故郷アメリカで撮影された、ほとんど自然そのもののような施設で暮らしているメガロニクスの映像を見たことがある。日の出から日没までのタイムラプスだ。
どこにでも歩いていける環境だというのに、そのメガロニクスは糞をするために手をついて姿勢を変えるくらいしか動かなかったのである。
周りには色々な植物が生えているのに、そちらを探ろうとはしなかった。
ヒロシから一体どんな動きを引き出せるというのだろうか。全く心当たりはなかった。
数日後。
動物園の飼育員というのはほとんど連休がないものだが、シフト制でだいたい週に一日は休める。
それでどこに行くかといえば……、動物園。
といっても自分の働いている園のことではない。よっぽど動物の様子が心配なときなら休日でも行くが。
今日私がやってきたのは、東京都をはさんで二つ隣の県、私の実家に近い動物園である。
前に来たのはもう何年も前のことだ。こちらには私の園にいない動物もいる。それに、同じ動物であっても違った施設や手法で飼育されている様子は見ておきたい。
こちらも木々が紅葉しつつある。少し北だからか、私の園より紅葉が進んでいるようだ。桜はすでにほぼ裸である。
シカやカンガルーなどは私の園より広い運動場で暮らしている。これは単純にうらやましい。
また、アシカがいない代わりにペンギンの施設がとても充実している。
コアラは、私の園にいないものの代表格だ。屋内の飼育施設では丸太を組んだ設備に座る可愛らしい姿にお客さん達が喜んでいる。
私は、他にも可愛い動物がいることなどよく知っているので、コアラの手足の指が変わった形をしているのをきちんと見ておく。
コアラも動かないのはヒロシと変わりないが、皆こんなに一生懸命見つめている。
アイドルであると規定されたから、可愛いものだと考えられているだけだろうか。
しかし、屋内施設から出るとそこにはコアラの意外な姿があった。
本物のユーカリの樹上高く、しっかりとしがみついて眠っているのだ。
これには先ほどまでコアラをただ可愛がっていた人達も驚いていた。コアラの生きていく上での技能が感じられる。
やはり木に登れるというのはものすごいアドバンテージだ。高いところにいるジェニファーが地べたのヒロシよりずっと人気なのもよく分かる……。
コアラ舎を後にしてしばらく歩くと、見上げるほどの高さの、何かひょろ長いものが向こうに立っているのが目に入った。
それは小さな頭が載り、毛の生えた細長い首であった。
大きな鳥だろうか。一瞬エミューかと思ったが大きすぎる。ならばジャイアントモアとか。
運動場の前まで近付いてみると、立った姿勢は鳥のように見えるが、首の下の丸い胴体には大きな手と太い尾があった。手指の先は長い鉤爪で、後ろ足は鳥に少し似ているがかなり太かった。
変わってはいるもののこれは恐竜に違いなかった。
私が高校生くらいのときに、とても不思議な恐竜がやってきたと話題になった記憶がある。
パンダのように肉食の祖先から植物食に変わった恐竜、はるか九千万年前のノスロニクスだ。全国の動物園でもやや珍しい種類である。
ノスロニクスのいる運動場は土が敷かれていること以外ごくオーソドックスな造りだった。正面は掘りでこちらと区切られている。
ただし、向かって右側の金網には何か細工がしてある。
幅五十センチ、高さ二メートル半ほどの木の板が据え付けられているようだ。上のほうには餌かごがくくりつけられている。うちのスロースケイヴにある擬木の餌かごとよく似た配置だった。
ノスロニクスはかごを見つめて、餌が盛られるのを待っているのだ。案内板に記された餌の時刻はもうしばらく先であった。
通路が続いていて、その板の裏側まで回り込める。これならノスロニクスの食事が見られそうだ。私はノスロニクスを観察しながら餌の時刻を待つことにした。
恐竜の中ではやや小さいほうのはずだが、背丈は二メートルをゆうに越え、相当迫力があるように見えた。これはノスロニクスが恐竜にしては珍しく、体を起こした姿勢をしているからだ。
体を覆う毛皮は薄い茶色をしている。しかし肩から腕にかけてほんのりと黄色がかっているのがさりげなくおしゃれだ。哺乳類ではないのだからこれは毛というより羽毛だろう。
手の大きな爪が毛皮の中で目立っていた。長くて丸く曲がっているが、先はそれほどとがっていない。獲物を突き刺すのを止めて、木の幹や枝をつかむためのものに変わったのだ。
細い首から丸く膨らんだ胴体に続くラインは、まるで細首の花瓶のようだ。
どっしりと立っているところといい、毛皮や爪といい、なんだかヒロシに似ている気がする。そういえばノスロニクスのノスロとはナマケモノのことだ。
「こんにちは!」
急に声をかけられて私は背中をすくめた。
振り返るとここの飼育員のかたであった。私と同年代の女性。バケツの載った台車に手をかけている。
「餌の時間始めていきますからねー」
「あっ、はい」
飼育員さんはバケツを持って、木の板の裏にある踏み台に上がった。
バケツから出てきたのはやはり米ぬかを丸めた団子だった。牧草を食べない古生物によく与えられるものだとはいえ、こんなところも似るとは。
団子が並べられるとノスロニクスは両手で木の板を抱きかかえるようにつかみ、首を真上に伸ばして団子をついばんだ。
この姿勢は、ますますヒロシにそっくりだ。枝を押し下げるヒロシと木の板をかかえるノスロニクスの違いはあるものの、木をつかんで背伸びをすることで高いところのものを食べるというやり方が一致している。
それに、ここからだと板をつかむ爪がよく見える。体を支えるのに申し分ない力が出せるらしい。
私が感心して写真を撮っていると、飼育員さんが再び声をかけてきた。
「台に上がるとノスロニクスの顔が見えますよ」
「台?」
さっき飼育員さんが餌を置くのに使った踏み台のことだった。
来園者も上がっていいとは意外だ。板一枚隔てただけのノスロニクスを驚かさないよう、私は気を付けて上がった。
すると、私は板の上に顔を出さなくてもノスロニクスの顔が見えるのに気がついた。
正面に覗き穴があるのだ。
それはちょうど餌かごの上に開いていて、並んだ団子をノスロニクスがつつくのが目の前に見えた。
ノスロニクスの口の先端がクチバシになっているのが分かった。今にも目に刺さってきそうだ。開いた口の奥には小さな歯が見える。
それから、クチバシをかちっと閉じたり、しゅうしゅうと息をしたりする音までよく聞こえた。今まで動物を見るとき、私は音に無頓着だったようだ。
なんという情報量の展示だろう。
記録しておかないと!私は覗き穴にカメラのレンズを当ててノスロニクスの顔を撮り、さらに覗き穴自体の写真も撮っておいた。
「すごい展示です」
振り返って飼育員さんにそう言うと、飼育員さんは板の中ほどにあるもう一つの穴を指差した。
「よければお腹も見てみてください」
台から降り、かがみ込んでそちらを覗けば、今度はノスロニクスの丸々と膨らんだ腹が見えた。
真ん中に羽毛が生えていない部分があり、そこは細かい鱗で覆われているのが見えた。また腹の左右には膝があり、足には大きな鱗が並んでいる。四つの足の爪が前を向いている。重い体を支える幅広い足だった。
ヒロシと似た姿勢を取る動物でこんな展示ができているなら、きっと参考になるだろう。私は飼育員さんときちんと話して、詳しい情報を得ようと思った。
「あの」
「はい」
「私、実は二つ隣の県の動物園で働いていまして……、メガロニクスの担当なんですけれど」
私がそう言うと、飼育員さんは目を丸くして手で口を押さえた。
「ええっ!ごめんなさい、この餌台、あの擬木の真似なんです。こんな造りでみっともないです」
「そうだったんですか!みっともないなんてことないですよ」
飼育員さんは少し視線を落とし、ためらいがちに言った。
「この覗き窓……、擬木の中からメガロニクスが見れたらって思って」
それなら参考になるどころか!
私は思わず飼育員さんの手をつかんだ。
「ありがとうございます!それ、実現させますから!」
「えっ!?はい!」
それから飼育員さんの連絡先を教えてもらうと、私はまだ見ていない動物がいるのもかまわず動物園を出て電車に飛び乗り、顔を出すはずだった実家の最寄り駅を過ぎ、大きな駅で乗り換えて、自分の動物園に向かった。
擬木の構造を改めて確認しなくては。
私服のままスロースケイヴに入り擬木の扉を開け、骨組みの位置を見た。
穴を開けたら網の上がよく見えそうな位置には骨組みは通っていない。腹が見える位置も一ヶ所くらいはいけそうだ。
枝の骨組みは下から支えられているので上は大丈夫。ここにも穴があれば爪が見える。
それに、外側の強化プラスチックは大して分厚くはない。
「どした」
急に後ろから声をかけられた。
休んでいるはずの同僚が私服で設備に入っていたら当然か。
しかしこれはとても丁度良かった。
声をかけてきたのは、園内で一番大工仕事が得意な福山さんだったのだから。
そして閉園時刻を過ぎて。
「数ヶ所穴を開けるだけなら簡単だが、飼育場に置いたまま作業するなら切り粉を抑えにゃならん」
「キリコ?」
「細かい切り屑のことだ」
そう言って福山さんは、慎重にドリルを当て、急ぐことなく作業を進めていった。
覗き窓になるほど大きな穴を開けられるドリルはないので、穴の輪郭に沿って小さな穴を並べることで大きな穴にするのだ。
ドリルは回転数が抑えられ、ごく小さな音しか立てない。ヒロシやジェニファーを起こしたり、切り粉を飛び散らせたりするわけにはいかない。
私も横から掃除機を構えて切り粉を吸い込む。ガラス繊維を含む粉など場内に残したら大変だ。
擬木の飼育場側の面には発泡スチロールを当ててある。貫通しても飼育場には粉は飛ばない。
二時間ほどかけて、網の上に幅十五センチほどの穴が開いた。まだ縁はぎざぎざしている。
「見てみ」
「良さそうですね」
穴からは餌台と、その向こうの飼育場がよく見えた。そこにヒロシが立つのだ。
「縁をきれいにならすにはやすりをかける必要があるけど、それだと外側に向かって余計に切り粉が出る」
「それは避けたいですね」
「だろ。そこで、やすりをかけるのはやめて、穴に合わせた形の縁取りを別に作って両面に貼り付け、断面をパテで埋めようと思う」
福山さんは手近の紙にささっと略図を描いた。
「このパテはがっちり硬くなるやつを使う。両側の板とくっつくから力がかかっても擬木は割れないぞ」
「その方法に賛成です」
「決まりだな。さて」
福山さんは立ち上がって工具を片付け始めた。
「続きは明日にするか」
「というか、全部完成するまでしばらくかかりそうですね」
「うん。穴だけじゃなく、お客さんが見れるようにするなら扉を外して、代わりに擬木の上に蓋を作らにゃならんし」
「完成してもヒロシの様子を見てから公開しないと」
「だな」
というわけで、できかけの覗き窓に茶色い布をかけてその夜はお開きとなった。
翌日。
いつもどおり米ぬか団子を網の上に並べると、ヒロシがかぶりつく。
私は擬木から出ず、穴の裏側からそっと布をめくった。
思ったとおりだ。
ヒロシは布を気にすることなく食事を続けている。
黒い唇が団子を引き込んでいく。その柔らかく自在な動きや、唇にも細い毛が生えているのが見える。
鼻の穴の縁はかすかに濡れている。ふがふがと口から空気が漏れる音や、団子に混ぜ込まれたセロリやニンジンを噛み切る音、鼻からの息づかいが聞こえる。鼻息がこちらにかかってくるようだ。
そして、ヒロシの顔面の匂いがする。
体や糞の匂いなら普段から嫌というほどかいでいるが、このよだれのような匂いは口や鼻から出ているに違いない。
初めて、ヒロシと食卓を共にしているような気がした。
お客さんにこの存在感を味あわせるのが楽しみで仕方がない。