Lv100第三十七話
「豊玉姫 -麻耶と湊とノブ、伊豆ガイアパーク(ワニ園)-」
登場古生物解説(別窓)
 伊豆にあるちょっと変わった動物園「伊豆ガイアパーク」、その休園日の朝。
 梅の花はだいぶ散っているが、風はまだ少し冷たい。
 ワニ園の池に使う水を温める温泉の設備からは湯気がもうもうと立ち昇っている。
 その中心を貫く大通りを、私達ワニチームは黙って進んでいた。
 私は先頭で、餌の入ったバケツが二つ載った台車を押す。
 通りの両脇を囲むいくつもの池は、ワニ達と私達を確実に隔てるように頑丈な柵で囲まれている。
 精悍なナイルワニ、筋骨隆々としたイリエワニやアメリカアリゲーター、長い口のマレーガビアル、小さなヨウスコウワニ……。
 温かい湯気に包まれつつも、いかめしいワニ達の姿が緊張をもたらす。
 これから我々が取り組もうとしていることを思えば、その緊張もいっそう増す。
 白衣ををまとった獣医さんの姿もある。
 その手に握られているのは、長い銃身を持った銃である。
 世界中のワニが集まったワニ園の前半を抜けると、通りは短い橋につながる。
 ただし、橋の下は水の流れる川ではない。
 本来なら川がありそうな溝には、叩き割ったように尖った岩や砂利が連なっている。水を使わず表現された枯れ川だ。
 ここから先は太古のワニの住み処なのだ。
 まず最初に、乾いた放飼場をすたすたと歩くものがいる。
 ワニだと言えばそうとも見えるが、口は短くて平べったくない。全く這いつくばることなく軽快に進む、全長一メートルほどのもの。
 その名も「始めのワニ」、プロトスクス。最も原始的なワニはこうした身軽な陸上動物だったのだ。
 また一方には、武者鎧を着込んだ頭の小さいカバの子供のような、丸々としたものがいる。顔が特に丸く、到底ワニとは思えない。
 植物を食べるとはいえれっきとしたワニの一種、シモスクスである。お客さんが餌を買って与えることができるワニだ。
 続いて池の中に見えるのは、橋の前にいた今のワニと変わらない姿、今のワニにかなり近いゴニオフォリスだ。世話をしてみるとちょっとデリケートなところが多いのが今のワニとの違い。
 これらのワニは恐竜の時代に、恐竜といっしょになって栄えていたものである。
 しかしこのエリアの最後にいるワニは、ごく最近、ほんの四十万年前の大阪にいた、新しいワニだ。
 ゴニオフォリスの池よりずっと大きく、学校のプールほどもある丸い池に出る。
 地面に対して落ちくぼんだ池は、特に頑丈な柵で囲われている。
 冷たい風が池の上を吹き抜けてくる。
 池の向こう側には石碑がある。土を高く盛り上げたような形の石碑だ。
 そこに、白衣や作業服を着た数人が先に集まっているのが見えた。同じ敷地内にある博物館の面々だ。
 今日はこの伊豆ガイアパークのワニ園にいるワニの中で一番大きい、マチカネワニの「ノブ」を身体測定する日なのだ。
 水中では、すでにノブが餌をもらえるタイミングをうかがって半分浮かび上がっている。
 黄土色の、ワニらしからぬつるりとした鱗が並ぶ背中。水面に出た鼻先から尻尾の先まで、四メートルもある。
 まずはノブの腹を満たしてやる段取りだ。
 餌を持っている私が台車を押して一番前に出た。
 台車の音を聞きつけたノブも、岸に向かってその身を乗り出した。
 長い口が流水をまとって現れる。鋭い三角形の頭部が、ノブのシルエットをスマートなものに見せている。
 お待ちかねのご飯の時間だ。片方のバケツを開くと、丸のままのニジマスが何尾も入っている。
 一尾、ノブに向かって放り投げた。
 ノブは顎を素早く振り回してニジマスを捕らえる。
 これ自体はいつもの餌の時間と変わらない。が、私の背後には銃をたずさえた獣医さんが立っていた。
 獣医さんだけではなく、ワニチームの皆も博物館チームの人達も、私の背後で動き出す準備を進めていた。
 次々とニジマスを投げてはノブがそれをくわえ、バケツが空になったら次のバケツへ。
 今度は馬肉の切れ端を与えていく。
 最後の一切れに達する頃にはノブの動きも鈍っていた。もう満腹でそこまでがっついていないのだ。
 完食したノブは岸にうずくまり、動く気配はもうなかった。
 今がチャンスだ。
 獣医さんが柵から身を乗り出し、下に向けて麻酔銃を構える。
 パァン、と乾いた音が鳴った。
 ノブの首筋にダーツが刺さっているのを、私はしっかりと確認した。
「OKです。ノブ動きません!」
「よし、行こう!」
 ワニチームの班長が声を上げ、池の中に向かってはしごが三つ下ろされた。
 ノブの様子を見る役目がある私を筆頭に、それぞれの道具を持って次々と池の岸に降りていった。
 急がないと。ノブの体への負担を小さくするために麻酔は弱くしてある。
 真っ先に取り付いたのは頭だ。万が一動き出したときのために、口先をぐるぐるに縛り付ける。
 後頭部に布を巻いて目隠しもしておく。手足も縛る。
 それからはもう、巻き尺や定規だらけだ。
 全長、頭の長さ、口先から尻尾の付け根までの長さ、頭の幅、目の間の距離、手足や四肢の長さ…。測定値を読み上げる声が次々と上がる。
 博物館チームの記録係、春日野湊さんが小さな体でノブの周りをあちこち歩き回りながら、測定値を書き付けていく。
 その間、私はノブが目覚めないか全身の様子に注視する。
 十数人で協力して転がし、胴まわりも測った。さらに裏返し、総排泄孔(※排泄や交尾・産卵を行う穴)に体温計のセンサーを差し込んだ。
 春日野さんが体温計に近付こうと踏み出したとき。
 湿った土の上で足を滑らせ、春日野さんは尻餅をついた。
「大丈夫?」
 私は手を貸そうとしたが春日野さんはさっと立ち上がった。
「私よりノブを」
 そうだ、ノブから目を離してはいけない。
 それに春日野さんがぶつかってノブを起こしていたら大騒ぎになっていたところだ。
 幸い、ノブは動かないままだった。
 獣医さんが首筋に注射を刺して採血も行った。
 最後に、全員でもう一度ノブを転がして、丈夫なロープが四隅につながったビニールシートに載せた。
 池の外からクレーン車がフックを垂らしてきた。そこに、ロープをつなげる。
 ノブの体は宙に吊り下げられた。もし運び出すことになったときの練習でもあるし、一つだけ残った測定項目でもある。
 クレーンを操作していた副班長が顔を出し、声を上げた。
「三百五十二キロ!」
 去年よりまた大きくなった。国内のワニでも屈指の巨体だろう。
 まだ気は抜けない。麻酔がそろそろ切れるところでノブの拘束をほどいてやらないといけないのだ。
 最小限の作業者を残して大多数は上に戻った。私は見張りとして残っている。
 ノブを下ろし、縛ったときとは逆に、四肢、目、口の順にほどく。
 目の瞬膜が少し動いた気がして、私は同僚と顔を見合わせた。
 一目散にはしごを昇る。
 ノブが動き出して水中に戻ったのは、それから二分ほど経ったときのことだった。
「ノブの身体測定、今年も無事完了しました。皆さん、お疲れ様でした!」
 班長が終了を宣言し、皆でお疲れ様を唱和した。

 他のワニチームや博物館チームの皆が池を離れても、私の他に一人、ノブの姿を見つめている人がいた。
 切りそろえたボブカットに、細い縁の眼鏡。作業服の上にジャケット。春日野さんである。
「春日野さん、お疲れ様!」
「松島さん。先ほどはお見苦しいところを」
 そうは言っていても春日野さんの口調は全く平静だった。
「ノブの測定ですが……」
「うん」
「博物館にも骨格があるのはご存じだと思いますが、元々見つかっているマチカネワニの化石は全長七メートル以上と推定されています。今のノブより、はるかに大きい」
「うっ」
 四メートルの今でも大騒ぎなのに、そんな大型恐竜に匹敵する怪物に育ったノブを測定することなど、果たしてできるのだろうか。
「いやー、怖いねー……」
「十数年でそうなります」
「その間にみんな体力が落ちてるかも」
「重機を扱える人を増やすべきです」
 測定が終わってすぐのときにあまり向き合いたくない。
 私は話題を切り替えた。春日野さんにお願いしたいことがあったのだ。
「ねえ、春日野さんこっちの展示解説って興味ない?」
「ワニ園での解説ですか」
「私がやるとワニの扱いは大変だーっていう話ばっかりになっちゃうから。ワニの研究をしてる春日野さんならもっとハイレベルな話ができると思うんだけど」
 春日野さんは首をかしげ、あまり乗り気でない様子だった。でも春日野さんが協力してくれたら心強い。
 マチカネワニが見付かった大阪の大学がマチカネワニ研究の本拠地である。
 そこから、今のところ国内で最大、最年長のマチカネワニであるノブを研究しに春日野さんはやって来たのだ。
「こう、大阪仕込みのトークでワニ漫談とか」
「私にそんなことができると思いますか」
「ごめん……」
 そういえば大阪人といっても春日野さんの口から冗談を聞いた記憶がない。指で銃を作って、バーン、とか言っても、春日野さんは胸を押さえて倒れたりしないだろう。
「お願いしますよワニ博士〜、ワニ博士のワニ講座やりましょうよ〜」
「私はまだドクターではありません」
「博士(はくし)とは言ってない!」
 打っても全然響かない。あきらめて春日野さんには話の内容だけ考えてもらって、お客さんに話すのは私だけでやることにしようか。
 そう思っていると、春日野さんは池のほうに振り返った。
 ノブは岸辺でのんびりと寝ている。
 春日野さんはノブを見つめたまま言った。
「私が研究しているのはノブです。ノブのことしか私は話しませんよ」
「えっ、やってくれるの!?」
「やらないとは言いませんでしたが」
 私は春日野さんの小さな背中に抱きついた。
「やった、ありがとう!春日野さん大好き!」
「急に飛びつかないでください。眼鏡が池に落ちるかと思いました」
 本当にそう思ったのかどうか、春日野さんの声の調子はフラットなままだった。

 それから十日ほど経った日曜。
 ノブのいる池の奥、石碑の前には、親子連れ数組を中心にワニ講座を聞きに来てくれたお客さんが集まっていた。
 春日野さんの姿は今ここにはない。私は池を背にして声を上げた。
「それではお時間になりました。今日はワニ博士のワニ講座にお集まりいただきありがとうございます。さっそくワニ博士を読んでみましょう!ワニ博士ー!」
 数人の子供が声を合わせてワニ博士、春日野さんを呼んでくれた。
 すると、ガラガラと車輪の音が聞こえてきた。ワゴンを推しながら春日野さんが現れたのだ。
 汚れていない白衣をきちんと着込んでいる。博士らしいスタイルにしようとしているのだろうか。打ち合わせではそんなことは言っていなかった。
 しかし近寄ってくると、もっと驚くことがあった。
 口の上に真っ白いふさふさの付けひげをしているのだった。
 予想外に乗り気である。ベタな博士スタイルに、お客さんの中から笑い声も上がった。
 春日野さんは皆の前に立ち、ワゴンを演壇代わりに始まりの挨拶を始めた。が、
「もふふがが、もふふがもごもがふがもふもふ」
 付けひげが口まで覆っているせいで全く聞き取れない。
 春日野さんは付けひげをはがすと、
「春日野です。よろしく」
 とだけ言って終えた。
 再び笑ってくれた人もいたようではあった。ともかく進めていく。
「えー、春日野博士が来てくれたところで、まずはこの大きな池にいるワニの紹介からしていきましょう。皆さん、ワニの姿が見えますでしょうか」
 ノブは池のほぼ中央に背中を浮かべてじっとしていた。皆が、大きいね、とささやく。
「春日野博士、このワニはなんというワニですか?」
「このワニはマチカネワニです。四十万年前の大阪にいたワニです」
「大阪!ということは博士、日本にもワニがいたんですね!?」
「そういうことです。そしてそれは、恐竜が絶滅したときなどと比べればずっと最近のことです」
 春日野さんの口調は相変わらず平坦だったが、それを聞いてお客さんの間にどよめきが走った。日本にワニがいたんだって、と親が子供に念を押したりしている。
「このマチカネワニ、いったいどんなワニなんでしょうか。今日は皆さんにそれをご説明するために、用意してきたものがあるんですよね?」
「はい。まずはこの二つの頭骨です」
 ワゴンの裏からワニの頭骨が二つ出てきた。ずらりと牙の並んだ白骨にお客さんが驚きの声を漏らす。
 一方はほっそりと細長く、もう一方はがっしりしている。
「こちらの細いほうはマレーガビアル、幅広いほうはアメリカアリゲーターです」
「両方ともワニ園にいる種類のワニですね!」
 実のところこのワニ園で死んで、博物館で標本にしたものである。
「マチカネワニはこの二種類のワニ、どちらに似ているか、皆さんに考えていただきたいと思います」
「なるほど!それでは皆さん、今からこの二つのワニの骨のうち、池にいるマチカネワニと似ていると思うほうの前に集まってみてください。では、どうぞ!」
 そうは言っても一目瞭然、ノブと同じ細くてスマートな口先を持つガビアルの前にお客さんがぞろぞろと集まっていく。
 と思ったが、一人の男の子が母親をアリゲーターの前に引っ張っていた。
「こっちでいいの?」
 母親は困惑気味だが男の子はアリゲーターの前から動かない。他にも数人のお客さんがアリゲーターの前にいた。
 春日野さんはガビアルの頭骨を持ち上げて解説しようとしたが、私は頭骨に手を置いてそれを待ってもらった。
 そしてかがみ込んで男の子に問いかけてみた。
「こっちのワニ、どんなところがマチカネワニに似てると思った?」
「大きい」
「なるほど」
 男の子の返答に春日野さんが割って入った。
 アリゲーターの頭骨は幅だけでなく長さもガビアルをしのいでいる。大きいところがマチカネワニと似ているのは確かだ。
 春日野さんは解説を始めた。
「大きいということもマチカネワニの重要な特徴です。この池にいるマチカネワニは全長四メートルありますが、化石で発見されたのはこの倍近い七メートルの大きさがあります」
 それを聞いてお客さんも皆驚いていた。
「七メートルだって!そんなワニいたらどうする!?食べられちゃうよ!?」
 父親が子供をおどかしている。
 これは打ち合わせで話そうと決めたことではなかった。しかし私も不正解のアリゲーターを選んだ人をフォローできたし、春日野さんも予定外の内容を上手く話すことができた。
「さて、マチカネワニの大きさについて分かったところで、今度は形だけに注目していただきましょう。マチカネワニと形が似ているのはどちらのワニでしょうか?」
 今度は全員がガビアルの前に集まった。
「そうですね、こっちの細長いマレーガビアルがマチカネワニによく似ています!博士、口の細長いワニってどんなワニなんでしょうか?」
「はい、口の細長いワニは、よく魚を食べるワニです。細長い口は水中で素早く動かしたり閉じたりすることができ、魚を捕まえるのに向いています。しかし、」
 そこで春日野さんは二つの頭骨を横に向けた。
「魚を食べるワニには歯にも特徴があります」
 さらに、ワゴンの中からノブの横顔の写真を示すフリップを取り出して立てた。
「これはマチカネワニの歯の写真です。どうでしょうか、歯はどちらに似ているでしょうか」
「さあ皆さん、今度は歯がマチカネワニに似ているほうの前に立ってみてください!」
 再び選んでもらったが、今度はあまりすんなりと選ばれることはなく、皆迷った末半々ぐらいになった。
「みんな似てる!」
 さっきと別の男の子がそう叫んだ。私はまた前に出て聞いてみた。
「どんなところが似てますか?」
「ぎざぎざなところ!」
 はっきりした答えが返ってきた。これなら助かる。
「そうですね。ワニはみんな肉食なので、他の生き物を捕まえて食べるためにぎざぎざと鋭い歯が生えています。マレーガビアルが捕まえるのは魚でしたね?」
「はい。そのためマレーガビアルは小さな魚も逃がさないように、細く尖った歯が櫛のように生え揃っています。それに対して、」
 春日野さんはガビアルの頭骨にアリゲーターの頭骨を重ねてみせた。
「アメリカアリゲーターの歯は太く、ところどころ周りの歯より大きくなっています。これはマチカネワニも同じです」
「では博士、マチカネワニは魚だけを食べていたとは限らないということでしょうか?」
「そのとおりです。アメリカアリゲーターは陸の動物を待ちかまえて食べることもよくしますが、マチカネワニも陸の動物を食べることがあったようです」
「そうだったんですね!マチカネワニは魚も陸の動物も食べるワニだったんですね。そこで今回は、」
 ワゴンの下段から、いつもの餌のバケツ二つを引きずり出した。
 傾けて中身を見せる。ニジマスは丸ごとではなく二つに切ってある。
「皆さんの手で、実際にマチカネワニに魚とお肉両方を食べさせていただきたいと思います!」
 列を作って、一人につきニジマスと馬肉を両方一つずつ与えてもらう。
 多くの人があげられるようにいつもより小さな餌である。それに、慣れていないお客さんが投げるので位置もずれている。
 それでもノブは素早く顎を振り回し、どの餌も確実にくわえていった。その身のこなしに歓声が上がる。
 全て食べ終わったノブは岸に上がって休み始めた。おかげで全身がよく見えるようになった。
「さて皆さん、マチカネワニには口以外にも他のワニと違う重要な特徴があります。そうですよね、博士」
「はい。今ちょうど見やすくなっています。この絵と比べてみてください」
 ノブの横顔のフリップを裏返すと、いかにもありがちなワニの絵が描かれている。このガイアパークの案内板に載っているものだ。
「はい、よくあるワニの絵ですね。この絵とマチカネワニでは全く違うところがあります。それはどこでしょう?」
「黄色いところ!」
 すぐさま子供の声が響いた。
 黄色い?
 言われてみればノブは黄土色で、絵のワニは濃い緑色だ。しかしこの絵はデフォルメされたワニのイメージであって、本物のワニは緑色をしていない。当然すぎて予想もしていなかった答えだ。
 私がひるんでいるうちに春日野さんが話し始めた。
「そのとおり、マチカネワニは黄色っぽい色をしています。これは濁った水に住むワニの特徴です。一緒に見付かった貝の化石や地層の様子から、マチカネワニも沼地に住んでいたのではないかとも言われています」
 私も知らなかった内容だった。対応も春日野さん任せになってしまったが、答えてくれてよかった。
「さあ、色という意見が出てマチカネワニの秘密がまた一つ明らかになりました。もう一つ、この絵とマチカネワニで違うところがありますよ!」
 改めて呼びかけたが、少し難しかったのか特に意見が出なかった。
「では私から説明しましょう」
 春日野さんがまた別の標本を取り出した。
 二枚の板状の骨である。蜂の巣のように穴だらけだ。ただし一方は三角の出っ張りがある。
「これは背中の鎧の骨、鱗板骨です。こちらははアメリカアリゲーター、そしてこちらがマチカネワニのものです」
「出っ張りがあるほうがアメリカアリゲーター、ないほうがマチカネワニですね!」
「そうです。そこで改めて絵のワニとマチカネワニを見比べてください」
 再び観察をうながすと今度はすぐに答えが出た。
「あのワニ、出っ張りがないよ!」
「つるっとしてる」
「そのとおりです。マチカネワニの背中は他のワニのように尖った出っ張りがなく、つるりとしているのが特徴です」
「博士、出っ張りがないとどうなるんでしょうか?」
「では、こちらをご覧ください」
 春日野さんは新しいフリップを取り出した。
 全体が青っぽい写真に大柄なワニが写っているが、背中の出っ張りだけ赤くなっている。
「これはワニが背中の出っ張りから熱を放出する様子を写したサーモグラフィーです。出っ張りには熱を放出する機能があるのです」
「それじゃあ、出っ張りのないマチカネワニは熱を放出できなかったんですか?」
「あまり熱を放出する必要がなかったのです。それは、マチカネワニが大阪に住んでいたことと関係があります」
 そう言うと春日野さんは、ワゴンからひもの付いた小さなバケツを取り出した。これが最後の道具だ。
 振り返って、バケツを池に下ろし、水を汲み上げる。
「この伊豆でたくさんのワニを飼っているのは、温泉で温めれば熱帯の生き物であるワニを一年中健康に飼うことができるからです。しかしこの池の水は温められていません」
「他のワニの池と違って湯気も立っていないですね!」
「これは、マチカネワニのいた当時の大阪も今と変わらない気候だったためです。マチカネワニはワニの中では冷たい水に適応したワニだったのです」
「だから熱を放出する出っ張りはいらないんですね!」
「そういうことです」
 お客さんも皆感心して聞いてくれたようだった。
「さて皆さん、後ろにある石碑をご覧ください」
 春日野さんは道をはさんで反対側にある石碑を指差した。
「マチカネワニの見付かった待兼山をかたどった石碑です。大阪でマチカネワニが発見されてから、再生された個体のうち一頭がこのガイアパークに来るまでのことが記されています」
「日本の大阪にも四十万年前までワニがいたこと、そしてそのワニがどんなワニだったかということ、今日はこれを覚えてくださればと思います。皆さん、ご参加ありがとうございました!」
 盛大な拍手をいただいて終えることができた。

 ワニ講座が終わり、石碑やノブの前で記念撮影をしたり春日野さんに質問をしたりするお客さんもいなくなって。
「上手くいってよかったね」
「予想外のことや改良すべきことも色々とありました」
「うん。やっぱり春日野さんの知識がなきゃ駄目だったよ。これからもよろしくね」
 そう言うと、春日野さんは珍しく笑顔を見せた。
「もちろんです。マチカネワニのことを人に伝えられて、本当によかったですから」
 春日野さんは石碑に歩み寄り、マチカネワニの来歴が刻まれた面をそっとなでた。
 日本で古生物の再生が始まってからすぐマチカネワニも再生され、大阪で飼育が始まった。
 ノブはその中で最初の個体群から生き残り、特に大きく育った一体だ。
「大阪にも小さなマチカネワニならいますが……、いずれはノブを大阪の人達に見せたいです」
「せっかくなら、大きいのがいいよね」
「そうです。せっかくなら……」
 春日野さんは石碑から顔を上げてこちらを見つめた。
「七メートルまで育ったノブを見せたいです。こんなに大きなワニが大阪にいたんだということを、大阪の人達自身に見せる設備が大阪に作れるといいです」
 春日野さんの声はいつもどおり平坦で、しかし力がこもっているように、私には聞こえた。
 博物館の骨格と同じ七メートルの巨体に育ったノブが、身を横たえ、尾を波打たせて泳ぎ、餌を捕らえる。
 そんなノブの身体測定は、当然、今と比べものにならない大騒ぎだろう。体重はきっとトンのオーダーに達する。
 でもマチカネワニよりはるかに大昔の恐竜だって、そのくらい大きいものが飼われているのだ。ノブもいつか、きっと。
 そのときノブは今よりさらに多くのことを、私や春日野さんや、見に来てくれた人達に教えてくれるのだろう。
 その舞台はこの伊豆より、かつて四十万年前にマチカネワニの暮らしていた大阪であるべきか。
「ねえ、ノブと一緒に大阪に帰りたい?」
「え?ええ、できれば」
「じゃあ私は、二人についていきたい」
 私も春日野さんと二人で、ノブの成長を見守り続けたい。私なら、きっとその役に立つ。
「ノブの見張りを任されるくらいですからね」
 春日野さんはそう言って、体ごときちんとこちらに向き直った。
「いつかノブを大阪に連れて帰りましょう。そのときは、よろしくお願いします」
「うん、私こそ」
 ノブが七メートルになったって、必ず上手く世話してみせる。ノブにとっては育って当然なのだから、そうなったほうがいいのだ。
 石碑の後ろにはモクレンが白く大きな花を咲かせ、私達の誓いを見届けていた。
 新たな春。ノブはこの先の四季で、また少し大きくなるだろう。
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