Lv100第三十八話
「船幽霊 -明代とジュウゾウ、シゲミ、伊豆ガイアパーク(博物館)-」
登場古生物解説(別窓)
 伊豆ガイアパークでも夏の足音が聞こえつつあった。カメやワニのプールを温める温泉設備から立ち昇る湯気がちょっと暑苦しい。
 ついこの間まで園内を花で彩っていた桜やハナミズキ、ツツジはすっかり緑の葉を茂らせ、濃い影のトンネルを作っていた。
 それを抜けてパークの中央に達すると、突然明るくなる。しかし視界が開けるわけではない。
 木々の代わりに巨大な岩石がそびえたっているからだ。
 さらさらの泥岩、赤くつるりとしたチャート、波打つような筋の走った石灰岩、ごま塩の花崗岩……、種類の異なる岩の柱が、植物にも負けないにぎわいを見せている。
 なぜ全体的には動物園であるガイアパークにこんな岩が揃っているかといえば、これがこの奥にある自然史博物館の展示物だからだ。
 周りの岩石に似た灰色の建物は重厚で、博物館としてもそれほど小さくはない。
 その軒先に、私が飼育を担当している生き物が住んでいる。
 今ちょうど遠足でやってきた幼稚園児達がその生き物のいるプールを取り囲んでいるところだ。
 引率の先生が子供達に呼びかけようとしていた。
「それではカバさんを呼んでみましょうね!せーの……、」
「カバさんじゃあないんですよー!」
 私はとっさに割って入った。が、勢いでカバさんと叫んでいる子供もいた。
「これは千七百万年前の海にいた動物、デスモスチルスです!」
「ええ?」
 引率の先生は戸惑っている。まさか楽しくカバさんを見ようとしているところに飼育員に揚げ足を取られるとは思っていなかったのだろう。
 しかし私は飼育員として、来園した子供達に間違った情報が広まるのを見過ごせない。
「静かに見守って、カバとどこが違うか見てみましょうね」
 二頭のデスモスチルスは、一見カバのような丸々とした背中を水面に浮かべている。大きさもカバとさして変わらないくらいあるし、目と鼻の穴が水から出ているのもカバと似ている。
 しかし水面下に目を向ければ、顔はもっと小さくてスマートだし、前脚の先は丸い足ではなく水かきになっている。後ろ脚は平泳ぎのような姿勢で固定している。耳たぶはない。
 そうした特徴を話す前に、引率の先生は子供達を連れて博物館の館内のほうに移動し始めてしまった。
 動物園に「お勉強」をしに来たつもりなどさらさらなかっただろう。放っておいてカバだと思わせて見せておくのとどっちが良かっただろうか。
 まあそんなことは今この場で考えても仕方がない。なにしろ根深い問題なのだ。館内にはカバとデスモスチルスの骨格がならべてあるが、あの先生がそれらを恐竜だと言うのに千円賭けてもいい。
 私は本来の目的、プールの外からの観察を行った。
 オスのジュウゾウと、少し小さいメスのシゲミ。どちらも異常はない。背中はつやつやと張りがあるし、四肢はがっしりと力強そうだ。
 ジュウゾウがシンバルをそっと鳴らすように前足の水かきを動かすと、体全体の向きがゆっくりと変わる。そうしてジュウゾウはシゲミの脇腹に口先のひげをこすりつけていた。
 今年も繁殖が期待できる。私は時計を見ながら手帳にその様子を書きつけた。

 放飼場の掃除や観察記録の整理を済ませ、メールのチェックをしていると。
 ジュウゾウとシゲミの子供を飼育している動物園や水族館からの連絡に混じって、英文のみのメールが届いていた。
 アメリカのカリフォルニアにある動物園からだ。一体何の相談だろうか。
「春日野さーん、ちょっと英語のメール読んでくれない?」
 ワニを研究している春日野さんを呼ぶと、小さな背中がくるりと振り返った。
「ご自分でも読めるでしょうに」
「読み違えたりしたらよくないじゃん?」
「それはそうですが、間違えずに読めるようになっていただきたいものです」
 そうは言っても読んでくれるのがいいところだ。
「えー、情報提供のお願いですね。デスモスチルスの飼育について教えてほしいので、まず飼育員をこちらに一人送って研修を受けさせてほしいとのことです」
「へ、なんで?向こうからこっちに?」
 日本にもたくさんの古生物が飼われているが、現生の生き物と同様アメリカの技術や環境にはかなわないことだらけだ。それにガイアパークはぼちぼち老朽化しつつあるところもあり、最先端の施設とはとても言えない。
「デスモスチルスのことさえ分かればいいようですが」
「あっ、そうか!アメリカでもデスモスチルスは見付かってるけど、飼ってるのは日本だけなんだ!」
 デスモスチルスは日本のほうが研究が進んでいる数少ない生き物のひとつである。化石から姿が明らかになったのは日本でのことだ。その分、飼育も日本のほうが進んでいる。
「デスモスチルスのことならこちらに学ぶこともあり得ますね」
「なるほどー……、じゃ、春日野さんお願い」
 春日野さんは素早く振り返った。
「何をですか?」
「だから、向こうの飼育員さんの相手。英語話すほうも上手いんでしょ」
 私がそう言うと、春日野さんは私のまとめていた飼育記録ファイルを手に取った。
「この記録を英訳して話すことができますか?」
「あー、まあ、なんとか」
 春日野さんはファイルをぺらりとめくり、ページを眺めてから言った。
「私には無理ですね。私はマチカネワニのことしか分かりませんから。この記録に書かれているようなことをきちんと伝えてあげてください」
 やられた。春日野さんは涼しい顔で席に戻っていく。
 せめて春日野さんが去る前にメールの返信を任せればよかった。まずは来週、ジャスティンという飼育員が来るのを相手しないといけない。

 何度かメールをやり取りして一週間ほど。
 ガイアパークに現れたジャスティン、もうメールではジョーと呼んでいたが、ジョーは初夏の日差しにつやめく黒い肌と、見事に引き締まった長い四肢を持つ女性だった。アメリカ人といえば白人と勝手に思っていたので意表を突かれた。
「アキヨね?初めまして。会えて嬉しいわ」
「はじめまーして、じょー」
 むろん私の英会話はややおぼつかない。
「早速デスモスチルスを見に行きましょう!今見れるわよね?」
「見れまーす」
 デスモスチルスは太平洋の北側の生き物だが、それほど現代の夏が不得意というわけではない。二頭は今も日差しの中で背中を浮かべている。
 滑らかな茄子のような姿を見るなり、ジョーは熱い歓喜の声を上げた。
「ああーっ!ついに出会えたのね、本物のデスモスチルスに!思ったとおり、なんて綺麗で面白いのかしら!」
 綺麗?どっしりとして美しい感じはしないんだけど、まあ流線型だからそう言えなくもないか。面白いのは同意する。
「ねえ、だって、アメリカの図鑑だといまだにデスモスチルスはわけわかんない絵で描かれてるのよ!図鑑を作るときに本物を見に来るべきよ!」
「そのとーりですね」
 その代わりアメリカの図鑑にはティラノサウルスの写真がふんだんに載っているわけだが。
 ジュウゾウは昨日に引き続いて口ひげをシゲミにこすりつけている。
「あれは繁殖の前の行動でーす」
「繁殖も成功してるんだったわね!いつかうちの動物園にもお迎えしたいわ」
「飼える準備できたーらぜひ」
 ジョーと私はそれから、ジュウゾウとシゲミのいるプールの周りを歩き、二頭の様子と、二頭のいるプールの造りを両方とも見て回った。
「水温は?」
「冬も十五度いじょうでーす。人工海水でーす」
「十五度……、セルシアスで?」
 アメリカでは華氏で温度を表すけど十五度というのは摂氏で表した温度か、という意味だと気付くのに少しかかった。
「そうでーす」
 そう聞いてジョーはスマホをつつき始めた。温度を換算しているのだろう。それからそのスマホをプールのほうに向けた。
「何してまーすか」
「アプリでプールの広さを測ってるの。ずいぶん広いけど、水量は何トンあるの?」
「四百トンでーす」
「そんなに!」
 ジョーは大声を上げた。アメリカでの海獣の飼育環境が恵まれていることからすれば、驚くにはあたらないと思うのだが。
「向こうのほう深ーいですから」
「それにしてもデスモスチルスにそんな水量が必要なんて知らなかったわ……、でも大きいこと以外変わったところはないわね」
「ではー、博物館の中からー見てみまーしょ」
「館内?」
「中からーもプール見えまーす」
 博物館は地球の歴史を始まりからたどる構成になっている。
 地球を形づくったような隕石から、ストロマトライト、アノマロカリスや三葉虫の化石……、さらには恐竜の骨格まで並んでいるが、もっとずっと立派な博物館がたくさんあるアメリカから来たジョーがこれらに見応えを感じるはずがない。
 恐竜絶滅から五千万年ほど後、中新世の展示室までまっしぐらである。
 暗い展示室の一番奥の壁は、プールの中が見えるアクリルになっている。館内の床とプールの底が同じ高さで、プールの中に突き抜けていきそうだ。
 さざ波をくぐり抜けて揺らめく光が展示物をなぞる。
 ゾウの仲間のゴンフォテリウムの骨格や、たくさんの貝の化石の向こうに、お目当てのものがある。
 デスモスチルスの骨格だ。
 化石やそのレプリカではなく、以前ここにいたデスモスチルスが死んだときに作った生の骨格標本である。
「ファンタスティック……!」
 ジョーがつぶやいた。
「生きてたときのままポーズでーす」
「そうよね!?関節のつながりで迷うことないのよね!?」
「標本作るとき気を付けなーいと変になりまーすけど」
 拍手するような前脚、カエルのように引き縮めた後ろ脚。水面でリラックスしている姿勢だ。
 この個体の性別は、年齢は、死因は、体重は……、ジョーはたくさんの質問を私に投げかけながら、あらゆる角度から骨格の写真を撮った。
 それから、骨格の下にずらりと並んだ、デスモスチルスの抜けた奥歯も一本ずつ撮っていった。
「カリフォルニアロールね」
 デスモスチルスの仲間特有の、海苔巻きを束ねたような歯を見てそんなことを言った。
「すぐにご飯の時間でーす」
「え?ああ、デスモスチルスのね!見るわ!」
 きらめく水面の下に、丸いお腹とセイウチに似た口、力の抜けた四肢が見える。
 水中の様子を気にして、たびたび上半身を沈めてこちらを向いた。
「やっぱり綺麗」
 ジョーはそう繰り返した。
 やがて予定の時刻。
 水面上で同僚が合図をしただろう、ジュウゾウが先に潜ってきた。前脚は後ろに倒してそのまま脇に引き付け、後ろ脚をカエルのように蹴り出す。
 ジュウゾウはこちらのアクリル面に真っ直ぐ向かってくる。ジョーは満面の笑みでジュウゾウと対面していた。
 ジュウゾウが目指してきたのは、アクリル面の下端を横断する透明なプラスチックのパイプだ。ひげをこすりつけて、穴の開いたところを探している。
「これは何?」
「食事を与えーるシステムでーす。左上から出てきまーす」
 パイプの根元をたどるとアクリル面の縁を伝って水面上、今同僚が立っているところにつながる。
 そこから、肌色をした塊が現れた。
「あれは何?」
「あー……」
 大アサリの剥き身、って英語でなんて言うんだろう。
「大きい二枚貝の肉でーす」
「二枚貝……、後で学名を教えてくれる?」
「そうしまーす」
 生き物のことなら学名を使えば通じ合える。
 剥き身はパイプの中を流れる水流に乗って正面まで流れてくる。
 そして穴のところにさしかかると、待ちかまえていたジュウゾウに吸い込まれた。
 続いてイカの胴とゲソ、さらにアジのぶつ切りが流れてくるのを見るなり、突然ジョーが笑い出した。
「コンベアベルト・スシ!日本のデスモスチルスはコンベアベルト・スシを食べるのね!」
 一瞬何のことか分からなかったが、要するに回転寿司のことだった。
「これのおかげで、デスモスチルスは潜ることして餌探せまーす。お客は自然な行動を近く見れまーす」
「とっても合理的なスシバーなのね。あのカリフォルニアロールみたいな歯はどう使うの?」
「あの歯は噛むことに使われないでーす。食べるときは吸い込むことだけでーす」
 なにかと積極的なジュウゾウに続いてシゲミも食事をしに降りてきた。
 ひげだらけの柔らかい口先を膨らませたりしぼませたりしながら、流れてくる魚介類を次々と吸い込んでいく。
 そうした餌を食べる様子だけでなく、ジュウゾウとシゲミの体全体をじっくりと見ることができる。
 丸々とした大きな背中。鼻先から額、首、肩、背中を通ってお尻まで一続きのアーチ。しわの走り方。灰褐色の肌にぽつりぽつりと生えたうぶ毛。四肢の水かきの先にある平たい爪。
 それらを見つめるジョーの目はうっとりとしていた。
 そのまま二頭の食事が終わり、再び水面に浮かび上がるまで見届けていた。
「展示してーるところの案内は終わーりまーした。バックヤードで資料をお見せしまーしょ」
「えっ、ハウスは?」
 ハウス、と言われて、ジョーが何のことを指しているのか分からず、私は首をかしげてみせるしかなかった。
「デスモスチルスが夜寝るところがあるでしょう?」
「プールで寝まーす」
「ほんのちょっとしか陸がないじゃない。あんなところに上がって寝るの?」
 そこまで言われてようやく、ハウスとはいわゆる獣舎のことで、ジョーはデスモスチルスが陸に上がって屋根の下で寝るのだと思っていることが分かった。
 しかし、ずっとデスモスチルスを世話してきて、二頭が突如として水から上がって陸で眠り始めるところなんて見たことがない。
「デスモスチルスは水から出ませーん」
 私がそう言うと、ジョーは目を見開いた。
「嘘!」
「ホントでーす。デスモスチルスはホントの海獣でーす」
「だって、あんなにしっかりした脚があるのよ?大して泳ぎが上手いわけでもないのに、あれでずっと水中にいるっておかしくない?」
「手足は水かきでーす。重い体で陸を歩けませーん」
 私がそう言うとジョーは一旦黙って口を手で押さえたが、すぐにまた口を開いた。
「本当にあの狭い陸場に上がって寝てるんじゃないの?誰かちゃんと見た?」
「夜の当番の人、誰もデスモスチルスが水から出たところ見たことありませーん」
「それだって一晩中見てるわけじゃないでしょう?目を離してる間に上がって寝てるのかもしれないわ」
 確かに、デスモスチルスが夜にどうしているか一晩中見て確かめた人はいない。出産で昼夜問わず見張ったことはあるが、それはまた別の話だ。
 とはいえ、元々このプールも半分は陸場だったのを、そこをデスモスチルスが利用している形跡が全くないからプールを拡張する工事が行われたのだ。
 デスモスチルスは陸に上がらない。これは日本でデスモスチルスの飼育実績が蓄積されて得られた知見のはずなのだが……。
「必ず確かめたいならー、じょーが自分で一晩中見てるしかありませーん」
「そうさせてもらえるのね!?」
「えーっと……」

 結局、本当にジョーが一晩中デスモスチルスを見張ることになってしまった。しかも私も一緒にだ。
 館長や園長まで「本当にデスモスチルスが夜どうしているか確かめられるならいいことだ」と言い出し、あっさり許可を与えてくれたのだ。
 プールの横には出店を出すのに使うテントが立てられ、二頭と向かい合っている。
 対する二頭は、プールの浅いところに前脚を付いて伏せるようにして休んでいる。この体勢から匍匐前進で上がってくるかもしれないとジョーは思っているわけだ。
 今までの飼育と観察の記録をテントの中に持ち込み、私が英訳してジョーに読み聞かせていた。
 それが終わる頃にはすでに夜の八時、あたりは真っ暗になっていた。赤いセロハンを通してプールに向けられた明かりが、二頭の背中を照らしている。
 私とジョーは毛布にくるまってしゃがみ、二頭を見つめた。ジョーは翼を授けるという炭酸飲料を飲んでいる。
「アキヨ、もし私が寝てしまったらきっと起こしてね」
「はい。でもじょーは私が寝てーてもデスモスチルスが上がってこなーければ起こさなくていーですよ」
「それじゃ私を起こす人がいなくなるわ」
 しかし、余計な光が二頭に悪影響を及ぼさないようテントの中の明かりを消して少しすると、もう私の意識はなかった。

 急に支えがなくなって体が傾く感覚で目が覚めた。
 園内はすでに朝日に照らされている。日中と違ってまだ涼しい。
 ジョーは立ち上がって手すりにつかまり、プールを見下ろしていた。
「ああ、ごめんなさーい、じょー。あなたを枕にしていまーした」
「こちらこそ起こしてごめんなさい。ねえアキヨ」
 振り返ったジョーのまぶたは重そうだったが、その笑みは晴れやかなものだった。
 その向こうに見える二頭は水中にいる。
「あなたの言うとおり、デスモスチルスは本物の海獣だったわ!」
 ジョーは、本当に一晩中二頭を見つめていたのだ。
 それだけ言うとジョーはふらふらとこちらに近付いてきた。きちんと眠らないともうもたないだろう。
 私自身も座り寝で体が痛くなっていたが、立ち上がってジョーの肩を支えてやった。館内の宿直室まで連れて行かないといけない。
「疑ってごめんなさいね……、デスモスチルスって本当に面白いわね……」
 手を引いて歩く間もジョーは目を閉じかけながらこんなことばかりつぶやいていた。
 私は本当にデスモスチルスが陸に上がらないかどうか確かめられなかった。ジョーは確かめたのだ。
 別にデスモスチルスが陸に上がるかもしれないと思ったわけではない。しかしジョーが起きていられたのは、先入観なくきちんと疑うことができたからだろう。
 私はジョーがうらやましかった。デスモスチルスがずっと水中にいたのが見られたことだけではない。
 ジョーは全く新鮮な目でデスモスチルスを見ることができたのだ。
 今のところデスモスチルスの飼育では日本がずっと勝っている。しかしジョーのような人がいればいずれ追いつかれ、追い越されてしまうのではないか。
 デスモスチルスをより良く暮らさせて、デスモスチルスのことを知らしめるためには、それはそれで歓迎すべきことだ。
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