Lv100第二十話
「ヴォジャノーイとルサールカ -千尋とマコトとルミコ-」
登場古生物解説(別窓)
 沖には黒潮が初夏の日差しの中で煌めきながら流れ、この小さな入り江は暖かな海獣の楽園として保たれている。
 ハンドウイルカやカマイルカが飛び跳ね、水しぶきを上げる。
 カリフォルニアアシカとゴマフアザラシは海面に浮かぶ舞台の上でボールをはじき上げ、投げ輪を受け止め、お茶目なポーズを決める。
 そのたびに、岩礁に貼り付くように建てられたスタジアムから拍手と笑い声が広がる。
 ここは自然の入り江を外の海から区切って海獣達のプールに変えた水族館。海の哺乳類を飼育することにかけてはそれなりの歴史を持つ、マリンパークとか呼ばれるようなリゾート向けの施設だ。
 私のパートナー達も海獣だが、このパフォーマンスショーには出ていない。華麗な演技を見せるのとは少し違う役目があるのだ。
 イルカ四頭のコンビネーションジャンプが決まり、今回一番の拍手の中、四頭が逆立ちで水面から出した尾鰭を振ってパフォーマンスが終わった。
 それから、補足のアナウンスが流れる。
「この後間もなく十一時半より、スタジアム下にある海中観察フロアで一千万年前の海獣アロデスムスの解説ショーを行います。大きなアロデスムスの水中での軽々とした身のこなしを、皆様是非ご覧になっていってください!」
 席を立とうとするお客さんが少しだけざわめく。
「ここにも昔の生き物いるんだねー」
「恐竜?」
「恐竜だったら恐竜って言うんじゃない?」
 古生物の展示もだいぶ普及してきたが、この水族館には今のところ一種類しか古生物はいない。
 お昼前だしあのアナウンスだけだと今一つ何だか分からないということもあって、私の待機している海中観察フロアに降りてくるお客さんはごく一部である。
 スタジアムの裏手に降りて、さらに座席の下に突き抜ける階段を下ると、左右に広がった空間に出る。
 正面には太い柱が並び、間に分厚いアクリルガラスが嵌め込まれている。
 その向こうの碧い水を、先程主役を果たしたハンドウイルカがかすめ通った。
 スタジアムのある建物は海面の上に立っているだけではなく、海底に土台の一部があり、海の中まで見られるようになっているのだ。
 十数人のお客さんが、私の立っているのを見てフロアの奥に進んできた。
 不意に数人がその影に気付く。
「わ、大きい!」
「トドかなあ」
 イルカと大差ない巨体が窓のすぐそばでターンした。
 アザラシなどと比べると少し脂肪の少ないスマートな黒い体、前脚も後ろ脚も立派な鰭になっている。顔面はネコのように丸いが、鼻筋はコッペパンでも付いているのかと思わせるふっくらとした形だ。
「はい、お時間ですので説明のほう始めていきましょうね。この大きなアシカのような動物が、一千万年以上前の海獣、アロデスムスのマコトくんです!」
 私がそう言ってガラスのほうに手を掲げると、マコトは翼のような前脚を一振り、その勢いだけでこちらに向かってきた。
 お客さん達は短い驚きの声を上げ、ぴたりと止まったマコトに軽い拍手を送った。
 マコトはガラスのすぐそばで立ち泳ぎしている。今度は前脚ではなく、尾鰭のような後ろ脚を左右交互に広げて振っている。
「一輪車漕いでるみたい」
 小さな女の子が言った。
「そうですね、よく気付いてくださいました!今マコトくんは後ろ脚の鰭を使って浮かんでいます。これはアザラシと同じ泳ぎ方です」
 説明している間、マコトは浮かび上がって顔が見えなくなった。
 水面上にいる先輩の声がイヤフォンから聞こえる。
「シシャモ三匹です」
 マコトは息継ぎをしながら、同僚がくれているシシャモを食べているところだ。
「さて、さっきマコトくんがここに来たとき、どうやって勢いをつけたのかご覧になった方、いらっしゃいますか?もう一度、マコトくんに思いっきり泳いでみせてもらいましょう。今度も後ろ脚を使うか、よくご覧になってくださいね!」
 言い切るのと同時くらいに、上で先輩がサインを出した。
 マコトは前脚を胸の前に出すと同時に身をよじり、前脚で羽ばたきながら奥に向かって突き進んでいった。再びの素早い泳ぎにお客さん達が嘆息を揃える。
 向こう岸でマコトは振り返り、戻ってきた。
 そしてこちらに着く前に、一気に上昇。水上に飛び出す。
 たくさんの細かい泡に包まれて、マコトは目の前に飛び込んできた。スタジアムでのパフォーマンスと変わらない喝采が起こった。
「はい、こんなに勢い良く泳ぐこともできるんですね!今度はアシカと同じで前脚を使っていました。アロデスムスは、アザラシの泳ぎ方とアシカの泳ぎ方、両方が使えるんです!」
 明るい声でこの演技の眼目を解説したが、しかし内心、肝を冷やす場面があった。
 マコト自身のことではない。マコトが向こう岸に着いたのとちょうど同時くらいだった。
 その岸から潜ろうとしたものが見えたのだ。
 もう一頭、ルミコに違いなかった。潜ったりするような状態ではないはずなのだが……。
 マコトは立ち泳ぎに戻って、また顔が見えなくなっていた。次の動きがあるまで少し時間がかかる。私はさらに解説を続けた。
「アシカとアザラシ両方の特徴を持ったアロデスムスですが、どちらの祖先でもないんですよ。氷河期より前の暖かい海には、同じ祖先から生まれた三つの動物、アシカの仲間、アザラシの仲間、そしてアロデスムスの仲間が泳いでいました。氷河期が来て海がそれまでより冷たくなってしまったとき、たまたまアロデスムスの仲間には生き残れる種類がいなかったようなんです」
 お客さん達の大半は感心して聞いて下さっていたが、数人は水面の様子に気付いたようだった。
「船が来たよ」
 さっきの女の子がお母さんに教えようとしていた。
 イヤフォンからまた先輩の声が聞こえた。
「三日月です」
「三日月ですね」
 マイクの回線を切り替えて返事をした。準備完了だ。
「さあ、皆様にはマコトくんの泳ぎがとっても上手なところを見ていただきました。今度は泳ぎだけでなく、とっても目が良くて器用なところをお見せします!」
 四隅の水面から何かが沈んできた。
 中の見えない真っ黒い箱が浮かんでいて、底からロープが垂れ下がっている。
「今水面に出てきたのは、マコトくんの大好物のイカを入れるための容器です。下からロープを引っ張ると蓋が開いてイカが落ちてくるんですけど、イカが入っているのは四つの容器のうち一つだけです。ロープの先をご覧ください」
 それぞれ形の違う銀色の板がくくりつけられている。
「ここからははっきり見えませんが、太陽、星、満月、そして三日月の錘が付いています」
 そのうち二つは海底から突き出た岩や観察窓の柱の影に隠れている。
 マコトは容器ではなく私のほうに向かって潜ってきた。今度は逆立ち泳ぎだ。
「マコトくんはどの容器にイカがあるのか教えてほしいみたいですね。真ん丸の大きな目で、ちゃんとこちらが見えているんです。今回イカが入っているのは、三日月の容器です!」
 腰のポーチから錘と同じ形の板を取り出して、マコトに突きつけた。
 マコトはそれをじっと見つめてから、また泳ぎだした。羽ばたきでロープに近付き、足漕ぎでその場に留まりながら錘の形を確かめていく。
「さあ、間違った容器を開けたらやり直しですよー。三日月の容器はどれでしょうか」
 一ヶ所目、違う。二ヶ所目、岩に回り込まないと見えなかったが、これも違う。
 次のロープに近付き、錘を見る。
 そして食らいついて思いっきり引っ張った。これが三日月だ。
 容器の蓋が下に開いて、丸ごとのヤリイカが滑り落ちてきた。
「お見事、正解です!マコトくんはちゃんと正解を引き当てることができました」
 お客さん達は拍手で大成功を讃えてくれたが、マコトが小さくもないイカを一呑みにしてしまったので驚きの声に上書きされた。
 続いて、正解の容器と容器を浮かべる場所を変えてもう一度チャレンジ。正解の容器だけわざと遠くに浮かべられたが、マコトは手近の三つが違うと分かるとそちらに直行しすぐさまロープを引っ張った。
「さあ、皆様アロデスムスは絶滅した動物ですけど、とっても上手に泳いだり餌を探したりできることがお分かりいただけたでしょうか。当館にいるような海の仲間達が、今だけでなく昔から海で暮らしていたことを覚えていただければと思います。最後までのご観覧、どうもありがとうございました!」
 マコトが立ったまま右前脚を振って、解説ショーはいつもどおりつつがなく終了した。
 正直この解説ショーより問題になっていることが水上にあったので、気が散らずに済ませられてほっとした。

 裏の階段から上がって入江の一番奥に出た。ここからなら向こう岸の、ルミコがいるはずの獣舎まですぐに着く。
 ショーではなくこちらに注目していた動物学者や動物マニアの人達が集まっていた。特に騒がしくはないので何も無かったんだとは思うが。
 獣舎と海の間はアロデスムス達が水に出入りしやすいスロープで、獣舎の屋根から軒が伸びて休憩所になっている。
 果たして休憩所には、いつもどおり横たわるルミコの姿が見えた。
 網で仕切られたところでマコトも休んでいる。体も鼻も大きなマコトと比べると、ルミコはまるで別の種類のように小さく、顔付きも普通である。
 ただし、流線型の体の途中がぽっこりと膨らんでいた。
 今朝までの体温の記録からして、臨月である。
 アシカやアザラシもこんな状態では水に潜るのを嫌がるのが普通だし、事実ルミコはここのところほとんど自発的に水に入っていなかった。
 先輩飼育員であり獣医でもある酒井さんが獣舎の裏から歩いてきた。白髪頭の下の痩せた顔が笑っていた。
「おお、すっ飛んでくるのが見えとったわ。そんな心配かい」
「さっき、潜ろうとしてましたよね」
「ちょこっと水に入っとったけどな」
 酒井さんは全く落ち着いた様子だった。
「何かしようとしてたわけでは?」
「いやあ、マコトがちょっと気になっただけと違うかな。潜りゃあせんよ」
「そうですか……」
「あと変わったことはなんもないよ。食欲良好、体温も予想どおりじゃ。ドア開けたときちょこっとだけ警戒されたわ」
 そう言って酒井さんは体温・食事量その他の記録用紙を見せてくれた。
 酒井さんはいつも私のような新米には気付けないようなことまで細かく記録するのだが、裏側から休憩所に入ったときにわずかに後ずさりしながら見つめてきたことしか備考になかった。
 私はスマホを取り出し、アメリカでのアロデスムスの出産に関するデータを表示させた。
 少し出来すぎていると思うくらい、ルミコの体温の変化はアメリカの例に合っていた。今朝までのホルモンバランスもだ。
「順調すぎて逆に怖いか、ひひっ」
 酒井さんは見透かしたように笑った。
「アロデスムスの出産は世界で二例目、国内では初ですし」
「お前さんには動物の出産自体初めてじゃからな」
「何が起こるか分かりませんから」
「ええ心がけじゃ。しかしこんだけ順調ならもちっと安心してええぞ。鰭脚類は大体安産だし。それになあ」
 酒井さんはルミコのほうに振り向いた。
「お前さんがそわそわしとったらお客さんにもルミコにも緊張が移るし……、まあお前さんは自分で分かっとるか」
「はいっ」
 私はほっぺたを両方ともむにっと引っ張り、それからルミコの顔面に集中した。
 閉じた大きな目も食肉類らしい口元もにっこりと笑っているように見える。いくら見慣れていても緊張しろと言うほうが無理だ。と思うことにした。
 実際、ルミコは出産を間近に控えた気の抜けない状況とは思えないほどリラックスしている。いつもと違うのは食後の運動すら怠っていることぐらいだ。
 立ち話していた私達の周りには、熱心なお客さんが集まっていた。
「出産に心配はなさそうですか?」
「はい、今のところもう数日後には元気な赤ちゃんを産んでくれるんじゃないかと。はっきりいつとは分からないですけど」
「よかった。楽しみにしてます」
「ありがとうございます!」
 マコトが海に潜っていくのが見えた。
 子育てには加わらないだろうが、気ままなものだ。

 午後の食事の時間になり、バケツを持ってルミコの寝部屋を通り休憩所に出た。
 ルミコはすぐさま黒く大きな目を見開き、こちらを睨みつけた。さっき酒井さんが言ったとおりだ。しかしすぐに表情を緩め、私が近付いて手の平を見せると素直に鼻を押し付けてきた。
 体を起こすことこそしないが、あまり好きでないアジも次々平らげていく。
 やはりさっき言ったとおり、あと数日で無事に出産できそうに見えた。
 その様子を記録した後、見回りとして、インフォメーションセンターという大仰な名前の付いた建物に入った。
 床面積は大きめのコンビニくらい、高さは倍程度あるだろう。樟脳の匂いがする古ぼけた空間だ。
 小型のクジラやイルカ、昔この水族館にいたラッコ、魚やカニまで、数々の標本が窮屈そうに展示されている。
 アロデスムスの復元骨格も、アシカとアザラシの骨格標本に挟まれて置いてある。
 プラスチック製で、化石から型を取った部分だけ薄い色に塗られている。それは、全身の半分くらいの割合だ。あとの濃い色ですべすべした部分は推定で作られたものだ。化石が残る困難さを思えばよく見付かったほうだろう。
 例えば今のオットセイは大量に捕殺されて、胃の内容物まで徹底的に調査されたことさえある。
 それと比べればアロデスムスでは何も分かっていないに等しい。
 だからといって、母子ともに骨格標本になってここに加わる、なんてことは御免だ。

 翌朝。朝日を真横から受けながら水族館へ車を走らせた。ルミコの様子が見たくて大分早めに出たつもりだった。
 従業員駐車場からルミコの獣舎までは真っ直ぐ行ける。
 その途中で、私より先にいた誰かが駆け寄ってきた。やはり酒井さんだ。
 昨日のような笑顔ではなかった。
「おう、油断しとったわ。とにかく早よ」
 緊迫した声。
 私は獣舎目指し駆け抜けた。
 インフォメーションセンターで考えたことが頭をよぎる。なぜ私はルミコを置いて帰ってしまったのだろう。飼育員が泊まり込みで番をして動物の出産や育児に備えた逸話ぐらいいくらでもあるじゃないか……。
 獣舎の裏には先輩の飼育員が二人集まっていて、私が着くと二人ともしきりに観察窓を指差した。
 なぜ中で看護をしていないのか疑問に思う余裕もなかった。
 そっと、中を覗く。
 いつもと変わらないルミコの姿があった。
 そのすぐそばで、黒い塊がむにむにと動いていた。
 赤ちゃんだ。しかも、元気そうな。
「おおい、年寄りを置いて行くなや」
「酒井さん」
 追いついてきた酒井さんが歯を見せて笑った。
「うっかりして出産に立ち会えなんだ。お前さんにはいいチャンスだったのに油断しとったのう」
「あ、油断、って」
「やっぱり鰭脚類の産まれるタイミングは難しいわ。前例どおりなんてならんなあ」
 私は力が抜けて、獣舎の壁に寄りかかった。先輩二人もほっとした様子だ。
「あ、はは……、何が起こるか、分からないですね」
「うむ。当然、これからもな」
 改めて赤ちゃんを見てみると、ルミコよりは長い毛に覆われているが今の海獣の赤ちゃんほど密な毛皮ではないようだ。
 だからこそ暖かくなってから産まれたのかもしれないが、氷河期より前のアロデスムスのこと、梅雨の急な涼しさ、そしてもっと先の冬の寒さは知らないはずだ。
 赤ちゃんはすでにルミコの乳首に吸い付き母乳を飲んでいる。
 自分自身ではどうしようもないことさえ起こらなければ、絶滅した生き物にも自分で生き抜く力はあるはずなのだ。
 どうしようもない氷河からは、私達の手で守らなくては。
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