Lv100第十四話
「蟹坊主 -あおばとゴトウさん-」
登場古生物解説(別窓)
 私がこの水族館の古生代部門に就職したときザリガニ程度の大きさだったゴトウさんは、もう一メートル半まで成長した。
 ゴトウさんはウミサソリの一種、プテリゴトゥスである。
 飼育下のウミサソリで最大の巨体が、汽水の満たされた専用水槽の殺風景な底に横たわる。ざらついた殻に覆われて赤黒く鈍い輝きを放っている
 周囲をぬかりなく睨む楕円の複眼の間から長く引き締まった腕が突き出ている。その先端には内側に棘の並んだハサミ。 四対の肢で体を支え、パドル状の遊泳脚に力強い尾鰭まであり、ギミック満載の夢のマシンのような姿だ。
 どちらかというと悪役のメカっぽいか。そう思う人が圧倒的多数のようだ。
 お客さんの驚き、恐れ、興奮する声が、壁の向こうから薄暗いバックヤードまで伝わってくる。
 食べられちゃうぞとお孫さんを怖がらせるおじいさんというのも、水族館ではよくある光景だ。
 実際には、ゴトウさん相手では怖がる必要などあまりなかったりするのだが。
 それはゴトウさんの飼育に問題があるからではない。ゴトウさんの成長は全く順調である。
 私の後ろではみどり先輩が別の作業をしている。
 ゴトウさんに餌をあげる前にちょっとそっちに声をかけてみた。
「これあげたらお客さんがどういう顔するか、見たいなあ。先輩代わりにあげてみてくれません?私は向こうに出るんで」
 みどり先輩は手を休めなかった。
「駄目。自分であげて」
「はーい」
 残念。展示の向上に役立ちそうなのに。
 みどり先輩はゴトウさんがこれに食らいつく姿をあんまり見たくないのだ。以前、とてもショッキングな光景だと言っていた。
 私はゴトウさんの正面めがけて、餌食を投げ入れた。
 サニーレタスだ。
 芯に紐と錘をくくり付けられたサニーレタスが柔らかい部分をひらめかせながら沈んでいく。
 大きな複眼でそれを捉えたゴトウさんは、肢のパドルと尾鰭を一度に打ち下ろして体を浮かせた。
 そして底まで沈んだサニーレタスの元に滑り降りると、二つのハサミでしっかりと掴んだ。棘が刺さってもう離さない。
 そのままサニーレタスを頭の下に抱え込み、ゴトウさんが食事を始めた。
 口の様子は真上からは見えないし、硬い殻には表情はないが、なんとなく食事を楽しんでいるかのように見える。
 壁の向こうからお客さんの声が聞こえなくなった。怖い怪物の健康的な食卓に戸惑っているのだろう。
 昔からウミサソリといえば、図鑑の古生代のページで海のギャングと恐ろしげに紹介されてきたものだ。ゴトウさんの今の姿はそんなイメージと明らかにかけ離れている。

 私が初めてこのバックヤードに来たときは、まだ名前の付いていなかったゴトウさんを含め小さなプテリゴトゥスが二匹いた。
「脱皮に失敗する子が多くなってきちゃって。早くなんとかしないといけないんだけど、何か思い付くことはない?」
 みどり先輩は浮かない顔でプテリゴトゥスの子供と、壜の中の液体に沈んだ今までの脱皮殻を見せてくれた。
「この殻は脱皮した順に並んでるんですか?」
「うん、最初から全部」
 私はいくつかの壜を開け、ピンセットでそっと殻を持ち上げた。後のほうのものは成長しているにも関わらず妙に薄くて、脱皮失敗を予感させる。
 それから、再び生体のほうに目を向けた。
 手の平から少しはみ出すくらいのプテリゴトゥス達は殻の色や厚みに乏しく見えた。
 この感じには何か心当たりがある。
「何食べさせてます?」
「あ、主にアジと、それからエビ、イカね。メガロと一緒で」
 メガロ、つまりメガログラプトゥスはここで飼われている別の種類のウミサソリだ。分けずに飼っていたら最後の一匹になるまで殺し合うほど獰猛で、その反省からプテリゴトゥスは最初から個室で飼われているのだという。
 つまりメガログラプトゥスの経験を基にプテリゴトゥスも飼われているわけだが、
「野菜不足じゃないですか?」
「へ?」
「いや、単に植物質の栄養が足りないんじゃないかなって」
 そのときのみどり先輩のぽかんとした顔は今でも忘れられない。
「えっ、だって、ウミサソリが……えっ?」
「ほら、ユーリプテルスの飼料にもクロレラ入ってるじゃないですか」
 小型のウミサソリであるユーリプテルスは一般家庭でも飼育できるが、その場合は栄養のバランスを考えて作られたペレットを与える。
 そう言われてみどり先輩の目つきがみるみる変わっていった。
 同じ大型ウミサソリのメガログラプトゥスを育て上げた苦労と経験、それはプテリゴトゥスを飼うに当たって頼もしいものだろう。
 餌に関しては、本当に食性が同じなら、の話だ。
 棘だらけの巨大な鎌を持つメガログラプトゥスと細長いハサミを持つプテリゴトゥスが、同じように純然たる捕食者だったとは限らないのではないか。
 みどり先輩もそれに気付いたようだが、念を押すようにたずねてきた。
「なんで、植物不足だと思ったの?」
 改めてそう聞かれると何が決め手なのかはっきりせず、私は答えあぐねた。
 もう一度プテリゴトゥスを見つめれば理由がはっきり認識できた。
「ザリガニと一緒かなって。昔、わざと植物不足にして変な色のザリガニ作ったりしてたんで」

 館内ですぐに用意できる植物質の餌といえば、植物食性の現生魚類に与えるサニーレタスだった。
 さっそく切り分けてそれぞれの個室に沈めてみたところ、二匹とも即座に反応した。
「わっ……ホントに食べてる」
 みどり先輩は実際に野菜を食べるとは信じられなかったようだ。サソリっていうくらいだからな。
 それにしても小さなハサミで葉にしがみつく、そのときの二匹の可愛らしいことといったら。

 その様子を他の先輩飼育員にも伝えて相談した結果、今後もプテリゴトゥス達には現生魚類チームから分けてもらったサニーレタスを与えてみることが決まった。
 残念ながら一匹は間に合わず、しばらくして脱皮に失敗し死んでしまった。しかしもう一匹は日に日に調子が良くなっていくのが明らかに見て取れた。
 保存しようと脱皮殻を拾い上げるたびに分厚くなっていき、色は濃く赤黒くなっていった。
 個室の仕切りを外し、さらに水槽自体を二回引越し、ついには元からあった大型水槽に汽水を満たして住まわせることになった。
 プテリゴトゥスは捕食者ではなく、食べられそうなものは何でもハサミで拾って食べる雑食動物。
 認識をそのように改めなければならないということが、この古生代館で判明しつつあった。

「ゴトウさん、お野菜だよー」
 ある日の餌の時間、ふと口を突いて出た。
 背後で異音がしたので振り返ると、みどり先輩が笑い崩れていた。ゴトウさん命名の瞬間である。

 今やゴトウさんは荒々しいメガログラプトゥスとは似ても似つかない存在となっていた。
 みどり先輩も自分の作業を終え、隣で神妙な顔をして水槽を見下ろしていた。こんなに早く終わるならさっき代わってくれればよかったのに。
 抱えたサニーレタスを黙々とかじりながら、丸みを帯びた背中がかすかに揺れる。
 その姿が何かを連想させた。
 ああ、そうだ。
「マナティー……」
「えっ」
「マナティーに似てません?」
 みどり先輩は水槽を深く覗き込んでから、こちらに振り返り首を振った。
「似てませんっ」
「胴体の幅とか、尾鰭の感じとか」
「似てないってば、もー。かっこ悪く見えるようなことばっかり言わないでよ」
「大丈夫ですよ。何食べててもゴトウさんはかっこいいですよ」
 ゴトウさんがかっこいいのを確かめるように、みどり先輩はまた水槽を覗く。
 その耳元にそっと囁いた。
「マナティー」
「やーめーてっての、もー。ほら、アジあげてよ」
 ゴトウさんはもう芯だけになったサニーレタスを捨てたところだった。
 紐でそれを引き上げ、食べた量を把握するために量りに乗せた。
 いくらマナティーに似た背中をしていても、元々ウミサソリは肉食寄りの生き物である。動物性蛋白質も与えなければならない。
 冷凍庫から出してあったアジが解凍できているのを確認し、水槽に落とした。
 ゴトウさんはこれにもすぐに気付き、体を浮かせて軽やかに振り向きながら落下地点めがけて飛び跳ねた。
 おもむろに伸びたハサミが切り身を捕らえ、内側に生えた鋭い棘が肉に食い込む。
 これは昔からのイメージどおりの姿だろうか。
 いや、鋏むものが変わっただけで野菜を食べる姿と対して変わらない。なにしろ相手は動かないのだ。
 しかしみどり先輩は、アジを食べるゴトウさんを満足そうに見ている。
 餌の量を記録しながら、私はみどり先輩に話しかけた。
「捕食実験、やりましょうよ」
「ん?」
 先輩は振り向かない。
「汽水の、あんまり素早くない魚を集めればいいんでしょ。現生魚類チームに頼めばすぐですよ」
 本来の生態がどのようなものか確かめるために、生き餌を与えられたら捕食するのかどうか試してみなくてはと以前から話が出ていた。
 みどり先輩はアジを食べるゴトウさんを見つめ続けている。
 もしかしたら先輩の期待どおり、泳ぎ回る魚を猛然と追い回し、ハサミでしっかりと捕らえるゴトウさんの雄姿が拝めるかもしれない。
 しかしあるいは、生きた魚を目に映しながらもそれを食べることなど思いもよらずじっとしているかもしれない。
 どっちにしろ生態の解明のためには必要なことだ。
 みどり先輩は水槽のほうを向いたまま答えた。
「まだ、安定しきってはいないから……、もうしばらく後にしよう」
「そすか」
 今のところはまだ無事に生かしておくことに集中すべきか。ゴトウさんにはまだ成長の余地がある。
 水槽の中に凝ったレイアウトを施す余裕はなく、水色の素っ気ない床を晒している。
 プテリゴトゥスが生きていたシルル紀、陸上には生き物は少なかったが植物ももう現れ始めていた。
 汽水域にはそうした植物が流れ込んだりしていただろうか。藻や水草もあっただろうか。プテリゴトゥスを見ているだけでは、当時の情景は知れない。
 マナティーは現在の汽水に暮らしている。生息地の写真を見たことがある。
 木々に囲まれた広く浅い川の中で、たくさんのマナティーが観光客を囲んで浮かんでいた。
 ではシルル紀の河口はどうだっただろうか。私は夢想する。
 砂地の上にまだ小さな陸の植物が流れ着いて積み重なる。
 その上を何匹ものプテリゴトゥスが、にじむ光の中でゆったりと泳いでいく。
 当時の環境に似せた展示を行えばゴトウさんは怪物ではなくもっと生き物らしく見えるようになるだろうか。ゴトウさんが生きているうちには無理だとしても、いつかきっと。
 そのためにも、まずはみどり先輩が実験を止める口実が無くなるくらい安定した飼育に辿り着かなくては。
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