Lv100第十五話
「猪婆龍 -美華とトゲゾウ-」
登場古生物解説(別窓)
 東京のちょっとだけ郊外にあるこの動物園で、関東の動物園における恐竜の飼育展示は始まった。三十年前のことだが、そのときの恐竜は今も飼われている。
 主に近隣から訪れるお客さんはあんまりそういう歴史を意識しない、というか知らないらしい。
 普通の公園を思わせる静かな園内にはキツネやタヌキ、ヤギやカモシカといった親しみやすい生き物ばかりが見られる。
 外れのほうにある林を進むと、丸みを帯びた温室がイチョウの木に埋もれるようにして立っている。ここに園内唯一の恐竜がいるのだ。
 近所の幼稚園ではこの温室を遠足のメインに据えている。
 しかし、保育士さんから個人的に下見に行くと連絡があったのは多分今回が初めてだ。
 なんと良い心がけの先生であろうかと私は温室の前で待ちかまえていた。
 待っている間に低学年くらいの男の子を連れたおばあさんが通りかかり、話しながら温室に入っていった。
「恐竜はここだけよ」
「ケラトサウルスいないの?」
 すまない少年、ここにはケラトとかバリオニクスみたいな君の好みに合いそうなのはいないんだ。でも、きっと気に入ってくれるんじゃないだろうか。そう考えていた時。
 木々に囲まれた細い道を、落ち葉を踏みしめながら小さなシルエットが近付いてきた。
 いかにも保育士さんという大人しい髪型、可愛らしいが母性も感じさせる雰囲気。私にないものを持っているタイプに違いない。
「北沢さおり先生ですね!ようこそいらっしゃいました!」
 覚えておいた名前を呼ぶと先生はびくりと肩をすくめ、それから素早い会釈をした。
「係のかたですか?」
「はい、解説員の高井と申します。今日はよろしくお願いします!」
「よ、よろしくお願いします」
 随分かしこまった態度の北沢先生をやや見下ろす形になる。
「私、幼稚園には新任で……、この動物園にも初めてで」
「それで下見にいらっしゃったんですね。すごく熱心ですね!」
「そ、それほどでも」
「解説員としても子供さんにはちゃんとしたことを教えたいなっていっつも思ってるんですよ。こっちがせっかく色々勉強して話すこと考えても遠足の先生なんて適当な人が多いですからね」
「はあ」
「何億年前の何サウルスだーって、大体間違ってますからね。良い子にしてないと恐竜さんに食べられちゃうよってのもよく聞きますけど、食べるわけないっていうね。流石に嘘を教えちゃっちゃあ」
 つい興に乗って喋っていると、北沢先生は苦笑いを浮かべ出した。ああ、私はこの人の先輩をディスってしまったのか。
 咳払いひとつ。
「さて……、まずはこの温室の周りから説明いたしますね。このイチョウ、ちょっと変わってると思いませんか」
 足元から落ち葉を拾い上げ、北沢先生に向かって突き出した。おなじみの扇形ではなく、細長いハートを二つ束ねた形をしている。
「これはジュラ紀中期、一億六千五百万年前に生えていた、イマエンシスという種類のイチョウです。イチョウは恐竜と同じくらい古い生き物なんですよ」
 先生は手帳を取り出し、私に聞き直しながら種名と年代を書きとめた。
「中にもジュラ紀の植物たくさんありますからね」
「は、はい」
 温室の入り口に手をかけると、北沢先生は手帳を胸に抱いて表情を硬くした。
 中は最初から鬱蒼としたジャングルである。
「ここで一番多いのは、この傘みたいな木です。コニオプテリスという、ジュラ紀にはたくさん生えていたシダの木です」
「シダ……、あの、お花とかはないんでしょうか」
「ジュラ紀にはお花はまだないですからねー、白亜紀後期とかになったらあるんですけど」
 道の際までシダの葉で埋まり、右手の中央側からは大きな羽根のようなコニオプテリスの葉が迫ってくる。左のガラスと設備は木々で隠され、そのすぐ外もイマエンシスの木陰で暗い。
 頭上は明るいが、ソテツに似たベネチテス類、主にオトザミテスの葉が覆い被さる。その幹に巻き付くのは、つる性のベネチテス類であるニルソニオクラドゥスだ。
 北沢先生は縮こまった姿勢で、暗緑色の植物から距離を置いている。
「あ。もしかして、ここちょっと怖い雰囲気ですかね」
「いっ、いえ。そんなことは」
「子供さんが泣いてるのもよく見ますねー」
「遠足なのにそれは困ります」
「そういうときはこれです」
 私は腰のポーチから解説員七つ道具の一つを取り出して装着した。
 ここにいる恐竜を模したハンドパペットだ。
「やあ、僕はファヤンゴサウルスのトゲゾウ!今日は僕に会いに来てくれてありがとう。このジュラ紀の森そっくりの温室を楽しんでいってね!」
 温室に裏声が響いた。
 北沢先生は何も言ってくれない。
「割とこれでなんとかなりますから!」
 私は棘の生えた茶色い手袋を脱ぎ、北沢先生に押し付けた。どうせ売店で二束三文だ。
「え?あ、ありがとうございます。今、何サウルスって言いました?」
「ファヤンゴサウルスです。ここに二頭いるうち年上のオスのほうがトゲゾウくんです。ほら、そこ」
 ちょうど木々の合間にトゲゾウがゆっくりと通りかかったところだ。
 一見植物のひしめき合う密林のような空間は、実は内側が空洞になったファヤンゴサウルスの運動場なのだ。順路との間には植物しかない。
 コニオプテリスやオトザミテスの隙間から見える背中には、オレンジ色をした板が二列に並んでいる。板は手の平ほどの楕円形から、もっとずっと長い棘まで色々な形をしている。
 暗い色をした背中の揺れる様子が、私達の立っている道と全くフラットに続いた床を歩いていることを感じさせる。
 あと、背後で北沢先生がすくみ上がってるのも感じる。
「どしました」
「近いです」
「へ?」
「だって、こんな近いと思わなくて、いきなり向かってきそうで」
 声が震えている。北沢先生は恐竜が怖いんだろうか。保育士にあるまじきビビり。
「平気ですよー、こんなみっしり植物があるんですから」
「ほ、ホントですか?突っ切ってきたりしませんか?」
「トゲゾウくんはこの温室が出来る前からいますけど、一度もそんな風にしたことないですよ」
「それなら……」
 北沢先生の緊張が少し解けたようだ。
「植物の説明に戻ってもいいですか?」
「はい」
 オトザミテスの下にはスギナに似た少し大きな草が生えている。
「これ伏線なんで、ちょっと覚えておいてほしいんですよ。エクイセティテスっていって、ツクシの仲間なんですけど」
「ツクシですか?あんまり似てないような」
「ツクシはスギナっていう草の花みたいなものなんです。ほら、こっちにはツクシみたいなのが付いてますよ」
 胞子を飛ばすための穂である。それをよく見ようと北沢先生がかがみ込んだ瞬間だった。
 正面のオトザミテスががさがさと揺れ始めた。
 北沢先生が中腰のまま飛び退き、体勢を大きく崩すところが見えた。
 私がとっさに腕を伸ばし背中を支えなかったら倒れていただろう。逆に自分から庇護欲をそそってくる保育士。斬新だな。
「今、今絶対ダメでした!絶対ダメでした!」
「はいはい、大丈夫ですからね。トゲゾウくんが木にマーキングしようとしただけですよー」
「ホントに?ホントにそれだけですか?木が倒れたりしないですか?」
「はい。今続けてるところですよ」
 北沢先生はうずくまったまま恐る恐る振り返った。
 トゲゾウが肩から生えて後ろ向きに曲がった大きな棘を、オトザミテスの幹に押し付けているのが垣間見えていた。幹にはシュロの繊維が分厚く巻いてあって、お互い傷付くことはない。
 肩の棘も明るいオレンジ色で、暗い木陰と濃褐色の胴体から鋭く浮き上がって見える。
「なんであんな刃物みたいのが生えてるんですかあ……」
 北沢先生は力無くうめくばかりで起き上がらなかった。
「誰もファヤンゴサウルスごときに怪我させられたことなんてないですよ。……っていうか、今日が本番の遠足じゃなくてホントによかったですね」
 ついその一言を口にしたが、案外図星だったらしい。北沢先生がそっと顔を上げた。
「私、恐竜だけは昔からホントに怖くて……、今日は少しでも慣れなくちゃと思って来たんです」
「ちゃんと立ち向かおうとして、立派ですね」
「子供がイモムシとかムカデとか持ってきても平気なんですけど」
 あ、やっぱり私にはないものを持っている。
「もしかして、食べられちゃうぞー、みたいなこと言われて育ちました?」
「それも少し……、あと、親が古い考えで、いなくなった生き物を生き返らせるなんて不自然だって。そのせいで余計に馴染めないところがあって」
 なるほど、そんなに珍しい話でもない。
 が、それはやはりもったいない。もったいない考え方だ。
「私は、私の好きな動物のことを、北沢先生にも良く思ってほしいです。幼稚園の子達にも」
 私は北沢先生の手をそっと引っ張った。
「この先にある池にかかった橋から、トゲゾウくんともう一頭のトゲ代ちゃんのことがよく見えます。ちゃんと見てみれば怖くないって分かっていただけると思いますから。それとも、やっぱりダメですか?」
 北沢先生は、手を引っ張り返して立ち上がった。
「進み、ます」
「はい」
 池は室内がひょうたん型にくびれた部分にある。そこにさしかかったら温室の奥まで進んでトゲ代のいる運動場に近付くこともできるし、橋を渡って両方の運動場を見渡すこともできる。
 橋の上からなら、二頭と私達を遮る植物はない。
「ほら、大きめのシカくらいしかないですよ」
 全長は四メートル以上あるが胴体の大きさはそんなものだ。
 さっき見えた板や棘の生えた体が四本の脚に支えられている。板の列は首や長い尾まで続き、尾の先では二対の棘になる。角張った頭は小さいがしっかりしている。
 トゲ代は食事の最中で、束ねたツクシとスギナから柔らかい穂や葉だけをクチバシでもぎ取っているところだった。配合飼料や野菜の他に与えるご馳走として、裏にある別の温室で殖やしているものだ。
 その様子に北沢先生は目を丸くした。
「草食、なんですか?」
「はい。ステゴサウルスの仲間は植物食です。先に言っておけばよかったですね」
「人を襲ったり暴れたりは」
「まあ、ないです」
 さっきまであんなに腰が引けていたのに、今は食い入るようにトゲ代を見つめている。
「なんだか、普通の動物みたい」
「普通の動物ですよ。ちょっと古いだけで」
 私がそう言うと北沢先生は目を見開いたまま私の顔を真っ直ぐ見返し、それから今度はトゲゾウのほうに向き直った。
 トゲゾウはさっき棘をこすりつけた木の下からゆっくりと離れ、池にさしかかると前半身をかがめて水を飲み始めた。
 オレンジ色の小さな板や長い棘が褐色の胴体に整然と並んでいるのが全て見える。静かに燃える灯を思わせるそれは、私達を威嚇していなかった。
 恐竜は怪物ではないということが見て確かめられるだろう。それが北沢先生の中で何かを変えているようだ。
 北沢先生の表情は次第に落ち着いていき、温室の前に来た時以来の緊張が解けつつあった。
「そうですよね、こうして見ると本当にシカか何かみたいですもんね」
 橋の上から二頭をのんびりと見守る余裕すらあった。天井からそそぐ陽光の中で、一転してのどかな時間が流れていた。
「もう遠足でも大丈夫ですよね」
「これでちゃんと案内できます」
「トゲゾウくんはお子さん達に人気ありますからね。せっかくですから、しっかり案内してあげてください」
「人気なんですか?」
 北沢先生は不思議そうな顔をした。
「それはやっぱりここで唯一の恐竜ですし」
「そうなんですか……、さっきまで怖がってたくせに言うのも変なんですけど、その、ちょっと普通すぎるというか」
「先生にはそのほうが怖くなくて良いんじゃないですか?」
「そうなんですけど、子供が喜んでくれるのかなって」
「余裕出てきましたね」
 木の合間からちらちら見えたのと橋の上から眺めたのとでは、まだトゲゾウが怖いという誤解が解けただけだ。さらに次のエリアに進まないと。
 橋の向こうには温室からガラスで仕切られた部屋がある。
「あそこまで行ってみましょう。それでこの施設は全部です。またちょっとだけ怖く見えるかもしれませんけど」
「行きます」
 橋を渡り切り、扉を開けた。
 真正面にいきなり二体の骨格が現れ、先生はわっと声を漏らして後ずさった。
「これ、化石ですか?」
「生の骨ですよ。前にここにいたトゲ彦くんと、中国の動物園から寄贈された肉食恐竜の骨格です」
 病気で死んだファヤンゴサウルスであるトゲ彦の骨格標本は、同じくらいの大きさのガソサウルスと戦うようなポーズで展示されている。
 トゲ彦は四肢を踏ん張って尾を振りかざし、その先の棘がガソサウルスの大きな顎の下にある。ファヤンゴサウルスと比べて身軽そうなガソサウルスは間一髪という感じで飛び跳ねてかわす姿勢だ。
 化石化していない骨は時間の重みが無い分、しなやかな躍動感がある。
「こんな風に、敵を追い払うための棘だと考えられています。実際に戦わせてみることはできないですけど、驚いたりすると尻尾を振ることがありますね」
「ちょっと怖いですけど、勇敢そうで、かっこいいです」
「でしょ!」
 荒々しい姿だが北沢先生は誉めてくれた。
 北沢先生と私は骨格標本の周りをゆっくりと歩いた。化石化していない白い骨格は少し薄暗い展示室に映える。板や棘だけは角質の層が付いたままで黄色い。
 壁にはファヤンゴサウルスの化石のレプリカや植物の実物化石、解説板なども並んで、博物館を思わせる。
「こうして見ると恐竜らしい感じがしますね」
「やっぱり博物館っぽいのが似合いますよね。そこでもう一回あれを」
 振り返るとガラス越しに運動場が見える。トゲゾウは橋の上から見るよりずっと近くにいた。
 板や棘、それにクチバシや鱗にも、三十年分の年季が細かい傷として刻まれている。それらを目の前で揺らして歩く姿は量感を覚えさせる。
 この体には、トゲ彦の骨格が見せているような勇猛さを秘めているのだ。
 展示室内には先に温室に入っていたおばあさんと男の子もいた。
 その子と北沢先生はガラス窓に貼り付いて、じっとトゲゾウを見つめていた。
 男の子はもっと迫力のある恐竜をたくさん知っているのだろう。逆に北沢先生はそういったものだったら、今度こそ平静を保てないかもしれない。
 しかしこうしてトゲゾウがここにいる以上、ファヤンゴサウルスがこの動物園のヒーローだ。
 私は標本棚の下にある触らせてもいいものの中から、トゲ彦の肩に生えていた大きな棘のレプリカを取り出した。
「先生」
「はい、わあ!」
 肩の棘は両手で持ち上げるほどあり、表面はシュロの繊維で磨かれてつやつやとしている。男の子も振り返り、二人とも棘をそっと触り始めた。
 北沢先生のクラスは有意義な遠足ができそうだ。
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