デニムスカイ番外短編 第二話後編
「スロウライダー -Old School-」
 いかにえとりにとって変わった日であろうと、休業日でもない限り朝の慌ただしさに何の変わりもない。
 養鶏場と調布の間を高速で往復し、そのまま店で準備を済ませてから所沢へ。
 試験センターでの予定は開けてもらってあるが、飛行場に来るように伝えられた時間まで店で過ごすのも落ち着かなかった。えとりの習慣はもはや完全に固着している。
 まだ誰も来ていないセンターの正面で、えとりは訓練飛行を開始した。
 風防に軌跡を表示して、曲率半径やそのぶれ幅、角速度も同時に算出。
 華やかな躍動、優美な連続技、そういったものは求めない。
 もっと正確に、単純に、純粋に。
 自分より早く回れるテストパイロットはいない。だからこそ精度を高め、自分のフライトから得られるデータの価値を確保しないといけない。えとりはそんな風に考えている。
 まだまだ、もう少し良くできる。そういう気分のところで、博物館の方からエンジン音が聞こえ始めた。
 飛び立ってはいないようだ。
 約束の時間まで二十分はあるが、えとりは自分の機体に代えて博物館のほうに向かった。
 裏手には滑走路があり、展示されているような古い飛行機でも離着陸できる設備が整っている。
 そこに、黄色い小さな飛行機が見下ろせた。
 小さいといってもフリヴァーの倍近いが、発せられる音の大きさに見合わない気もする。古い機械ならそんなものなのか。
 真っ直ぐで翼端だけ丸みの付いた主翼、その下の角ばった胴体が確認できる。
 滑走路端に固定した状態でエンジンが作動させられ、短い機首の先にあるプロペラが回転している。
 吠え声を上げていかにも危険そうなそれを避けるように、作業員は皆機体より後ろに離れている。
 さらに近付けば主翼の両側に描かれた日の丸や、蝶を思わせる可愛らしい尾翼、むき出しの車輪まで見えてきた。
 それに、自分に向かって手を振る作業員達も。
 風防の向こうにいるらしきパイロットの顔はよく分からない。
 作業員達に倣って、飛行機の後ろにまわり離れたところに着陸すると、皆迎えに集まってくれた。
「皆様、おはようございます」
「おはようございます。お早かったですね」
 代表として挨拶した短い白髪の男性は館長であった。そのしわがれ声もエンジンとプロペラの音に乱されてやや聞こえづらい。
「ご準備を始めていらっしゃるようでしたので」
「前方座席がパイロット席で、後部座席にはまずうちの者が乗って一度飛びます。その次に取材の方々を乗せて、刈安さんには最後に乗っていただくことになりますが良いですか?」
「了承いたしました」
 話しているうちに数人が機体に駆け寄り、その内の一人が胴体右側面の扉を上下に開いて乗り込んだ。
 路面に備え付けられた車輪止めが引き込むと、飛行機はガタンと身震いした。
 直後、唸りは高い叫びに変わった。
 飛行機はするすると進み始めたかと思うと次第に加速、突進していく。
 下がっていた尾部を持ち上げて水平になり、わずかに弾むように揺れながら滑走路を駆けていく。
 車輪が一度路面を離れると、後は昇っていくのは早かった。
 音源が飛び去って大分静かになると、館長が笑顔で話し始めた。
「あれはパイパーL-21という機種です。今からちょうど百六十年前に作られた軽飛行機で、やや非力ではありますが当時は実用性があって大活躍したそうです」
「非力、でございますか」
 受けた印象にそぐわない説明にえとりが疑問を呈すると、館長はさらに説明のテンポを上げた。
「今は何でも音も無くすうっと動く分子機械が当たり前ですからね、ちょっと信じられないでしょう。ああしたエンジンは燃料の持つエネルギーのうちせいぜい三割程度しか有効に使えないのです。排気や本体の熱、それにあの音が、その無駄になってしまった七割というわけですね。機体の構造も、鋼鉄パイプの骨組みに布を張ったとても古めかしいものです」
「では、今では本当に特別なものなのですね」
 えとりは本当に感心してそう言ったのだが、不安そうだと感じたのか館長は手を横に振る。
「ああ、もちろん修復は現在の技術で隅々まで行ってありますよ!フレームには錆一つありません。我々が自信を持って保証します。コクピットの中身も随分付け足してありますから、操縦にも問題無しです」
 気さくによく喋る中にも、振る舞いは正反対の父親と共通するものが読み取れた。
 あの飛行機はきっと完璧に仕上がっているだろう。
「お邪魔させていただき、誠に光栄でございます」
「今日は楽しんでいってください!」
 しかし飛行機が一周して滑走路に滑り込み、静止して中からパイロットが降り立つと、えとりの笑顔は凍り付くことになった。
 史料の中から出てきたかのような革の飛行服、揃いの飛行帽の下には見覚えのある太い眉、鰓の張った頬。
 間違いなく小松田だった。
 小松田がフリヴァーだけでなく飛行機も操縦できるとは聞いたことがない。しかし今操縦席から降りたのは確かに小松田だった。
 昨日ユカリはえとりが飛行機に乗せてもらう話を取り付けた後から小松田の話題を振り、また二つの話題に関係があることは示さなかった。
 完全にユカリの罠にはまってしまった。

 飛行場には作業員の他に五、六人の記者が訪れていた。大手メディアも個人メディアも含まれ、そのうち二人はスパンデュール発表時にナドウに取材に来た記者だった。
 彼らが順に乗って遊覧飛行を楽しみ笑いながら降りてくる間、えとりは館内にいた。
 博物館の職員達に連れられ、展示について案内を受けているところだ。
 機体の説明や修復作業の内容、苦労話や自慢話や今後の夢の話。小松田が曲技だけでなく、博物館と協力して修復した飛行機の操縦にも取り組んでいること。
 それが皆一様に楽しそうに話すものだから、合わせた笑顔の裏に不安を隠しているのが申し訳なかった。
 小松田の腕にではない。全面窓になっている博物館の塔からは全く危なげなく旋回し離着陸をこなす飛行機が見えている。
 密室のキャビンで小松田と二人きりになることへの不安である。
 二人は普段からあまり話さないように、用件があるときも手短に済ませようとしている。
 ただじっと後ろに乗っているだけでは間が持たせられるとはとても思えない。よしんば何か話そうとしたところで、煩わしがられるばかりだろう。
 ユカリも、小松田がパイロットで飛行機が二人乗りであるからこそ、お鉢を回してきたに違いない。
 期待されているようなことが起こるとは思えないのだが。
 最上階には元からあったシルフィードの隣にもうスパンデュールが並んでいて、外で塔を中心に黄色い飛行機が旋回するのが見えた。
 薄い刷毛雲を背に、嫌でも鮮やかな色が目に入る。

 館内をまわって昼食を済ませてもフライトは繰り返し続き、その間小松田も外で弁当を食べたらしく顔を合わせなかった。
 午後二時半、記者達は全員搭乗を終了。とうとうえとりの番が来てしまった。
「行ってまいります」
 館長達には笑顔を向け、右の降着装置に足をかけて機体に乗り込む。
 表情を保つのがきつく感じるのは珍しかった。
 中から声がかかる。
「おう、説明は聞いてただろ」
「はい」
 先に言われたとおりの手順で席に着き、ベルトを締める。座り心地は悪くはない。また肩から上と天井は主翼の付け根に分けられた樹脂製の窓で、開放感もある。
 胴体の内側はフレームが見える部分もあり一見頼りないが、館長の言うとおり新品同然であった。
「まあフリヴァーに比べりゃ乗ってる分には楽なもんだからよ」
「恐れ入ります」
 小松田の話し方は案外のんびりして、リラックスしているようにも感じられた。
「滑走の間だけは話しかけんじゃねーぞ。補助はあっけど真っ直ぐ走らせんの難しいからな」
「かしこまりました」
 つい過剰に丁寧に答えてしまう。
 が、いつもと違って小松田はそれを咎めない。
 そういえば操縦している人の姿を同じ機体から見ることはフリヴァーではないな、と思ったとき。
 機体が動き出した。
 外からは滑らかに進んでいるように見えたのに、乗っているとかなり揺れる。
 それに気を取られている隙に、上半身が前に倒された。
 尾部が持ち上がる動きが急だったせいだ。
 窓の下を、滑走路が流れていく。
 もし転んだらこの路面に弾かれ削られるのだろう。
 不意にそれが離れ、今度は背中が後ろに引っ張られる。
 身体を丸め瞼を閉じる。
 が、持ち上がっていく感覚以外、何も起こらない。
 顔を上げると飛行機は無事地面を離れ上昇していた。エンジン音もここからは不思議と穏やかに聞こえる。
 そこに、小松田の含み笑いが混ざった。
「普段あんな機動して澄ました面してる奴がよ」
「え?」
「叫んでたぞ。きゃっ、っつって」
 無意識だった。
「大変お聞き苦しいものを」
「いいって。人の操縦じゃそんなもんだろ。昨日のアメジさんなんかはしゃぎっぱなしでエンジンよりよっぽどうるさかったぞ」
 やはり普段会う小松田より声がずっと明るい。
 窓の外に目をやれば、普段目印にしている木立の側面が見えている。
 見慣れたはずの地平が、見慣れない角度で流れる。
 初めて来る場所という風に感じる。
 右にバンクすると頭が大きく傾き、地面に引き寄せられる。
 腹這いに近い姿勢で飛ぶフリヴァーとはまるで異なる感覚。
 透明な天井には、遠い刷毛雲が映る。
 そこまで昇るのにこの飛行機ではどれだけかかるだろう。
 一息に突き抜けてしまわないのは確かだ。
 先程までの胸のつかえはほとんど溶けつつあった。
 操縦する小松田はこちらからは顔が見えないが、確かに楽しそうにしている。
 厨房にいる父のようであるとも感じるし、逆に食卓で特別な夜を楽しむお客様のようでもある。
 その頭が、振り向いてすぐ戻った。
「楽しそうじゃん」
 先に言われてどきりとする。
「館長もさ。すんげえ嬉しそうにしてただろ」
「はい。とても丁寧にご説明いただきました」
「あれやっぱ、おめえが来んの楽しみだったんだよ」
「私がお邪魔するのが、ですか」
 小松田は、首筋を掻いてから続けた。
「おめえ、博物館の人らにけっこう人気あんの。自分で気付かねえ?」
「人気……、弊社のご用事をお伝えするだけの私が、なぜでしょう」
 そう尋ねられた小松田はすぐには答えず、あー、と唸り、また一瞬振り向いて、すぐに向き直った。
「うちにおめえと同い年の妹がいんだけど、これがおめえと真逆みてえなガサツでクソ生意気でいい加減な奴でさ。おめえみてえのも厄介は厄介なんだけど、おめえまでそいつみてえじゃなくて良かったなと、」
 そこで止まり、つまりさ、と繋げ直す。
「おめえはさ、自分じゃ真面目に仕事してるだけだと思ってんだろうけどさ。ちっこい奴がそんな一生懸命にしてんのが、案外、何だ。けっこう、良く見えたりも、するんじゃねえの」
 非常に回りくどく歯切れの悪いことが、かえって雄弁だった。
 フリヴァーに関する事以外で相手を誉めるのが非常に苦手な小松田である。これだけ相手に、特にえとりに肯定的なことを言うこと自体珍しい。
 まして、自分が男性にそんな風に言われることがあるとは。
 旋回の中心に立ち続ける博物館の塔と、小松田の背中、どちらに目をやったら良いか分からない。
「小松田さんは、アメジさんのような方のほうがお好きなのでは」
「そう見えんのかよ。ありゃ世話んなってるってだけで、後はただの無茶苦茶な人だよ」
 とても失礼だが正直なところ、えとりもそれは否定できない。
 二人、苦笑いする声が重なった
 管制がフリヴァーの接近を知らせる。
 スパンデュールが一機、試合の用意はしていない。もし用意していても、復元した飛行機を飛ばしている最中の所沢では試合できないのだが。
 左側の見えるところに現れた。
 真っ白い翼はすぐに調布から来たネオンのものだと分かる。速度は最大に近い。
 頭を上げて円弧を描きループに入った。
 かと思うと、頂点で三百六十度横転。
 真円がそこだけ凹む。
 アヴァランシュ。ハート型の軌跡を描く技である。
 水平に戻ったネオンはそのまま南東に去っていく。おそらくこの飛行機に誰が乗っているのかも知らないまま、ただ練習になるからと言われてやったのだ。それを言いつけたのは間違いなく、
「噂をすればあの……」
 小松田のつぶやく語尾は濁って聞き取れない。
 咳払いをして姿勢を戻した。
「まあ、いっつもはつまんねえ用事でつまんなそうな面して来るからアレだけどよ。今日みてえな感じだったら歓迎するわ」
 画期的な一言。
 しかし、
「って言え、って、アメジさんに昨日言われた」
 これにはえとりも、笑いを抑えられない。
 声を上げて笑うなど何年ぶりだろう。
 種明かししなければ紳士でいられたのに、そんなのは耐えられないのが小松田なのだ。
 何だよ、といつものように嫌そうに漏らす小松田の、下手な照れ隠しも含めて汲み取ろうと思えた。
「私も、これからは喜んでお邪魔させていただきます」
 返事は「へっ」であったが、えとりはもうこのフライトが楽しいと素直に認めていた。
 何も取り繕わなくてもユカリや会社には良い報告ができそうだ。
 薄青の空と鈍い緑の大地、その間を漂う黄色い飛行機に注ぐ陽光は、金色を帯びつつあった。
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