デニムスカイ番外短編 第二話前編
「Absolute Ego Dance -Real Time Attack-」
 ナドウモビリティのテストパイロット・刈安えとりが父親の元でウェイトレスとして働く飲食店「巣籠亭」と刈安親子の家は、調布のタワー内でも別々の階に建てられている。
 朝四時半。
 えとりは背中に届く髪を一つにまとめ、山吹色の飛行服の襟にあるフードに収めて、他には身支度に手をかけず家から出た。
 その手に曳く愛機、ユーロフリヴァー製「テレポーター」の背には、模擬銃ではなく涙滴形の大きな膨らみがある。荷台のカウリングである。
 未だ薄暗い居住フロアを西北西へ真っ直ぐ進み、テラスを出て発着場へ。
 夜明けにはまだ二時間。
 向きを変えず、眼前の暗闇へ飛び込む。
 アクイーラが登場しても実用条件では依然世界最高の速度で、まばらな灯火が地表を過ぎる。
 その光もどんどん間隔が開いていき、日の出から逃げているかのように黒が濃度を増す。
 瞬く間に奥多摩まで辿り着いてしまった。
 山中、一つだけ目立つ灯りがある。機体と同じ山吹色だ。
 闇の膜に針で突いて空けた穴ほどの空間に、巡航中の軌跡から歪みなく続くラインで降り立った。
 足元は固く、端まで光が届かないくらい広い屋上である。
 待ち構えていたように人影が浮かび上がる。
 自律して滑る台車を連れた、中年の女性だ。
 機体を下ろしたえとりは、客に対するのと同様深いお辞儀をした。
「おはようございます」
「はい、おはよう」
 足元から雄鶏の叫び声が上がった。
 タワーの地下でも主要な食料は生産されており、効率的な養鶏場もある。しかし人里からある程度離れたここは、もっと特別な家禽を育てる畜産農家なのだ。
 二人の立つ禽舎では何品種かの鶏は勿論、鶉や合鴨、七面鳥に鳩と様々な鳥が夜明けを待っているところだ。
「今日の分はこれだけね」
 前に出てきた台車の積み荷に向かってえとりは手をかざし、箱の中身を確認した。
 この朝最もコンディションがよかった鳥の肉や内臓、それに産まれたての卵が、徹底的に鮮度の低下を防ぐ容器にきっちりと収められている。
「ありがとうございます。本日も大変お世話になります」
「毎度あり」
 えとりが手を今度は女性の手に重ねると、食材の代金が受け渡された。
 容器はテレポーターの荷台にすっぽりと合うサイズになっている。毎朝繰り返して完全に慣れた手つきで荷物を積み、機体を背負うえとりに、女性が声をかけた。
「ねえ、大変だったらまたこっちから送るようにするけど」
 その提案も何度目だろう。
「お心遣い感謝いたします。毎朝最高のものを私共にご優先していただいておりますので、これ以上ご優遇いただくわけには参りません」
「そう」
 女性も半ば定期的に確認しただけで、断られるのが当たり前になっている。
「それでは、失礼いたします」
「また明日」
 小さく手を振られながら飛び立った。
 えとりが免許を取る五年前までは毎朝黄色い翼の生えた卵のような配送カプセルが調布に飛来し、店の裏まで来ていた。
 最も上質な肉と卵を真っ先にまわしてもらっている上配送までお世話になっているのは、えとりにとってあまりに申し訳ないことだった。
 そこでえとりは十五歳になるとすぐに免許を取得し、当時最速のスカイギャロップを身に付けた。
 以来、新鮮な卵黄を思わせる山吹色の翼は、巣篭亭の手足となって飛び続けている。
 配送用も見据えて設計されたテレポーターは荷物を満載して運動性こそ悪化するものの、速度は全く下がらない。
 空が白む気配もないうちに調布に戻ってきた。
 人気のない商業フロアを、機体を曳きながら駆け抜ける。
 最適化された道順で町の奥へと潜り込んでいくと、迷路のような路地に隠れているはずの店の裏に難なく辿り着いた。
 荷物を機体から下ろし、勝手口を開ける。
 中の厨房では父親がすでに待っていた。
「おはようございます、店長」
「ん」
 えとりは十年近く、父親を父親と呼んだことがない。
 父親がえとりの名前に「良鶏」という字を当てるのを阻止した母親も、離れていってからそれくらいになる。
 一緒に行こうと言われてもえとりは家に、いや店に残ることを決め、それからは完全に娘ではなく店員として父親と接してきた。
 ただ厨房に立ち入ることは許されていない。
 店長が食材を一つひとつ確認し保管庫に収めるのを勝手口の外で見ている。
「よし」
 店長がそう言うとえとりは改めて玄関から入り、飛行服のまま店内の掃除を始めた。
 特に、客が自分を呼ぶための小さな銀のベル。これは忘れずに磨いておかなくてはならない。
 それが終わったら、今夜の予約内容の確認がある。
 客の名前と、メニューはこちらに任せると言ったこと、それに合わせて店長が何を作るつもりか。
 よほどのことがなければ一晩に一組しか予約は受け付けない。
 今夜はかなりの常連である男性の客が予約していた。
 連れの名前が、また前回と違う。
 毎回違う女性を連れてくることに以前は疑問を抱かなかった。それは客のプライバシーに立ち入ることだ。
 それなのに、親しい先輩であるユカリとワタルの過去を知って以来、男女の関係について妙に意識してしまう。
 無論ユカリ達の過去が放蕩の結果でないことも、客がそうなのかどうか自分にとって何も問題ではない、問題にすべきでないことも分かっている。
 そこですっぱりと気持ちを切り替えた。
 誰が誰を連れて来店するのか深く心に刻みつけられ、業務上は助けになったと言うべきだ。
 やることが済んで、また出る時間が近付いてきていた。
 厨房のほうに一言声をかける。
「行ってまいります」
「ん」
 小さな更衣室に置いておいた模擬銃を取り、再び表へ。
 機体に装着して道を戻り、今度は北北西の発着場に出た。
 所沢にあるナドウモビリティの試験場へ向かう。
 大地はすっかり朝日に照らされ、緑の草木の中で桜などは一足先に黄色や橙、紅に染まりつつある。
 奥多摩に着くより大分短い時間でしかないが、荷台よりずっとスリムな模擬銃に替えて明るい視界を飛ぶと開放感は増大される。
 地表が草だけになり、飛行場の奥、半円筒形をした試験センターの正面に到着。
 日下航空工房と同じく、スパンデュール発売以降のナドウも基礎データ採取とアップデート対応のためのフライトを実施しなければならなかった。
 自分の機体と飛行服から、用意されたスパンデュールと規定の飛行服に替えてすぐに離陸、試験飛行を開始した。
 ノルマは設定されており、スタッフがまだ来ていなくても一人だけで進められる。
 必要な高度に達した直後に右横転、五回でぴたりと止め、続いて左にも五回。
 全国で活躍している協会公認テストパイロットの中でも、えとりは最も小柄な体をしている。
 そのえとりと優れた運動性を持つスパンデュールが合わさり、誰が何を駆るより小さく早く回ることができる。
 背の高いユカリと合わせて広い範囲のデータを得ると同時に、身軽さを生かしてユカリ以上に激しい機動を行うという特別な役目を追っているのだ。
 一回分のフライトを終えて降りると、後から来ていたスタッフが窓の向こうから手を振り拍手してきた。機体を背負ったまま深く一礼。
 ここでの自分の役割を果たせていることが分かる瞬間である。
 同時に、空戦では自分が今のような動きを生かしきれないことも知っている。

 午前中はずっと飛んでいたが、その間博物館の方から何か大きな音の立つものが飛び上がるのも目にした。展示されている飛行機をレストアして飛行可能にしたのだろう。
 それは昼休みになってから食堂にやってきたユカリが、開口一番発した言葉で確かめられた。
「飛行機に乗せてもらってきちゃった!すっごく楽しかった」
「こちらからも見えておりました。エンジンの音も」
「すごい音よね、百六十年前の機体だって。えとりちゃんは博物館の飛行機って乗ったことなかったわよね」
「はい、ございません」
 テーブルにつきながらユカリははしゃぐように明るく話す。しかしこれもナドウと博物館の交流を目的とした正式な任務であり、ユカリには詳しい報告の義務もある。
 そのはずなのだが、ユカリはこんなことを言い出してえとりを面食らわせた。
「じゃあ、明日はえとりちゃんが乗ってみて?」
「明日、私がですか」
「ね、いいわよね。えとりちゃんももう立派なここのパイロットなんだし、そろそろ乗せてもらったほうがいいわよ。ね、みんなもそう思うでしょ?」
 ユカリがスタッフ達に話を振ると皆快く首肯し、さらに後押しする者までいた。
「予定も順調、余裕は充分ですよ!」
 ユカリは小首を傾げて見つめてくる
「嫌?」
「いえ、アメジさんがお勧めになるのでしたら喜んで」
「じゃ、決まりね。向こうにも連絡しとかなきゃ」
 ユカリはそう言って席を立ち、ふわりと漂うような足取りで部屋の外へ歩いていった。
 博物館の正面やホールは飛行場の中心地なのでえとりにも慣れた場所だが、展示の方はあまり見たことがない。今日飛んでいたのもどんな機種か分からなかった。
 興味を持つに持ちきれないといったところだが、ユカリが推してくるものを断る考えはえとりにはなかった。

 予期されたとおりこの日のフライトは夕焼け前に全て終了した。
「皆様、本日も大変お疲れ様でした」
「お疲れ様でした!」
 スタッフにも深い礼をしてから愛機に手をかける。管制からの通知が届いたのは、まさにその瞬間だった。
 挑戦者は北西から。機種はアクイーラ、順位を確認すると小松田とえとりの間だった。
 ユカリに視線を送ると小さく頷いた。えとりは一旦改めて皆の方に振り返る。
「お先に失礼いたします」
 機体を身に付けている間に声がかかる。
「頑張って!」
 凛とした笑顔にパイロットとしての闘志を添えて返した。
 離陸、急上昇。
 アクイーラには上昇率で劣っている上、こちらが迎える立場では同じ高度に追いつくことは到底できない。
 それだけに、相手がどう出るかよく分かる。
 左前方、見下ろしてきている。
 やはり相手は倍も高度があった。
 えとりは左に傾き始める。ただし、早くならないように。
 突っ込んできた。
 頭上げ、全力で横転。
 弾が背後に落ちる。
 狙いどおりに間合いを誤ってくれた。
 弾の後から落ちていく相手の背中にねじ込む。
 テレポーターに旋回で追いつかれるものとは思っていないだろう。
 しかし急降下直後の相手ならいい餌食でしかない。
 連射、命中。
 底上げされた旋回率は確かに強みだが、元がテレポーターでは相手の目測を狂わせなければ生かすことのできない程度のものだ。
 どちらも小さな体と小さな機体が生み出した武器であり、何もしなくてもえとりの場合はフェイントを多く入れたのと同じことになるのだ。
 ただ、えとりの機体が小さいのを遠くにいるのと見間違えてくれた場合しか上手く働かず、そこを崩されると厳しい。
「また出直すよ」
 相手はそれだけ言い残して背を向けた。
「心よりお待ち申し上げております」
 そう返すものの、次は対策されてしまうかもしれない。
 ユカリのスパンデュールも上がってきた。
「小松田君が追いつくのは大分先になりそうね」
「それほどでもございません。小松田さんもここのところとても上達なさっていらっしゃいますし」
「それでいいわよ。あんまり差が開くといじけちゃうでしょ、あの子」
 きっとそうだ、というか今でもそうだなと苦笑する。
「ねえ、小松田君のことどう思ってる?」
「僭越ながら申し上げれば、小松田さんは相手の動作を全て素直にお受け取りになってしまわれるところがございますね。操縦のお点前やチームのリーダーとしては一流でいらっしゃいますけれど」
「あ、ごめん。腕のことじゃなくて」
 このタイミングで聞く意味が分かりかねる。
「そうですね……、私とはいつもお話ししづらそうにしていらっしゃいますけれど、同じ飛行場を共に使わせていただいている身としては、大変ご懇意になさってくださると」
 そこまで言ったところで含み笑いが耳に届けば、色恋に疎いえとりでもユカリの意図が分かろうというものだ。
「ふふ、あなたって子は」
「申し訳ございませんが、アメジさんがご期待なさるようなお話はご遠慮いたします」
「いいじゃない、ちょっとくらい。仲良くしてもらってるんでしょ?」
「あくまで飛行場の仲間として、です」
 小松田が関わると毅然としたえとりの態度が崩れるのをユカリは把握して、わざと話をそちらに引っ張ってくる。
「あら、この前あなたが具合悪くなっちゃったときなんか、あの子けっこう心配してたわよ?」
「ですから、その」
 小松田が自分の心配なんてするわけがない、受け入れられていないのだから。
「私が小松田さんとお会いしても、あの方は私の振る舞いが固いとしかおっしゃいませんし」
「それはさ、あの子はあんな雑な感じだもの。ちょっとじれったいと思ってるだけで、えとりちゃんのこと嫌いなわけじゃないと思うなー」
「そんな」
 えとりがいつも会う小松田は眉間に深々と皺を寄せ、えとりが長く話すのを許さない。それを改めてほしければこちらから柔らかく接するべきだと分かっているのに、えとりにはその術がない。
「もっと普通に話せるようになりたい?」
 とうとう答えに詰まってしまった。
 ユカリがまた笑みを漏らす。
「今えとりちゃん、近代大衆文学のヒロインみたい」
「え」
「淡い恋心を隠そうと取り繕って、逆に意識してるのがバレバレ、みたいな」
「そのようなことはございません!」
 またユカリのペースに乗せられてしまっていた。
 夕日を右後方に見て調布の方角に向く。
「失礼いたします」
「はい、お疲れ様」
 まだ開店準備には充分時間があるが、最高速まで一気に加速した。

 夜八時。
 店の玄関口に立って客を待つえとりは、エプロンドレスの着こなしといい真っ直ぐ伸びた背筋といい、一分の隙もなく見えた。
 元々パイロットとしてよりウェイトレスとしてのほうが遥かに熟達しているえとりの、本来の姿である。
 ほどなく、ユカリより少し年上くらいの常連の男性が、ユカリより少し年下くらいの女性を連れて扉を開いた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
 笑顔と深いお辞儀で迎えると、えとりがよくあるロボット店員でないのを知って女性が目を丸くする。男性はそれを見て微笑んでいる。
 全く見慣れた反応、いつもと変わらずに応対できる。
 彼らが一体どんな仲であろうとも、自分からは隔てられた事象である。
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