デニムスカイ第三十六話
「Gradated Gray -Luck Based-」
充電を使い果たした古尾氏は、幸いにして芝生の短く刈られた範囲すれすれに着地していった。
百人は集まった観戦者の中から数人が出るが、古尾氏が手助け無しで機体を外すのが上から見える。
黒い飛行服のワタルもその中に見分けられた。
自然と、そこから見て内側の位置に着地点が定まる。意識することもなく機体は降りていく。
本当に来てくれていた、などと大袈裟に喜ぶこともない。ここにいるのは知っていたのだから。
信じがたいものなど他の一つで充分だ。
ロビンブーストの動作も理解できていたし、クルビットが来ることも直前で見抜いていた。しかし、古尾氏がそれを慌てて放ち、失敗させた後の動きまでは。
相手のミスが相手に利するなど。
気が付けば着地が済んでいた。ネオンを迎えたのは、古尾氏の力無い苦笑いだった。勝者にはとても見えない。
そう感じることが、かえってネオンに自覚を促した。
内容はどうあれ、負けは負け。
いつも以上に手際良く機体を畳み、背筋を伸ばして、古尾氏に向き合う。
腰だけを曲げて深く一礼。
「ありがとうございましたっ」
「ありがとうございました。いやあ、自分でもこれじゃあ何だか」
「結果は結果ですから。本当に楽しかったです」
顔を上げてすんなりと交わす握手にも、ネオンは意識して力を込めた。
「逃げられる気がしなかったですよ、次やるとしたら絶対僕の負けです」
そう言い終えた途端、古尾氏の笑みに力が宿った。
「今のままでは、ね」
手を離した古尾氏は振り返った。
その先にいたワタルは眉一つ動かさない。
しばらく視線を返した後、畳まれたレイヴンを曳いてこちらに歩き出しながら答えた。
「まあ、そのときはこっちも今のままじゃないっすから」
古尾氏は笑顔を崩さず、小さくうなずく。
改めてそちらに向くこともなくワタルは古尾氏の隣を過ぎた。
「帰るか。飯食ってから」
「あっ、はいっ」
レイヴンを身につけながら歩き抜けていく背中を追いつつ、ネオンは一旦振り返った。
「ありがとうございました。今度また」
「楽しみにしてますよ、ログもね!」
右手を高く上げながらの明るい返事が返る。
ワタルはもう踏み出していた。
名古屋を構成する七つのタワーの中でも、大曽根の商業フロアは静かな方らしい。
来る前にネオンはそう聞いたが、実際に見る限りはあまり信じられなかった。
大作りな原色の広告が躍り、立ち並ぶ店々は壁をほとんど無くすことで料理の香りとBGMのセンスを競っている。大人数で連れ立つ人々の目立つ道は調布の倍の幅があり、トラムが鐘を鳴らしながら途切れることなく行き交う。
一番賑やかな「栄」でなくてよかったとは思いつつも、調布の商業フロアにもまだあまり馴れていないネオンにとって居心地の良いところではなかった。
大きな試合に負けた後となれば、余計に心が内側へと追い詰められる。
横を見ればワタルも落ち着かなげに視線を巡らせていた。少しでも落ち着いて休める店を探しているに違いない。しかしネオンはもうどの店も大差ないと気付いていた。
「早く済ませて、話は発着場でゆっくりしましょう?」
「う、ああ」
ワタルは目を丸くして表情を強張らせ、手近の店に向かって歩みを早めた。
怒ったような言い方になってしまっただろうか。そういえばワタルに指図することなど滅多になかった。
テラスに出た途端、五月蝿い、と感じ、すぐそれを否定した。
急に静かなところに移動したせいで慣れていた喧騒が消え、細い針金のような耳鳴りに入れ替わっただけだ。
つまり、テラスまでやたらと賑やかになっているわけではない。調布と同じように芝生の生えそろった公園になっている。
日差しに向かい合う長椅子に腰かける。何も意識していなかったが、またしても珍しくワタルを導く形になった。
二人して、ふう、と長いため息をついた。
落ち着いてみてはっきり思い出される、先程の試合の終わり方。
一旦は受け止められるつもりになっていたが、ワタルが見ていたと改めて認識しては平静ではいられない。合わせた両手で覆った口から、ううう、とうめき声が漏れる。
「ネオンよお」
「何ですか」
今のは確実に邪険な物言いだったと自分で分かる。
それでもワタルは、ネオンに向ける眼差しを微塵も尖らせることはなかった。
「あれを分かってかわすのは、俺でもちょっと厳しいぞ」
「えっ……?」
ネオンがログを見て知る限り、ワタルが相手の動きをつかめなかったことなど一度もない。
「ヒムカイさんでもそんなことあるんですか」
「まあ今回は特別だな。あの改造機、元々変な形してるところにあの筒だろ?そんなのがクルビットの最中に充電切れ起こして、それからどっち向くかなんてのはな。だから、本当に偶然だよ今回のは」
「そう、なんですか」
全く当然のように発されたワタルの言葉は下手ななぐさめの嘘などではなさそうだ。いや、そもそもワタルはフリヴァーに関して事実と反することを言ったりしない。
それでも。
「ヒムカイさんみたいにもっと遠くから狙って撃てば避けられたじゃないですか」
ついそんな言葉が口を出た。
直後自分の言ったことの意味が分かると同時に、ワタルの頬が緩んだ。
「俺みたいにか」
ワタルは両手を上に向け、それぞれ別々のログを表示した。右手には今回の試合、左手にはワタルが丹羽を狙い撃ちにした試合。
「お前が今日取ってた距離は、このときの俺が取ってた距離の三分の一くらいだな」
普通、射程圏と考えられている距離とちょうど同程度。
「もっと遠くから当てたいか?」
ネオンには、それができる気がした。
「はい」
「よし。ネオン、」
ワタルはログを引っ込めて体をネオンに向け直す。
「今日みたいな場合でもなければ、お前はもうフリヴァーの動作を完璧に理解してるよ」
ワタルがそう言い切った。
完璧。それはまさにワタルのことを指すのであり、自分はそこにはまだ届かないのではなかったか。
何も返せないネオンにワタルは苦笑する。
「謙遜するなよ」
「え、だって、そんな」
「そんな訳ないと思うか?」
「それは……、確かに最近、相手の人の動きがよく見えてますけど」
「だろ」
組んだ両手を膝に置いて身を屈めるワタルの目は、優しく、どこか寂しい。
「沢山見たログを材料にしてお前の頭の中に出来上がってるんだよ。フリヴァーの動作を再現するモデルみたいなものが」
「モデル?」
「それさえあれば相手と自分の動作がよく分かる。もう手足と同じだからな」
梅雨の間休んでもログを辿るような感覚が消えなかったのも、泳ぎ方を忘れないのと同じということか。
「お前は良いテストパイロットになれるだろうな」
そう言われたくらいではもう驚かない。
「でも私、テストパイロットになりたい訳じゃなくて」
「ああ、分かってる」
ワタルは組んだ手に視線を落とす。
「俺に、近いものになってきてる。お前は」
ためらいがちに発した。
相手の位置と機動を必ず把握できる。ワタルはそれゆえに空戦の喜びを失った。
だからこそ、ネオンは同じ高みに立たなくてはならない。
「どうしたら、その」
「ああ、俺にもはっきりしたことは言えないけど、そうだな……、多分、もっと強い相手と戦い続けるしかない」
ワタルは一旦言葉を止め、立ち上がった。
「どうするのがいいかは、自分で決めろよ。もしこの目のせいだったら駄目なわけだし」
そう言って自分の瞳を指差す。今は逆光でただ黒くしか見えない。
「もう休憩は大丈夫か?途中で二回くらい休むけど」
「はい」
ネオンも立ち上がり機体に手をかけた。
機体を身に付けたほうが、どこかしら落ち着いていられるようだった。
欠けていた部分が補われたと脳が認識している。
同時刻、多摩丘陵の南端。
そのさらに南東から飛び立った一機のフリヴァーが多摩川を遡上しつつあった。
自由に伸ばした枝葉で真夏の光線をかき集める草木を影でなぞる。
炎天下に照らされる、赤一色のレイヴン。
二子玉川を過ぎ、狛江を過ぎ、とうとう調布を過ぎても、鬼塚は降りずに進んでいく。府中を通り過ぎて、国立で進路をやや北に向け多摩川を離れた。
木々の間に、淡い色に刈り取られた穴が開いている。
巨大なスタジアム席を左右に広げた立川飛行場。
鬼塚は応戦モードに切り替えて接近した。
藤色の機体が二機、迎え撃つ。