デニムスカイ第三十五話
「雷電 -Critical Hit-」
調布と比べて山が近い。
西に二百五十キロも離れた小牧飛行場。
地形は違っても空や草原の色は変わらない。たった一人で初めて調布を離れたネオンを受け止めてくれたのは、結局、物言わぬ天地だった。
真左にうっすらとタワーが見える。七本ある名古屋のタワーのうち、北の「大曽根」だ。
これで五周目、稜線の形が網膜に焼き付いてきた。
外来の挑戦者というものはその飛行場で見える地形にあまり慣れておらず、咄嗟の状況把握に差をつけられてしまいがちだ。初めてその立場になったネオンは、試合前日から念入りな下見を行いハンデを埋めようとしている。
その要素さえ潰せば勝機は充分ある。ネオンは確信していた。
連絡を受けてから十五戦十三勝。ネオンは一つひとつ思い返す。
その全ての試合で、あの梅雨の始まる日の感覚が再現された。
幾重もの雲を貫くテレポーターの不意討ち。
目を疑うような駒鳥のフェイント。
ネオンはその全てを見抜いた。
どんなログが紡ぎだされるか見えるかのように、どの相手の手の内も読むことができた。
ただ、それだけで絶対に勝てるわけではないことを、二敗を奪った相手が警告していた。
いくら動きが読めるようになってきてもユカリやワタルにはまだ及ばず、持ちこたえられる時間を延ばすので精一杯だった。
それでも、ユカリとの練習のおかげもあってネオンの順位は上げ止まることをまぬがれ、古尾氏に迫りつつあった。これで古尾氏に勝てれば、順位のツリーのうちで最も閉塞した区間を抜けるだろう。
最後の仕上げに、ゆっくりと三回横転。
深く硬質な空の青に、ネオンは勝利への意志をさらに引き締めた。
大曽根のタワー最上階。簡素な作りの宿泊施設は自室とあまり変わらない雰囲気だった。どちらも物を置くことを避けているためか。
特別なことがない方が普段の力を発揮できそうに思えて、ネオンにはかえってありがたかった。もし至れり尽くせりの手厚いサービスを受けようものなら、一人旅の緊張を煽られて調子が狂っていたことだろう。
そんな心配をするくらいには、今実際に落ち着かない部分があることを自覚している。
とにかく、いつもどおりの仕事がある。仕事に取りかかればいつもと同じ調子を保てるのではないか。そう気付いて最初のログを開く。
すっと、その試合に入り込む。試合がログに見えるのと反対にログから試合を蘇らせるのもたやすい。
こうなればもう居場所の違いなど気にならない。先程まであった気持ちの陰りどころか、それが消えたことすら意識になくなってしまった。
次々と指が進み瞬く間に仕上がっていくが、ノルマまでで中断。体力は温存しなければならない。
紅茶を一口。深く息をつく。
再び、ログの一覧を開く。
今度は仕事とは関係ない。ネオンがまとめ直した、古尾氏の試合のログである。もうすでに繰り返し何度も見ている。
ストールターンでダイブ攻撃をやり過ごす。一瞬の隙を突く逆ループで見失わせる。スピンで強引に回り込む。
そして、何事もなかったかのように正立。
試合の最中でも古尾氏の改造機はショーさながらの離れ技を放ち、状況を逆転させていた。さらに実戦でそれを可能にする立て直しの早さ。反撃の隙を与えない。
ログだけではなく、少し調べればこんな噂も目にすることができた。
「もし古尾の真後ろに付けたとしても、それはチャンスでも何でもない。急激に引き起こして振り返り、逆に古尾の方が撃ってくるからだ」と。
何やら危険な生き物に関する大袈裟な警告のようだが、実際にそんな動きをしている試合は見当たらない。
ただ曲技でなら、本当にそういう技を決めていた。「クルビット」と呼ばれる、難易度最高の機動だ。
さすがに立て直しきれずかなり高度を落としていて、これだと実戦で使うのは無理だろうか。とはいえこの改造機の性能をよく表している動きだ。
ベースとなった曲技専用機「駒鳥」に由来する運動性もあるが、最大の武器は推力の大きさと向きを素早く大幅に変化させられることらしい。ユカリが言っていたとおり、それが背中に増設した筒の効果なのだろう。
そして、最大推力を格闘に入る前の高度確保に使うことはほとんどない。あくまで切り札ということか。
着信、古尾氏から。
「やあ、わざわざこちらまで来てもらってすみません。準備は万端ですか?」
「はい、古尾さんは」
「すこぶる快調ですよ。今日すっかり肩の荷も降りましたしね」
開発が一段落ついたのか。ネオンがそれに気付いたことを察して、古尾氏が問う。
「ヒムカイくんやアメジさんのほうはどうなんですかね、もう完成させてるとかは」
「それは、知ってても言ったら怒られちゃいますよー」
「あはは、そうですよね」
ネオンも笑って応えた。が、これで国内三大フリヴァーメーカーのテストパイロットに囲まれ、開発競争に巻き込まれているも同然になったわけだ。あまり爽やかな状態とは言えない。
「僕のログとか見てみて、どうですか」
「え?」
「いや、アメジさんのことだからきっと「ロビンブースト」のことは何も言わずに僕を相手にするのを勧めて、詳しいことは後から教えたんだろうな、と……。違ったらごめんなさい」
「いえ、確かにそんな風で」
今度は二人して苦笑。
ネオン自身はそんなにユカリに意地悪された自覚はなかったが。
「ロビンブーストっていうんですね、あの機体」
「実験用に作られたんですけど、自由に飛ばしていいということでね」
「まあ、びっくりはしましたけど。でもログを見てからの方が楽しみになりました」
「流石ですね」
互いの微笑みに、ほんの少し鋭いものが含まれる。
「アメジさんとヒムカイ君は仲良くやっていますか」
「え?はい、私から見たら仲は良さそうです」
「そうですか、それなら良かった」
そう言って古尾氏は小さく何度も頷く。そんなに気にかけるようなものだろうか。
「では約束どおり明日の十時、飛行場の上で待ってます」
「よろしくお願いします」
通話終了。
そこでふと思い立ち、ネオンは自分が昼に飛んだときの記録を呼び出した。
少し操作すれば、機体が撮影した映像を基に飛行場からの全周パノラマ画像が出来る。自分を取り囲むように表示して答え合わせ。
地形はもうすっかり頭に入っていた。
雲は地平線にほんのわずか。快晴と言っていい。
低空には無関係な機体が多く、皆何やら行儀良く飛行場に集まっている。試合に影響はないだろうか。
最大上昇率で北へ。
ごく緩やかに右旋回。
太陽を背にして飛行場に進入。
古尾氏は視認前に推力を上げないようだが、今回はどうか。
そう読むことをさらに読んでいるかもしれない。
いや、おそらく読んでいる。
ログをよく見ていることは知られているのだから。
それでも普段どおり待ち構えてくるか、最初から仕掛けてくるか。
もはや前者では騙し討ちにならないなら。
右側前寄り、
同高度。
異形の影。
認めた瞬間、
イメージが拡がる。
急バンク、向かってくる。
見るからに最大推力だ。
こちらもダイブ気味に加速。
すぐ射程圏。
連射、
右横転、
上がりながら戻す。
弾は下へ。
相手は右に跳ねる。
ほとんど直角に向き変った。
横転から普通にブレークしていたらあっさりねじ込まれたはずだ。
これが、「ロビンブースト」の動き。
しかし把握できる。
奥まで抜け、
大きくターン。
相手は整えて上昇を続ける。
詰められれば終わりだ。
反転、
また反転、
規則的に蛇行。
速度を殺さずに。
相手は真上、
落下してきた。
ここで不規則に外へ、
一瞬。
強引に戻す。
一コマ白い視界。
バレルロール。
相手は無理矢理回りながら、
外に落ちる。
ネオンは頭下げ、
一気に距離を稼いだ。
思いどおり強引な動きで、二重のフェイントにかかってくれた。
実物を目の当たりにして流れ込む情報が、今このとき読みの精度を上げ続けている。
それに、ワタルが見ている。
管制をゆっくり確認している暇はなかったはずだ。
それでも、ただ来てくれるはずだと信じるだけの甘えなどではなかった。
あの黒いレイヴンが来たことを、いつの間にか、しかし確かに把握していた。
相手は射程距離すれすれ。
激しく縦横に蛇行。
到底当たらない。
いつでもひっくり返せることも示している。
その時は再び逃げなければ。
まだ相手は揺れているだけだ。
見つめるうちその揺れも分かってくる。
右、下、左上。
適当に撃つ。
困っている振り。
出黒沢を思い出す。立場が逆だ。
左、バレル気味に右上、背面で左下。
変な汗と笑い。
下右寄り、その逆、左ややダイブ。
今。
右上。
射撃、
外した。
離脱。
目の前には、
緑の背中。
後ろに落ちていく。
崩れたクルビット。
やはり立て直せないか。
そう思った瞬間、
ブザー。
確認してみても狙って撃てたとは思えない。
苦し紛れの一撃を決めた古尾氏が降りていく。
風防はその右下に、「充電量わずか・優先して着陸させるべし」を意味する、中抜きの丸を表示していた。