デニムスカイ第二十八話
「ロッキンチェアー -One Hour Per Day-」
 それから五日というもの、好天続きの調布の空に白いシルフィードはほとんど見られなかった。
 枯れ草を撒き散らして飛び立つのは、立花の駆る柿色のスピアゲイル。挑戦者のいた方角に向かって寒風を切り裂く。
 ゴーグルに目と耳を覆われたネオンは、それに気付きながらも動くことができない。
 光と音を半減するバイザーの下、小さな唇の中で歯噛みした。上半分だけ覗く眉は険しい。
 耳当て部分の光が、赤から緑に変わった。休憩の時間だ。
 ふうう、と長い息をつき、ゴーグルを取って赤い瞳を現した。
 傍らのポットから注いだ紅茶が湯気を起てる。その向こうの透明な戸に、立花が映っていた。
 大きな旋回半径で雲の合間を突き進む。
 とっくに相手を捕捉した動きだ。
 奇襲は順調に進んでいる。
 柿色の背中が眩しい。
 少し浮かび上がり、
 また頭を下げる。
 もう雲に隠れて見えない。
 ひどく羨ましい。ネオンは雲から視線を動かせなかった。
 あと二ヶ月、卒業試験までは平日に試合など許されたものではない。
 合格さえすればそれが逆転し、一日全て協会のログと練習に当てることになるのだが。
 卒業を求めたユカリ曰く。
「学校に行かなきゃいけないとしたら、大体午後三時までは潰れちゃうよね。その間のロスを埋めるには、他に二人か三人は必要なんだけど……」
 それが、見つからないのだという。
「ネオンちゃんくらい上手で一生懸命な子、滅多にいないんだもの。人に順位をつける根拠になるものだから、きちんとやる必要があるの」
 思い出すネオンの表情も自然と柔らかくなる。そこまで高く買われているのなら、必ず応えたい。
 カップには紅茶がまだ半分残っていたが、ネオンはゴーグルを付け勉強を再開した。

 夕日がまだ地平線に付かない時刻。ネオンがログの見直しをできないため、他のパイロットはすでに帰宅していた。
 学習映像の上端に、うっすらと黒い影が透けた。ネオンはすぐ耳当てに触れ、ゴーグルを解除する。
 テストフライトを済ませたワタルのレイヴンが、カフェの側に降りてきた。
 早めに来てくれたワタルに駆け寄りたかったが、ネオンは抑えて座っていた。ここで飛ばずに過ごすのが、どうにも後ろめたく感じられたのだ。
 相変わらず素早い手つきで機体を畳むと、ワタルはネオンと同じテーブルに着いた。
「順調?」
「大変です……」
「そりゃそうか、二年分を二ヶ月だもんな」
 ワタルは苦笑してコーヒーをすする。
「土日の片方少しだけでも、飛べそうか?」
「そのくらいなら、なんとか」
「腕が落ちたらまずいからな」
 揺れるカップの中身を見るともなく眺める目は、困ったような寂しいような感じがした。
「ごめんなさい」
「ん?……、ああ、気にすんなよ。あいつが勝手に決めたことだし」
 あいつとは、ユカリのことだろう。
「俺が言い出したことだったんだけど、いつの間にかあいつがみんな進めちゃっててな。全く、勝手な奴だよ」
「アメジさんと仲良いんですか?」
 そう口にした途端、ワタルの手が止まった。
 かと思うといきなりその手を大きくあおり、コーヒーを全て飲み干す。
 荒い咳ばらいを繰り返し響かせると、無言のまま席を立ち奥のカウンターに向かった。
 不機嫌、かもしれない。フリヴァーのこと以外では普段あまり機嫌を損ねないから、どうなのか分からない。
 焼き餅を妬いたように聞こえて気に入らなかったのだろうか。戻ってくるワタルの渋い眉間はそう見える。
 新しいカップを置いて座り直したワタルは、小さく咳をしてから、
「その、仕事の割り振りの都合で、この件は一緒なだけでな。だから、まあ、特別どうってことは、ないよ」
 途切れがちにそう言った。
 やや伏せ気味の視線からは何の圧力も感じられず、むしろこちらが責めているような気にさえなる。
 ネオンの何気ない問いをワタルが深読みしたのは確かだが、そこで生まれた感情は怒りなどではなかった。
 そんな風に慌てる打たれ弱い姿に、ネオンの頬が緩む。
 ネオンはそのことにはもう触れずに話を戻すことにした。ワタルが「見えない大会」を提案したということは、やはり空戦を盛り上げる理想のためということだ。
「頑張ります、私」
「あ、ああ。俺も数学とか物理とかなら教えられるし」
「あ、それなら私も免許の学科で勉強したので、なんとか……。理系のほうが得意なんですか?」
 ネオンがそう言うとワタルはまた顔を曇らせ、頭をかいた。
「いや、行かなかったんだ、学校。義務教育までしか。言ってなかったか」
「えっ……」
 これこそ下味い話題だったか。
 固まるネオンの顔を見てワタルが口の端を歪める。
「別に、行「け」なかったんじゃねえから。フリヴァーのことに打ち込みたかったんだよ。お前が卒業しなきゃいけないのと一緒で」
「あ、そっ、そうですよね。ごめんなさい、なんだか勝手に勘違いしちゃって」
 そうやって謝るのもますます悪い気がしたが、ワタルの表情は穏やかだった。
「もう外暗いな」
 ワタルが席を立つ。

 雲の混じった夕闇に、光るレイヴンの翼端が浮かぶ。その向こうに見えるタワーでは、標識灯が輝き中の明かりも漏れる。
 それらを見つめながら真っ直ぐ飛ぶネオンの頭の中、先程の会話が反芻された。
 いつになく踏み込んだことを聞いてしまった。
 これは今日だけではなく、ワタルが考えたことを実行する役目になるなら、他にもワタルについて知ることになるだろう。ワタルの方も、ネオンの家のことなどは知らない。
 これからは、知りたいし、知ってくれたらいいと思う。
 あの約束のことに重ねてそんなことまで願うのは欲張りだろうか。
 気付けばタワーの光がかなり大きく、着陸を誘導される寸前だった。
 ワタルの翼端が揺れ、光の弧ができる。
 ネオンも翼を振って別れの挨拶を返し、二人別々の階に降りていった。

 短縮カリキュラム最初の試験は、合格ラインぎりぎりだった。
 たった三日でまた試験、週が明けたらまた次の試験。
 元々の年に五回程度でも、一回毎の間隔は短く感じ、試験勉強は自由な放課後を奪う煩わしいものだ。
 簡略化してもらえるとはいえ、それが週に二回。
 面倒に思う余地もない。もはや卒業試験に向けた確認の小テストに過ぎなくなる。
 四回もこなす頃には、上手い切り抜け方も分かってくる。
 五回目、ついに最初の満点を一つ出した。

 ワタルとの試合は週に一回。
 ログのまとめも怠らなかった。最後の一回、卒業試験直前のものを除いて。
 操縦とまとめ、どちらの腕も落ちていない。ワタルはそう太鼓判を押してくれた。
 気がねなく勉強に打ち込めるようにそう言ったのかもしれなかったが、一人でも素早くまとめができたのは確かだった。

 ゴーグルの内側。澄んだ空の中。
 雑音のない二つの世界を行き来する。
 卒業試験間近の頃を後から思い出そうとしても、ただ一日が、一週間が、瞬く間に過ぎたという記憶しか残っていなかった。

 エレベーターから降りると、商業フロアの広場には桜が咲き始めていた。この日ネオンの着るややフォーマルなドレスとよく似た色。
 頬はもっと強く紅潮し、口許には若干ぎこちない微笑が浮かぶ。待ち合わせの時間二分前。
 駅の中から、二人は間もなく現れた。
 いつもの黒い飛行服、いつもの深緑のコートと帽子。もう呆れるにも当たらない。
 だが、日下氏の手には花束が抱えられていた。
「無事合格おめでとう、カブラギさん」
「おめでとう」
「ありがとうございます!」
 日下氏は花束をすぐに渡さず、ワタルに向き直った。
「ほら、これは君が渡したまえ」
「え?」
「いいから」
 のけぞるワタルに日下氏はあくまで花束を突き付ける。
 ネオンのほうをちらりと見てから、仕方なく、という感じを落とした肩から漂わせ、ワタルは花束を受け取ってネオンの前に立った。
 黒い飛行服の胸に花束をささげ持ち、背筋は妙にきっちりと伸ばしている。
 その姿がネオンに連想させたのは、蝶ネクタイを付けさせられて面食らう烏だった。
 つい、軽く吹き出してしまう。
「なんだよ」
「いえ……」
 改めてネオンも、背筋を正して両手を前に揃えた。
 しかめっ面のままのワタルが差し出す花束を両手に乗せる。思ったより大きく、顎がつかえるほどだった。
 深々と頭を下げ、花束から顔を上げる。
 すると、ワタルの表情は一変していた。
 目を丸く見開いて眉根を寄せ、口は何か漏れ出しそうに開いている。
 頭をかすめる視線を辿る。高々と手を振る人影が一つ。
 白いブラウスにロングスカート、その上にはコートを羽織り、さらに上に長い髪が波打つ。
「ネオンちゃーん!おめでとーっ!」
 満面の笑みを浮かべながら、ユカリが歩いてきていた。
「アメジさん!?」
「さて、これで皆様お揃いのようだ」
 日下氏の帽子の鍔から、一際釣り上がった口角が白い歯を見せた。
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