デニムスカイ第二十九話
「Expecting Rivers -Party-」
「それにしても無茶なお願いしちゃってたよね、本当にごめんね」
「あ、いえ」
「この二ヶ月飛ぶ暇もなかったんじゃない?」
「まあ、週一回は飛べました」
「そっか、腕が落ちたりしてないかしら?ログのほうは問題ないって分かるけど」
「それは、大丈夫です。ヒムカイさんにも見てもらってましたし」
「なら安心ね。あ、それとね――」
 ほぼ後ろを向いて話しかけてきながら、ユカリは当たり前のように曲がるべき角を曲がって進む。
 巣篭亭への道のりは複雑に入り組んでいるのに、黙って先を行くワタルと日下氏の案内がいらないらしい。ついて行く必要があるのはネオンだけだった。
 最後の小道、幅一人分の隙間を抜けて、赤銅の風見鶏が現れる。
 恐ろしく凝ったアンティークの塊である巣篭亭の店構えにも、ユカリは何の驚きも見せなかった。
「ネオンちゃんはもう来たことあるんだ?」
 逆に、こんなことを聞かれてしまう。
「あ、はい。その、ヒムカイさんが」
「ふーん……、二人だけで?いいわね。ねっ」
 ユカリは猫を思わせるにやつきでワタルの反応を求める。が、返事はなかった。
 日下氏が小さな扉を開け、真鍮のベルが揺れて鳴る。前と同じエプロンドレス姿の小柄なウェイトレスが、頭を深々と下げて出迎えた。
「日下様、アメジ様、ヒムカイ様、カブラギ様。お待ちしておりました」
「久しぶりー」
「はい、お久しぶりです」
 店員との挨拶も自然。ユカリがここに慣れているのはもう明らかだ。
 飛行服だけのワタルを抜かし、店員は日下氏とユカリのコートを預かる。その時点で手の上から肩まで届いていたのでネオンは躊躇したが、結局花束も乗せて顔まで隠れてしまった。
「お祝い用の特別メニューをご用意いたしましたので、すぐお出しできまふ」
 芯が通っているはずの声が若干もふもふした。

 前に来たときより大きな部屋、ネオンは日下氏に促されながら一番上座に着いた。そちらから見てワタルは右でユカリは左、向かいに日下氏。
「そうだ、日下さんレイヴンの次ののことも聞かせてくれるんでしょ?」
「おや、商売敵の飼い猫さんを潜り込ませてしまったかな」
「えぇ!?そんなんじゃないですよー、純粋に興味本意!」
 ユカリに話しかけられて日下氏も軽い調子で受ける。日下氏が隠れ家と言っていたこの店に呼んだこともあり、二人が元から親しいのが分かった。
 ワタルはといえば、店に入る前と大差なく、黙って頬杖をつき視線をテーブルに落としている。
 ネオンにとってはユカリが来てくれたのは喜ぶべきことだ。しかしもしかして、ワタルはユカリをあまり良く思っていないのだろうか。
 ワタルが顔を上げた。
「仕事、いつから?」
「えっ、と、四月です。その前にも少しだけ色々あるんですけど」
「週末は?」
「週末は、もう大丈夫です。一日中飛べます」
「よかった。なんか逆みたいだな」
 ワタルがくしゃりと顔を歪める。
「え?」
「お前の仕事の予定を俺が聞くなんてさ」
「あっ……、本当ですね」
 レイヴンや現在手掛ける新機種の開発で、ワタルのほうが来られないことが多かったものだ。立場が逆になってしまったようなのが可笑しくて、二人でくすくすと笑い合う。
 と、ワタルが顔を反らす。
 ユカリと日下氏はいつの間にか話を止め、二人を見つめていた。目元と口の端が怪しげに歪む。
「だから何だよ……」
「いやあ、若いお二人が本当に仲睦まじくて目出度いなと」
 そこで店員がワゴンを押して入り、ワタルの非難も阻まれざるを得なかった。
 ったく、と小さくつぶやくワタルだったが、声音はそれほど刺々しくない。とりあえず、ワタルがようやく普段どおりに話してくれたのでネオンも落ち着いた気持ちを取り戻せた。
 ネオンの前にはノンアルコールカクテルのグラスが置かれ、三人のグラスにはシャンパンが注がれる。
 日下氏が立ち上がり、乾杯の前の挨拶を始めた。
「この二ヶ月の間本日を迎えるまで、カブラギさんが飛ぶ時間も惜しんで試験対策に粉骨してきたことは、ヒムカイ君がよくご存じだろうね。とにかくこれで彼女は、フリヴァーの世界を与えられる者から、私やお集まりのお二人と同じ、フリヴァーの世界をより強く動かす者への仲間入りを果たすことになる。彼女の努力に対するねぎらいと、新たな同志の歓迎の意を込めて、乾杯」
「乾杯!」
 クリスタルガラスがぶつかり合い、高く心地良い音を立てる。
 次々と出される料理は特別メニューというだけに、どれも厳選した素材の味わいが活きていた。鳥肉料理専門店とあって揚げ物もサラダに入っているハムも肉は全て鳥の肉だが、鳥の種類によってこれほど異なるのかとネオンの舌を驚かせた。
 ユカリは酒気に顔を赤らめ、笑顔でフォークを進めている。
 その横顔を見て、ふと気になったこと。
「飛んできたんじゃないんですか?お酒飲んじゃったら」
「このくらい大丈夫よぉ、私の腕なら」
「いや機体が作動しねえだろ……」
 ワタルが口を挟んだ。
「うん、だからホントに大丈夫か確かめらんないの。メーカーの人に頼んだらテストさせてくれないかな」
「あんまわがまま言って困らすなよ、っつーかテストパイロットとしてまずいだろ」
「なに、「安全意識と良識を守って他のパイロットの模範となり」ってやつぅ?相変わらず硬いわねえ」
 どちらが先輩か分からなくなる会話を繰り広げる二人。
 そんな風ではあるが、道中にあった気がした壁をワタルは張っていなかった。
「ねえネオンちゃん、この子いっつもこんな調子なのよぉ。もっと肩の力を抜くようにネオンちゃんからも言ってくれないかしら」
「こいつがいい加減すぎるだけだよ。こいつにこそなんか下味いことがあったらちゃんと言ってやんないと駄目だぞ」
 ユカリのとろりとした瞳と、困惑と呆れの混ざったワタルの目つき。二人のテストパイロットが左右からこちらを見つめ、その奥で日下氏が静かに笑っている。
「じゃあ、お二人ともお互いを見習ったらいいと思います」
 言った途端に日下氏とユカリが笑い声を上げた。ワタルは眉間を沈め、グラスを引きつった口に運ぶ。
「ねえねえワタル君、ネオンちゃんが私を見習えってよ?ちゃんと私を見習わないとダメなのよぉ?」
「分かった分かった、お前もだよ酔っ払い」
 こんなやり取りをするワタルは本当に珍しいと感じる。不仲なのではないかという最初に抱いた疑いはすっかり晴れ、今はこの二人に揃って祝ってもらえて良かったと一点の曇りもなく思えた。
「本日のメインディッシュ、合鴨のローストをお持ちしました」
 脂の焼けた香りをほのかに漂わせながら、店員が丸々とした鴨の乗ったワゴンを押して入ってきた。ユカリはそれを拍手で迎える。ワタルも今は穏やかな微笑みを見せていた。

「っとと」
「つまずくなよ?」
「作動しても飛べなさそうですね……」
「んふふ」
 エレベーターの駅の前、ユカリの目尻はすっかり下がり、耐えず含み笑いを漏らしていた。
 畳まれた菫色のシルフィードはもはや用を成さず、杖の代わりにされている。
「チューブ(※タワーを繋ぐ鉄道に似た交通機関)で帰るから」
「では地上階までは私が送ろう」
 日下氏が言った途端、一瞬だけ見えた。
 ユカリの目つきが元に戻った。
 酔いが急に醒めたのかとネオンは訝ったが、
「ネオンちゃん持って帰っていい?」
 直後に否定された。
「……はい?」
「だってネオンちゃんすっごい可愛くていい子なんだもん」
 ユカリが一歩前にせり出す。半開きの瞼から覗く眼光は妙に鋭く、冗談だとは信じていても体が竦んだ。
「あ、あの」
「うふふ、怖がらないで」
 ユカリの右手が頬に触れそうになったとき、後ろから強く手を引かれた。
「あーほらネオン、もう上に行くエレベーター来るから、なっ」
「ワタル君の意地悪ーっ」
 緩い罵声を浴びながらワタルは駅の中に進んでいく。
「ありがとうございましたー!」
 言い残して、そのままワタルの後について歩いた。
 動悸が強いのはユカリに迫られたせいだけではないようだ。ワタルの指の骨が感触で分かる。思えば手を握ったことはあっても、手を繋いで歩くのは初めてだった。
「まあ、あいつも酔ってなきゃまともだと思うから。後で言っておくけどさ」
 仕事のことで不安にさせまいと言ってくれている。
「でも何かあったらさ、」
「頼りにしてます」
 手を握り直して向かい合わせた。
「ん、うん」
 ワタルは振り向かず、もう片方の手で頭をかく。
 エレベーターが来るまで数分待った。

 淡い橙の街灯に照らされ、コートを着た二人が取り残されていた。
 ユカリの頬がまだ染まっているかは薄明かりの下で判然としないが、背筋は先程までと異なり揺れることなく真っ直ぐ保たれている。
「さて、弱ったな」
「どうなさったの?」
「酩酊した貴女のお相手はヒムカイ君のほうが慣れていると思ったのだがね、見事に追い返されてしまったよ」
「あら、大の男二人で酔った女をどうしようとしていたんですか?」
 ユカリの口元に浮かぶ笑みには力が無く、愉快さの表れではなくなっていた。
「それはこんな気持ちの良い夜だもの、ご一緒する女性の胸の内を聞き出したくもなるさ」
 日下氏は改めてユカリに向き直る。
「貴女は、カブラギさんをヒムカイ君と同じにしようとしている。相違ないかな?」
 ユカリの背に立つ桜が、タワー外から吹き込む夜風に揺れた。
「ええ……。気付いてしまいますよね。あの子は嫌がるでしょうけど」
「きっとね。しかし、彼は止めるに止められない。それを望んでもいるから」
「そうです、あの子はずっと一人ぼっちだった。そうしてしまったのも、私ですから」
「ふむ。そんな風に背負い込むことももう……、おや、そろそろ二次会もお開きの時間だ」
 そう言って日下氏は踵を返し、エレベーターの駅に入っていった。ユカリもそれに続く。
「ネオンちゃんにはやる気を勝手に利用するようで申し訳ないです」
「それは心配ご無用じゃないかな。彼女はヒムカイ君に近付きたい一心でやっているようだし。それにね」
 地上階行きのエレベーターが到着し、日下氏の目の前で扉が開いた。
「雇い主とはおよそそういったものさ」
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