デニムスカイ第二十七話
「My Favorite Things -Witch-」
「す、すみませんっ。遅くなってしまったみたいで」
「いいえ?時間ぴったりじゃない。私こそ、天気が良くってつい。わざわざ呼び出しておいてごめんなさいね」
髪を柔らかく揺らしながら、菫色の飛行服を着た女性が立ち上がる。
脚はすらりと長く伸び、背丈はネオンより頭一つ分高くワタルと変わらなかった。
「鏑木ネオンさんよね?」
「はい」
「私はテストパイロットで、えっと、教育係?みたいなものの、雨路紫(あめじ・ゆかり)。よろしくね」
差し出された手を取りながらネオンは思う。
知っていれば体の色で分かるとはいえ、彼女はネオンの名前を真っ先に出した。他の参加者が頭にないかのように。
「他の方は……」
「他?」
一瞬だけ呆け顔になる。
「ああ、今頃オンラインでつまんない方の説明会を受けてるんじゃないかな」
説明会は、二種類あるのか。しかもこちらに参加するのはネオン一人。
目を白黒させて問いに詰まるネオンの前で、ユカリは立てた指を唇に当てて微笑む。
「あなただけに特別なお話。なーんて、今時詐欺でも言わないわよね」
「特別、って」
「協会で進めようとしてることを手伝ってほしくて……。小松田君、やっぱりあなたに敵わなかったね」
ユカリは塔の外、先程ネオンが試合した草原を見下ろした。
「小松田さんは、雨路さんに頼まれたって」
「ええ、あなたの試合を見ておきたかったの。あの出黒沢っていう子にも勝ったんでしょ?立川の」
出黒沢より年上のようだ。
「何発撃たれてもかわしきって。でも、あなたが立川の曲技大会に出たとしたら、どう?」
曲技のレベルの高さを思い起こし、ネオンは首を激しく振る。
「きっと最下位です」
「ふふ、そうかもね。不公平だと思わない?あなたが活躍できるはずの空戦の大会自体、開かれてないの。曲技は盛んに大会が開かれてるのに、空戦の大会は全く前例がないの。そのせいで協会でも空戦の扱いがまだ低いんだけど、どうしてだと思う?」
「えっと……」
立川の大会にエキシビジョンの試合はあったが、ショーとして見せるための、ワタルの言う「芝居」だった。そのことから考えると、
「打ち合わせ無しで試合をしても、見せられるものになるとは限らないから。ですか?」
「正解。不意討ちであっという間に決まっちゃうかもしれないし、お互いに相手が疲れるのを延々待ち続けるかもしれない。ワタル君、いえ……、あなたの先生、とあなたが立川でしたみたいにね」
急にワタルの名を親しげに呼んだ。どきりとさせられたが、テストパイロットならワタルと面識があってもおかしくはないだろう。
「大会を開いても予定の時間で試合が全部終わらないかもしれない。お客さんも困っちゃうね。でもね……、」
ユカリはゆっくりと振り向きながら間を置いた。
逆光を背負って、その笑みが一段凛々しいものになる。
「開けるわよ、空戦の大会。「見えない大会」だけどね」
「見えない……、大会?」
「大会と言っても、観客もいないしお店も出ない、大会の期間も決まってない、曲技の大会とは全然違うものになるわ。開く方法はね、」
ユカリの右手の上に、ログが一つ浮かぶ。
「皆がいつもどおり試合してできたログを、主催者が管理して順位をつけるだけ。今までも多少はやってたことをちゃんとまとめるだけで、日本中いつでも皆が競い続けるようにできるの。これで空戦もちゃんとした競技として認められるわ」
表示されたログには見覚えがあった。たくさんの赤い弾道に対し青い弾道は一束。
ネオン自身がまとめた、ネオンと出黒沢のものである。
「その管理を、私が?」
「あなたのログ、とっても分かりやすくてよくまとまってるから。他の人より大変な仕事になると思うけど、たくさんログを見る分上達にもなると思う。どうかな?」
確かに、ネオンを躊躇させるのに充分なほど大きな仕事に違いない。しかしそれだからこそ、ネオンを強く押し上げてくれそうでもあった。
それに「見えない大会」こそ、ワタルが以前語った空戦を盛り上げるという理想を実現する道ではないか。
「そのお仕事のこと、詳しく聞かせてください」
「うん。でもその話はちょっと長くなるから、その前に」
ユカリは窓から離れ、塔の中を見下ろす。
「ちゃんと展示も見てきてくれたのよね。どれが一番気に入った?」
塔の下からは影の群れに見えていた飛行機達が、今度は色鮮やかな背中を向けている。
ネオンにとって機械には元々それほど興味はなかったから、最初の方にあった展示物には特に感じ入るところはなかった。後の方に進むに従って展示の雰囲気に取り込まれ、また機体に見慣れたフリヴァーの面影が増すのが分かることで惹かれていったのである。
その末に出会ったもの、すぐそこにある青緑のシルフィードをネオンは指差した。
「いつも見てるはずなんですけど、これが一番……」
すると、元々緩やかに微笑んでいたユカリの口元が、より大きな笑みにゆがめられた。
「ふふふ、照れちゃうな。実はこれね、」
テストフライトの際の映像が、翼の下に現れる。
着陸したシルフィードのパイロットは頭をヘルメット部分から抜き出し、飛行服の襟についたフードで小さくまとめていた髪をほどいた。
波打ちながら腰まで届く、淡い色の髪。
「私が作ったの」
二人揃って博物館を出ると、太陽はとっくに天頂を過ぎて傾き始めていた。
駐機所は出入口のすぐ脇にある。
「まだ時間平気?一勝負付き合ってほしいんだけど」
「はっ、はい。大丈夫です」
ネオンがとっさに答えるとユカリは胸を撫で下ろした。
「よかった。小松田君に一人占めされちゃ嫌だもん」
ワタル以外のテストパイロットとの、初めての試合。
テストパイロットの中でもワタルの強さは別格だと、日下氏は言っていた。しかし他のテストパイロットにも相応の実力があるのは確かだろう。増して相手はあのシルフィードの開発に加わったパイロットである。
いつも以上に相手の機種や戦法を考えて弱点を突くべきだが、それすら今回は厳しいらしい。
三つに分かれた翼端を上に向ける菫色のシルフィードを、ユカリは手に取った。
右に跳ねる。
背後で真似られる。
ネオンの背筋に悪寒が走る。
これで三度目、全く同時に動いてきた。
もう一度右、
すぐ左に。
引っかからない。
動じずに付いてくる。
回り切り反転落下、
やはり離れない。
運動性が一段上、タランテラ並にまで思える。
無論、そんな訳はない。全て腕と眼力のためだ。
降下で加速、
距離が開かない。
これがタランテラなら。
高速で揺れてもユカリは遅れない。
「万能の名機」、そう称えられる理由を見せつけてくる。
これ以上高度を下げられない。
逃げ手は元々使えない。
跳ねるように蛇行。
ユカリは見事になぞる。
焦りの気配。ネオンはそれを無視する。
幸い一気に攻め立てて止めを刺しには来ない。
滅多にいない手練の技を、ネオンは味わっていた。
左横転、
頭を上げ、
バレルロール。
違う。
頭に響く。
下げ舵、外へ。
脳が振り回される。
淡く霞んだ視界の中、
立て直したユカリが迫る。
続けていたら自分が腕比べに負けていた。
ユカリが踏み込んでくる。
トリガーを押す指、
見える気がした。
右に跳び退く。
弾が抜ける。
間一髪。
また次が来る。
反転、遅かった。
ブザー。
「うー……っ、楽しかったーっ!」
無邪気な声を上げながら、機体を降ろしたユカリは大きく背筋を伸ばした。
ワタルのような底が見えないほどの強さではない。一発避けたからそれは分かるが、やはり腕も判断力も抜群だ。
「最後の回避、びっくりしちゃった。また相手してね、ネオンちゃん」
「はっ、はい。私の方こそ、よろしくお願いします」
砕けた呼び方に戸惑いつつも、ネオンは本当に再び試合できることを願った。
ユカリから学び取れるものは全部学んでやるつもりだった。いずれはユカリにも勝てなければ話にならないのだから。
「ああっ!大事なこと忘れてた!」
ユカリが急に声を高くする。
「なっ、な、何ですか!?」
「ネオンちゃん、学生よね!?飛び級もしてなかった?」
「え!?はいっ」
「ああ、あの……、無理なお願いしちゃうんだけどね」
ユカリの眉が申し訳なさそうに寄せられた。
そして告げられた言葉は、いきなり浴びせられた冷や水と呼ぶ他ないものだった。
「とにかく早く卒業しちゃってほしいの。できればこの春までに」