デニムスカイ第十六話
「Heart Of The Sunrise -Extream Mode-」
一日が経ち、雨雲は調布のタワー全体を屋上まで分厚く覆い尽くしていた。管制情報は一機のフリヴァーも捉えることなく、眠ったように黙りこくっている。
その沈黙は突然破られた。
黒い翼に切り裂かれた水滴の白い群れは、表面の加速流に捕らえられて薄いベールとなる。
雲を貫いて離れていき、タワーの周囲は再び凪ぐ。
ワタルは出力と上昇率を最大に保つ。向かう先は真っ直ぐ南。
口元の酸素加吸器が働きを強める。見渡す大気の奥は澄み渡り、黒い機体を取り込もうと青黒さを増していく。
他の機種では簡単にこの高度まで辿り着くことはできない。
深く冷たい、瑠璃の海。自由に遊べるのはレイヴンのみ。
相手は正面に出迎えている。
これ見よがしに赤く煌めいて。
頭下げ。
出力不変、
翼面積減少。
最大水平速度。
溢れる推力を肩に受ける。
早く仮想弾を叩き込みたい。
鬼塚も同じ気持ちで突っ込んでくる。
色だけ違う二機が向かい合わせに引き合う。
右ロール、翼を直立。
横転の向きも同じ。
射程圏が重なり、
短く連射、
飛びのく。
腹側に。
素直に上げ舵で回った鬼塚の背後にねじ込む。
不意を突かれた鬼塚は、
反転。慌てていない。
相変わらず優秀だ。
逆旋回を続けず、
ワタルも転向。
腹を向け合い、
降下、再び加速。
離れる速さが視野を狭める。
左横転、上舵。
バレルロールの先、
鬼塚も回るのが見える。
赤い背が下瞼をなぞった。
お互いに射線を踏まず交差。
右ロール、
交差、こちらが下。
鏡写しの完全なダンス。
いかに鬼塚が空漬けになって練習に明け暮れているか、よく見ることができる。
これは有望かもしれない。
左ロール、
交差。直後、
スナップロール。
真下に逃げる。
視線はある。
ついて来るか。
鬼塚は頭を向け急降下、
深紅の翼が霧をまとってにじむ。
表面に弾かれた陽光が七色に砕ける。
性能を頼みに群がった有象無象とは違う。レイヴンがこのようにあるべき、美しさ。
右上に跳ぶ。
仮想弾が左下を通る。
真上に跳ねる。
弾は下方右寄りに。
左に倒れ、
腹を撫でられる。
その腹側に潜ると、
弾道は背筋に沿って抜ける。
射撃の腕も磨いてきたのがワタルには分かる。当たらないのは、弾を撃つ前にワタルが察知できるからだ。
スナップロール、
翼と入れ違いに弾が通る。
間合いは大分詰まっている。
すでに雲の際まで下りた。
正立すると見せかけ、
左下へループ。
雲に隠れる。
エレベーターの駅のゲートをくぐると、乳白色でまとめられたホールのがらんとした様子が目に入った。日曜の昼過ぎとあって乗客は少なく閑散としている。
それにほとんどが下層の商業フロアに降りるエレベーターを待っており、昇りのドアに向いて立つのはあと一人しかいない。
その一人も特急を避け、次の各階停止を待ってホールに残った。
半円形をしたエレベーター内、同心円状に並ぶ席には最初から空きが目立ち、昇っていくにつれさらに人影が減っていった。
人目がないほうが落ち着いていられる。
手元に写した管制情報には、たった二機しか現れていない。
二機は出会うなり磁石のように引き付け合い、長いこと楽しそうに暴れまわっている。
屋上の手前の時点で、他の乗客は一人もいなくなってしまっていた。
エレベーターを降り、柱で囲まれただけのリフトに出ると、入り込んだ雲がすでに視界を遮っている。
リフトが上がった先は白一色の水滴の世界。透けて見える物はせいぜい足元の芝生くらいしかない。
ワタルなら、こんな中からでも見つけてくれるに違いない。
もし調布に帰ってくるのなら、だが。
一秒撃つ、鬼塚は射線の右へ。
また一秒、今度は下に。
もう一秒、左上に。
先程の自分と同じように弾をかわせている鬼塚を、ワタルは苛立ちを抑えながら追う。
弾が当たらないからではない。手加減して先読みを抑え、回避の手際を見ている。
ワタルが雲に潜った途端、鬼塚の動きは鈍った。
雲から上がって奇襲をかけるのも容易く、こうして今追い回している。
隠れられたら勝ち目はない。ワタルを詳しく知る鬼塚がそう思うのも当然だが、
鬼塚でさえワタルの前には諦めてしまうのか。
やはり、望むべくもないことなのか。
一旦発射トリガーから親指を離す。
追い回すほうに意識を向ける。
鬼塚は右に引き起こして、
ワタルをせり出させる。
左バレルが来るはずだ。
翼の湾曲が変わった。
右へ跳び上がり、
赤い脇を見る。
引き起こし、
後ろに居座る。
右横転、下がって、
背後を狙うが、
鬼塚は反転。
カナードが変形する。
むしろ好都合。
横転を続け、
頭を下げると、
平行に落ちる鬼塚の背がある。
スプリットSを封じ、まだ背後にしがみつく。
よく持ちこたえてくれてはいる。
撃ち続けるのをやめて自由に逃げさせてみた甲斐はあった。
だが、こうしていてもいつかはワタルが止めをさせるようになってしまう。
もっと大きな賭けに出てみてほしい。
たとえ舵を読まれると分かっていても、最後の瞬間までは挑戦を止めないでほしい。
右に浮き上がる。
通じないと分かっているはずの、
単純なクイックロール。
容易く合わせられる。
撃たせないというだけか。
逆周りで繰り返す。
その底で、
螺旋が切れる。
背面からダイブ。
ワタルの目から隠れられることはないが、
雲の中へと落ちていく。
雲を抜けて雨の中に出る前に、勝負は付いていた。
降りようとする鬼塚が風防の端に写るが、ワタルは北に舵を取った。
「待って!」
鬼塚は降下を止めてついて来る。
「お願いだよ、戻ってきて!ワタルがいてくれないと、僕は……」
「その話は済んだだろ」
「あんなの、カブラギさんの前だから言い訳しただけだろ!?ホントの理由は」
「黙れ」
鬼塚がびくりと震えたのがワタルには分かった。赤い機体に揺れが伝わらず黙って進むのが間抜けに見える。
雨の中、まともな隊列を組まない奇妙な編隊飛行は続いた。
先に、ワタルが口を開いた。
「お前、俺に勝てると思うか?」
「え……、そんなの無理だよ、今だって全然だったのに」
「いつか、の話だよ。いつか勝てるようになるかもしれないと思った上で、俺に帰ってこいって言ってんのか?」
返答に数秒かかった。
「それは、違う。いつまで経ったってやっぱり勝てる訳ないよ」
「理由は」
「だって……、いくら上手くなっても、ワタルと同じものにならないと勝ち」
通話遮断。
追跡を止めその場に降りる鬼塚を置いて、ワタルは雲の中に入った。
調布はもうすぐそこにある。
ただ、少し寄り道をしなければならないようだ。
自宅のあるフロアの高さを越えて上がっていっても、雲の上に抜けなかった。
屋上に降りる。
まだここも白く濡れた空気に包まれ、芝生はか弱く濡れそぼっている。
機体を外して畳む間に風が出て雲が下がり始めた。
正面にはっきりとその姿が現れる。
白いワンピースを来たネオンが立っていた。