デニムスカイ第十七話
「Ballet Mecanique -Monster-」
 畳んだレイヴンを持つワタルと向かい合ったまま、ネオンは何も言えなかった。こうして目の前に降りてはくれたものの、邪魔に思われていないとも限らない。
 雲粒で濡れた白い前髪が白い額に張り付く。
 ワタルも黙ったままで、傍らのベンチに足を向けた。機体を横に立て、左側を余らせて座る。
「何してる」
 隣に座れという意味だった。
 大分ワタルとの間を開けておずおずと腰を下ろす。
 詰め直せないまま見つめたワタルの横顔は、力無く遠くを見上げている。不機嫌にふさぎ込んでいるのとも違い、穏やかで、淋しそうに見えた。
「あのっ」
 声を出し、そこで途切れてしまう。
 振り向いて見つめ返してくる、頼み込むような目。レイヴンの不採用が決まって一暴れした後、芝生に寝そべっていたとき以上に頼りなく見える。
 それでネオンも、ずっと考えていたことが口に出せた。
「もう、戻ってこないかもしれないと思いました」
「何で」
 ワタルは少しだけ口の端を緩める。杞憂に過ぎなかったのか。
 だが、昨日のワタルはあんなにも瞳をぎらつかせ、鬼塚を強く求めていた。鬼塚と何があったのだろうか。
「最初さ、お前」
 今度はワタルから話し始めた。
「俺くらい上手くなりたいって言ったろ」
「あ、あれは、その、まだ何も知らなくて」
「今は思ってないのか?」
 また、弱々しい目をする。
「いえ……、ヒムカイさんくらい、上手くなりたいです」
「よかった。そんなこと言ってくれる奴いないからさ」
 今度ははっきりと微笑んだが、やはり淋しさが消えない。
 初めて会った頃。思い返してみれば、ネオンにも嬉しいことがあった。
「ヒムカイさん、私にも最初から普通にしてくれましたよね」
「ん?」
「私、こんなだから」
 ネオンが自分の白い肌と赤い目を指差すと、
「ああ……」
 ワタルは体ごとこちらに向き直った。
「俺の目、見てみろよ」
「えっ?」
「よく見ないと分からないだろうけど」
 言われるままに覗き込んでみても、何を見せようとしているのか分からない。
「もっと近付いてみて」
 恥じらいに鼓動が早まる。一体どういうつもりかと思うがワタルの目は真剣そのものだった。
 緊張を抑え、とにかく近付いてみる。
 よく見てみてもネオンのような変わったところはない、髪や機体と同じ黒い瞳、
 ではなかった。
 夕闇によく似た、群青。
 よほどじっくり見つめないと分からないが、確かにワタルの瞳は、深く、暗く、鮮やかな青い色をしている。
「……綺麗」
 思わず口をついて出た。
 直後、ネオンは口を押さえて跳び退いた。
 母親や周りの人間はそう言って自分の外見だけを誉めそやし、中身のない人形として扱ったではないか。
 自分を追い詰めてきた母親や周りの人々と同じものが自分の中にもあるのか。ネオンは赤い目を見開き肩を震わせる。
「ごめんなさいっ、私っ、」
「どうした?」
 ワタルの顔は、穏やかなままだった。
「……いえ」
「お前のは見りゃすぐに原因は分かるだろ。俺のはさ」
 ワタルは正面に向き直る。
「医者に診せて調べても分かんなかったんだよ。そうなると親も気味悪がってな」
 ネオンの体の色は自然な現象で、親にも表面上とはいえ大切にされただけ恵まれていたのかもしれない。
 黒い髪、黒い機体、黒い飛行服。全て瞳の色も黒だと思い込ませるためなのだろう。
 ネオンの白い長袖の服、鍔の広い大きな帽子と同じ。体の色を隠すためのもの。
 しかし空の中心と同じ色をしたこの目なら、空と繋がっていてもおかしくないように思える。
「あの、ヒムカイさんが何でも見えるのも、その目が……」
「気付いてたか。何でも見えるってのはちょっと違うし、元からできたわけでもないから目と関係あるかは分かんねえな」
「どういう感じなんですか?」
「うん、まあ見えないもんは見えないよ。雲の向こうとかやたら遠くが透けて見えたりはしない。ただ、この辺にいるかなと思って見てると、見えてなくても相手の位置や動きがつかめる。見えてる相手をもっとよく見れば、翼の変形と、相手の次の動きが分かる」
 それだけ聞けば武道の達人が相手の動きを読む極意のようなものかとも思えるが、空は道場とは違う。
 距離と速度と現象のスケールが、人体の尺度を超えている。
「そんな風にして、空中の様子は全部分かっちまうな」
「ヒムカイさんの他に、それができる人って」
「いないらしい。俺一人だ」
 ワタルは遠い目をする。
「同じもんにならないと、勝てない……、化けモンかもな」
 ネオンに向けてでもなく、か細くつぶやく。
「横浜の連中、皆いい奴で、俺を好いてくれてるけど、諦めてるんだよ。俺に絶対敵わないって。だから……、見捨てて、置いてきた」
 レイヴンを使った鬼塚でさえ善戦すらできなかった。
 一人飛び抜けて優位に立てることが、かえってワタルを孤独に追いやっている。
 一旦俯いたワタルは急に顔を上げて立った。
「悪かった。帰るか」
 ネオンを振り返らずに、右手にレイヴンを曳いて歩き出す。
「あ、あのっ」
 ワタルは立ち止まらない。
「ヒムカイさんがどんなだったとしても、私、ヒムカイさんのこと」
 立ち上がって追うが、その先を続けられない。
 何と言おうとしたのか、それだけでは駄目だという話をしたばかりだというのに。
 ワタルの望みは分かりきっていて、それは自分の望みでもある。実現するかどうかなどこの際問題ではない。
 しかし、弾が込めてあってもまともな飛び方では当てることはできない。
 もたもたしているとまた雲が湧いてきてワタルを隠しそうな気がする。
 間合いに踏み込まなければ。
 回避不能にしてしまわなければ。
 鬼塚からの入れ知恵なのが悔しいが、
 口から出るはずのなかった三文字を叫んだ。

「ワタル!」

 振り返ったワタルの、
 左手はがら空きだ。
 小指を突き出し、
 ワタルの指へ。
 からめ取り、
 胸まで上げて、
 一気に撃ち抜く。
「私っ、鬼塚さんより強くなりますから!ヒムカイさんと同じくらい強く、絶対なりますから、待っててください!」

 雲は退いてきたのに、ワタルの顔はぼんやりとにじんでいた。数回瞬きすると、頬を緩めつつも両眉を上げて見つめ返してくるワタルがはっきり見えた。
 やがてワタルは、今や半ば廃れた仕草で掴まれた小指に視線を落とした。
「この指は?」
「昔のおまじないです。小指をからめて交わした約束を破った人は、喉も破れちゃうんですよ」
 そう言うなり、ワタルは大口を開けて笑い出した。
「勝手に約束しておいて、破ったら血い吐いて死ね、か!」
「あっ、ごめんなさい!その、そういうつもりじゃ」
 慌てて小指を離したが、
「いいよ!」
 ワタルの指が素早く掴み返した。
「そういうの待ってたんだよ。お前はいつか俺に勝つから、俺はそれまで他の奴には負けない。待ってろってのは、そういうことだよな?」
 ワタルの笑顔から、もはや淋しさは消え失せた。
 目は昨日のように吊り上がり輝いているが、もう嫌な感じはしない。
「はいっ、絶対約束です!」
 改めて、ワタルの骨ばった小指をぐっと握り込んだ。
 一息ついて、目元の力みを解いたワタルが問う。
「さっき初めて呼び捨てしてくれたよな?」
「あっ、その……、も、もう二度としませんから」
「そうか?」
 指をからめたままだったが、ネオンの中では、これは約束ではないということになった。
 タワーの屋上は雲の上からすっかり顔を出し、傾きかけた陽が雲海を金色に染めていた。濃紺の夕空がその上に重なり、果てしなく広がっている。

 家で待っていたのは、いつも通りの寒々とした光景。殺風景な居間で、疲れた顔をした父親が茶をすすっている。
 その向こうには、父親以外出入りすることのない、母親の部屋の扉がある。
 しかしそれも今日までだ。
「お父さん……、お母さんに会っても、いいよね?」
「あ、ああ。そうか、今日か」
 靴を左手に用意し、扉の端に右手を当てる。ネオンを拒むことなく、すっと右に動き出した。
 中は全くの暗闇。だが、それがこの部屋で待つものなのではない。
 靴を履いて中に踏み込む。
 背後で扉が閉まり、三秒。
 暗闇は一面の草原に入れ代わった。
 元からそうだったような振りをして広がっているこれは、単純な立体映像ではなかった。そよ風が頬を撫で、草の葉が足を受け止め、陽光が背を暖める。
 今立っているところは緩やかな丘の麓に当たり、草の背丈は一様に足首ほどに揃っている。
 向こうに見える丘の頂上には、どっしりとした広葉樹と小さな小屋。
 中に何があるのかは聞いている。
 それを打ち砕いておかなければ前には進めない
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