デニムスカイ第十五話
「VROOOM VROOOM -Credit:0-」
翌日の夜。雨天で練習ができなかったが、殺風景な部屋の中心にはログの画像が浮かぶ。
飛行経路の周囲を、これ以上ないほど多くの解説が整然と取り囲んでいた。五時間に渡ってネオンに見つめられ、つつき回されてきた結果である。
黒い曲線はワタルの軌跡。対する黄色の曲線はプロの曲技チームのリーダーだ。二年前の今頃、横浜での試合。
脇には、ワタルが行った試合の検索結果が浮かぶ。時系列順に並べ、日付と場所を集計してある。
鬼塚の物に限らなくともやはり横浜にいた頃のものが圧倒的に多く、調布に来てからは試合するペースが数分の一に落ちていることが分かった。
それは仕事が始まったからだとはいえ、たくさん試合ができた横浜を懐かしく思っているだろうか。
飛行場もかなり活気付いてきた今、調布を盛り上げるというワタルが留まる理由の一つが薄らいではいないだろうか。
しかし本人に聞こうにも、なんと切り出せばいいのか。「ヒムカイさんの昔のログを検索して集計してみました、横浜にいた頃の方がいっぱい試合して楽しそうでしたね、今はどうですか」では、こそこそ嗅ぎ回っていると言ったも同然である。
目の前のログはいつの間にやら、自分の上手くいった試合よりずっと手がかかっていた。そのことに気付いた頃。
アラームとともにサインが点る。
鬼塚からの通話の着信だった。
「カブラギさん、夜遅くにごめんね」
「いえ。どうしたんですか?」
「君に頼みたいことがあってさ」
立体映像の鬼塚は姿勢を正してネオンに向き合った。
「四回も試合できたけど、全部僕が押しかけたり練習だったりだっただろ。改めて、正式に手合わせしたいんだ。どうかな」
鬼塚の声は低く、力がこもっている。ネオンには受けるべきかどうかなど判断する余地もなかった。
「は、はい。それじゃあ、やりましょうか」
「よかった、ありがとう!じゃあ土曜の二時、そっちに向かうんでいいかな?」
「大丈夫です」
「ホントに本気でいくから、覚悟しててよ!それじゃ、おやすみっ」
明るくなった声で一方的に通話が終わった。
その直後ようやく狼狽が顔を出した。
何日も前から日時まで決めて試合を申し込むことはなかなかない。鬼塚は交流でも練習でもなく、あくまで真剣な勝負を望んでいる。
レイヴン使いを一人倒したとはいえそれは簡単に騙されてくれたからであり、まだ鬼塚に対して勝ち目は無いのは分かっている。
それに、横浜の鬼塚と調布の自分が全力で戦ってついた勝敗を、ワタルはどう捉えるだろうか。
泥沼の不安。
そこから脚を抜き出せたのは、「負けも財産」という日下氏の言葉のためだった。負けたからといってワタルも横浜に帰ろうと思ったりしないだろう。
もう充分まとまったログを消し、鬼塚のログ一覧を表示する。せめて精一杯迎え撃つことだけはしたかった。
レイヴンの販売機数は、かつて市販が始まった頃のE型センチネルを遥かに凌ぐ勢いで増加していた。
E型センチネルとは異なり航空警察隊に採用されることはなかったとはいえ、選考会が高く評価したことでその圧倒的な性能が広く知られたためである。
先日現れた小松田の率いるカラミティーズのように早速レイヴンを採用する曲技チームも見られ、高い価格を乗り越えて購入するパイロットは多い。
この日現れた相手もその一人だった。
横目で相手を見上げる。
雲の縁から覗く影。
飛び込んでくる。
横転降下。
雲の中へ。
視界は白一色。
相手の位置を予測、
タイミングを合わせて上がる。
ワタルほどの察知能力はいらない。
晴れた視界の中心、
相手の後ろ姿。
連射。
身を隠せる曇天の上、試合に入ったのは相手がこちらに見えてからだった。間合いを詰めやすい好条件が揃えば、パワーに頼る相手には楽に対処できる。
遠く飛行場の縁の工房から、その試合を二人が観戦していた。ワタルは肉眼で、日下氏は管制を通して。
「売れ足いいみたいだな」
「それはそうさ、何と言ってもあの空警隊から宣伝にご協力いただけたのだからね」
ワタルが振り向くと、白い歯が三日月形に覗いている。
「類い稀なる性能を持ちながら、それがために採用を拒まれた悲運の名機「レイヴン」。選考会の皆様は見事にデビューを彩ってくれたじゃないか」
「最初からそのつもりで作ってたのか……」
「君にしては勘が鈍い」
苦味を眉間に溜め、ワタルは次のフライトのために改造レイヴンの点検を始めた。手を動かしながら口も開く。
「でもいいのかよ、地元でああやってネオン、シルフィードに倒されてて」
「まあ、いつまでも同じ風は吹かないさ。あの子にはお気の毒だけれどね」
日下氏は一瞬、雲に閉ざされた南の空に目を向けた。
「次のが済んだら今日は上がっていいよ。早めに会いに行ってあげなさい」
「え?ああ。どうせログ目当てだろ。すぐ送るよ」
「今度はいい勘だ」
胸を反らして笑う日下氏をよそにワタルは準備を進めた。
レイヴンから勝利を奪い、久しぶりにワタルと直接一緒にまとめたログを持ち帰る。
ネオンは発着口に着地すると、リズミカルに芝生を鳴らして居住フロアの道を進んだ。鼻歌が漏れていてもおかしくないくらいだ。
いつもより元気に玄関をくぐる。
ネオンの気分は、居間のテーブルに着いた父親の姿に鎮められた。
肘を付いて手を組み、目線は伏せている。そうしてネオンを待っていたようだ。
「お帰り」
「ただいま。お母さんは、寝てるの?」
「うん。その、お母さんのことなんだけど」
父親は手を下ろし、顔を上げてネオンを見つめた。ネオンも椅子を引きテーブルに着く。
「難しい状況で……、ちょっと、そろそろネオンにも知っておいてほしいんだ」
ほとんど何もない静かな居間、自分が唾を飲む音が大きく聞こえた。この家がこんな風に毎日沈黙に包まれているのは、自分が原因だ。
「分かった……、聞きたい」
父親は小さくうなずき、手元の茶を一口飲む。
「お母さんな、」
試合当日。
タワー内から続くエレベーターは、のっぺりとした円盤状のリフトが細い柱に囲まれているだけで何もない空間に止まった。二層になった屋上の下層、本当の屋上に保護されたタワー本体の端面である。
上層にリフトで上がると、外壁と同じく人工土壌と芝生で覆われている。
頭上はこの高さにしては珍しいことにひどく白みががり、下の方も、縁の方まで進んで見渡すと起伏多い雲が一面に広がっていた。
機体を背負ってヘルメット部分に頭を収め、風防に映る機体の状態と周囲の状況を、一呼吸ずつゆっくりと確認。
天気以外に問題はない。南に向かい操縦把を握り込んだとき、
背後でリフトの音。
芝生に空いた穴から現れたのは、黒い飛行服のワタル。
声をかけようと振り返ったネオンを凍りつかせた。
目はネオンを過ぎて真っ直ぐ南を睨み、鋭くぎらぎらと吊り上がり、口元は、怒りとも愉悦ともつかない笑みに歪む。
あの恐るべき索敵能力で鬼塚を察知し、鬼塚に起こった何か大きな変異を捉えたに違いない。
目の前のネオンを意に介さないほどワタルが惹きつけられるそれが何なのか、想像するのはたやすい。
ワタルはこちらに近付きながら表情を落ち着かせ、ネオンのそばで深く息をついた。
「行ってこい」
「……はい」
白い大気に踏み出していく。
頬を切る秋風は冷たい。
それよりも自分を送り出したワタルの声のほうが、ネオンの胸に冷たく刺さっていた。
ワタルは自分ではなくもっと強い相手を望んでいる。
鬼塚がそれであることをこれから確かめさせられるのだ。
負けてもいいと思っていた自分と、勝てる理由がない自分を消し去りたい。
重い鼓動が雲の洞に響く。
雲の下に流れているはずの多摩川を通り過ぎようかという頃。
赤い針が頭上の雲を破った。
細い翼。締まった胴体。
真っ赤なレイヴン。
急激に膨らむ。
頭下げ、
フルダイブ。
鬼塚の下方へ。
脳が引張られる。
安全限界に達する。
ダイブで敵うはずはない。
鬼塚が背後で反転。
食いついてくる。
雲は目の前。
右横転頭上げ。
雲の谷間に潜る。
背後に赤い影が覗く。
旋回では優っていても、
鬼塚は外側に跳ねる。
付き合ってこない。
裏返って追うが、
そこにいない。
右側後上方。
「戻ったりすることは絶対ない」
いつか聞いたワタルの声がかすめ、
ブザーにかき消された。