デニムスカイ第一話
「Roundabout -tutorial-」
 馬が飼い馴らされて以来、人類は移動のための道具を手に入れると、それを操る技を磨くことに挑戦してきた。
 カヌーで滝壷に飛び込む者、人力で得られる速度を極める者、四輪駆動車で荒野を駆ける者。新しい移動手段が現れると、やがてその腕を競う場も生まれた。
 二十二世紀初頭に普及した「フリヴァー」と呼ばれる個人用の飛行装置も、その例外ではない。
 東京、調布。地平線まで緑の広がる平原。
 少女が一人、この町のほぼ全てを内包する巨大なタワーの頂上に立っていた。
 透けるガラスのような白い肌、白金に輝く肩までの髪。不安げな瞼が被さる瞳は深い血潮の赤。
 先天的に体の色素を欠く彼女、鏑木(カブラギ)ネオンは、夕空の片隅に潜む三日月のように可憐で、繊細で、今にも消え入りそうに儚く見える。
 しかしその華奢な肢体を包むのは滑らかな飛行服であり、傍らにはフリヴァーが、高さ二メートルの細長いつぼみのように畳まれた状態で立っていた。飛行服と機体のどちらも、ネオンにぴったりの純白。
 彼女もまた、連綿と続く荒々しい挑戦の歴史に加わる一人なのだ。
 眼前の空には彼女同様に純白の綿雲が並んで、秋色に染まりつつある大地をなでていたが、地上一キロメートル弱の発着場からの眺めをのどかに味わっている場合ではない。
 ネオンは今、戦う相手が現れるのを待ち構えているところだ。
 しばらくすると、黒い影がタワー中腹の離発着口から飛び出した。
 黒いフリヴァーはタワーから充分離れると、どんどん上を向いて昇っていき、ネオンの頭上でひっくり返った姿勢をくるりと戻して飛び去っていった。
 機体は日下(くさか)航空工房製の「レイヴン」。そしてその主はフリヴァー協会公認テストパイロットの、東風(ヒムカイ・ワタル)。
 最高のフリヴァーと、少なくともこのあたりでは最高の腕を持ったパイロットの組み合わせである。
 ネオンは飛び去るワタルを見つめ、決められていたとおり、ワタルが見えなくなるのを待った。
 それから自分のフリヴァーを、背中を覆うように装着し、ヘルメット部分にすっぽりと頭を収めて、翼を広げさせた。
 先ほどまでの縮こまった姿が嘘のような広大な翼は、先端が鳥の風切羽さながらに三つに分かれ、優美なラインを描いている。レイヴンにひけをとらない高性能を誇る、ナドウモビリティ製「シルフィード」。
 ネオンは離陸が許可されていることを確認して、前向きにがっしりと踏ん張った降着装置の中ほどにある操縦把をしっかりと握り、シルフィードの推進系を起動した。
 主翼、カナード、一対の垂直尾翼の表面で電荷の分布がめまぐるしく変化し、それにつられてイオン化された空気分子が強く後方にはね飛ばされる。分子レベルのこの働きが機体全体で起こって積み重なり、ついには機体とネオンを推し進める強力で滑らかな気流となる。
 力強い愛機に文字通り背中を押され、ネオンは前傾姿勢で数歩踏み出した。
 塔を蹴って飛び立ち、目指すはワタルの待つ飛行場上空。

 機体がほぼ水平になると降着装置は後方に向きを変え、ネオンの体側にぴったりと沿う形になった。主翼とカナードも離陸時より小さく平らになる。
 抵抗の減った機体は速度を増し、高度を上げていった。
 空戦を有利に進めるには、充分高度をとった上で、相手に見つかる前に相手を見つけることがなにより重要である。
 その定石通りに地平線をにらみながら進むネオンだったが、いくら目を凝らそうが、ワタルに見つかるより先にワタルを見つけられるなどと思ってはいなかった。
 ネオンの考えはむしろこうだった。ワタルはこちらが見つける何十秒も前からこちらに気付いているはずだ。そのことを忘れずにいておかなければ、と。
 空戦に入ると相手の情報が得られなくなるため、大昔の空戦と同じく自分の目だけが頼りである。
 ネオンはとにかくできるだけ早くワタルを見つけ出さねばならなかった。万が一見つけられないまま飛行場に着いてしまっては、探していたはずの相手から知らない間に狙い撃ち、ということになりかねない。
 焦ってはいけない。慎重に根気よく地平線を調べ続ける。
 やがて、黒い機影を発見。高度も充分優位。
 これで相手に気づかないうちに戦いが終わってしまうことはなくなった。だからといってここで安心するわけにはいかない。
 この先決着まで何があろうと、ワタルから目を離してはならない。
 豆粒のような影を凝視する。姿勢や速度、できるだけ多くの情報を先取りしたい。
 見えるのはほぼ右翼だけだ。ワタルは緩く左旋回しながら待っている。やがて右手奥に向かうだろうか。
 右翼を下げ、ワタルを追う。飛行場のカフェの影が、ネオンと同じ方向を向いている。
 このまま太陽を背に上から攻めれば、相手はひとたまりもないはずだ。ワタル以外の相手なら。
 ネオンがそんな絶好の位置を狙うことなど、ワタルは百も承知で呑気に旋回して待っていたのだ。
 ワタルの機体背面に描かれた「満月を追う烏」の紋章がネオンを誘う。
 だが、今ネオンはその誘いに乗るしかなかった。
 頭を沈め、ワタルの向かう先へ。
 最大推力でダイブ。
 ワタルの背の月が下から近づいてくる。
 その月はすぐに沈んだ。
 こちらに向くワタルの右翼端。
 やり過ごして前にせり出させる気か。
 右に跳ねる。機体の速力では劣る、逃げたら不利だろう。
 大きく外に回って、飛び出さないように。
 腹側に、翼を立ててこちらと向かい合うワタルが見える。
 充分離れたことを確認、ワタルに向かって反転。
 ワタルも、鏡合わせにネオンの方へ。
 下手な方が的になる。
 ワタルが近づく。
 撃てない。交差。
 ワタルは正確に真下を通り過ぎた。
 左右交代し、再び離れた二人。
 ワタルの位置に注視。
 接近に転じるタイミングが鍵だ。
 まだか。今か。今だ。反転。
 ワタルも同時。
 また交差。今度はネオンが下。
 さっきより自分が前寄りだった気がする。
 これは踊り続けて激しいステップを相手が間違えるまでの我慢比べだ。
 その瞬間は、今にもワタルに訪れるのではないか。
 ワタルの作った振り付けに自分が合わせているという負い目。
 振り付けを間違えて舞台から降ろされるのは自分の方ではないかという不安。
 離れて違う手を試すべきか。いや、どう動いてもきっと後ろを取られる。
 また反転。
 ワタルの影がない。
 神経が逸れていた。
 ブザー音。

 ワタルの背の模擬銃から放たれた仮想弾は、ネオンの胴体を貫く軌道を通った。
 二人はすっと機体を水平に戻し、緩やかに飛行場の草原に降り立った。
 翼が再び大きく広がって湾曲し、空気のクッションを作ってそれぞれをふわりと地表に戻した。地面に足と降着装置を着いて一、二歩で止まることができる。
 ネオンは今日もワタルに敵わなかった。それ自体は当たり前だと分かっていたが、最後のミスが気に病まれる。
 そんな気持ちが白い眉に乗った顔をヘルメット部分から現し、機体を体から外すと、ワタルが肩を軽く叩いた。
「最初のダイブ、よかったよ。普通ならあれ一発」
 短い黒髪の下の若々しい顔が微笑んでいた。ほっとしたネオンの表情も緩む。
「最後のやつは迷った?」
 気にしていたことに触れられたが、どうしたらよかったか相談できるので嫌ではない。
「はい、あれはすぐ逃げたほうがよかったですか?」
「まあ、離れるべきだったけど……、ログを見ながらゆっくり話そう。で、午後はそこだけ練習」
「はい」
「敬語やめろって」
 二人は畳んだ機体を携えて、飛行場の中心にあるカフェに歩き出した。
 フリヴァーによる模擬空中戦は、上位の免許を持ち高度な曲技飛行が許可されたフリヴァーパイロットの間で、スポーツとして普通に行われている。ワタルはネオンの師となり、こうして空戦の指導を行っていた。
 ネオンのような可憐で大人しく見える少女が、なぜこの好戦的で男じみた競技に精を出しているのか。そのきっかけは、この年の春先に遡る。
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