デニムスカイ第二話
「東風 -opening-」
 春。瑠璃色の空と、真っ白に輝く雲海。タワー上層からの眺望はきっぱりと二色に分かれていた。晴れていれば地上のあちこちに桜が見られただろう。
雲の上からは爽快な眺めと言えるが、地上からはどんよりとした曇り空しか見えないに違いない。
展望テラスに立つネオンの表情もそんな曇ったものだった。
フリヴァーも未だ持たなければ飛行服も着ていない。普通の白い長袖のワンピースに身を包み、その頃は垂らせば胸元まで届く長さだった髪を、目深にかぶった鍔広の帽子に隠していた。
色素の全くない自分の体は、できれば人に見られたくなかった。そう思う原因を作ったのは、ネオン自身の母親である。

前日の夕方。ネオンは椅子に座って、出かける前の身支度を母親に施されていた。
胸元や背中をあらわにする黒いベアトップドレス。揃いのデザインの黒いリボン。
ネオンの白い肌と髪、赤い瞳をよく引き立てるファッションは、妖精を思わせる神秘的な美しさをもたらした。
だがこれは決してネオンの好みではない。
ネオンの正面で中腰になり、ネオンの髪をすく、というより愛撫するネオンの母親は、一人遊びに没入する無邪気な子供といった表情を浮かべている。
髪をなでる手にこもっているのは正に、お気に入りの人形に対して子供が抱く愛着と誇りであった。執着と言ってもいい。普通の親の愛情と異なることは、ネオンにも日頃から感じ取られていた。
「いい子ね、綺麗よ。とっても可愛い、私のお人形さん……」
ささやく母親。今に始まったことではないからネオンにはさしたる動揺もない。
実際、ネオンは母親の着せ替え人形同然なのだ。
裕福な家庭で何不自由なく育ち、同様に裕福な夫と結婚してからも変わらず優雅な生活を続けた、世間知らずな母親。
ネオンが生まれたとき、特異な体を持つ娘の将来を案じることもなく、見た目の美しさを喜ぶばかりだった。
財にまかせてたっぷりと甘やかされ、我が儘放題の幼児期を過ごしたネオンだったが、それもネオンが母親の望みどおり、見た目に相応しい振る舞いと身なりをしていればこそ。
自分の自由が母親のおもちゃ箱の中に限られていることを知るにつれ、ネオンは立場相応に大人しく過ごすようになっていった。
ネオンのそういった姿は、母親には綺麗でおしとやかな理想の少女の姿に映った。
今出かける準備をしているのも、母親が自分の自慢の娘を相手に一方的に見せびらかすため。ネオンの父親と仕事上の取引をしている相手達との会食なので、必ずしもネオンを連れて行く必要はないのだ。
支度が済み、タワー上層の居住フロアから一家揃って予約した店のある高級商業フロアへ。一応ネオンの父親より立場が下の相手達が先に店で待っていた。
会食の間中、母親はネオンの美しさを褒め称え、相手もきっと自分に同意してネオンの姿に見ほれるだろうと期待と自信に目を輝かせていた。
「とっても綺麗でしょう。私の自慢の娘なんですよ。ね、この雪みたいな肌、ルビーみたいな目……」
そんな母親の様子に相手も同調せざるを得ず、口々にネオンの姿をたたえる言葉を発する。だが、ネオンの白い耳、赤い瞳は読み取っていた。
「え、ええ、本当に……お噂には伺っていましたけど、大変お綺麗です」
母親のいいように扱われることへの同情や憐憫。
「いや全く……、うちの娘にも分けてもらいたいくらいの綺麗さですよ」
ネオンへの奇異や好奇の念、あるいは軽い嫌悪。
「はい、もう……素晴らしいです」
ネオンに対する拒絶的な驚きと、母親に向けての呆れ。
賛美の形を示されることで満足している母親には分からないが、彼らの世辞や作り笑いの裏にあるのはこんなものだった。
全て、いつも通りのこと。黙って静かに過ごし、終わるのを待てばいい。ただその姿を晒すためだけの、人形のように。
この姿は自力で手に入れたものではない。生まれたときたまたま持っていたものだ。褒められようがけなされようが、どうだっていい。ただ、それしか触れられないことが、つらい。

その翌日。
学校の授業が終わり、いつも通り帽子を被って真っ直ぐ家に帰るところだった。この帽子は母親に見られないように家の前で脱ぐつもりだ。
周りの女の子は皆連れ立って商業フロアで楽しく放課後を過ごそうとしているが、ネオンを誘う者はいない。
小さな頃から、ネオンの外見は幼い少年少女たちには異質で受け入れがたいものに感じられ、ネオンを彼らの集まりに迎えることはためらわれた。
母親がそばにいようといまいと、結局誰もがネオンを腫れ物に触れるように扱う。
しかしこの日、その不文律を破ってネオンに声をかける少年がいた。
「カブラギさんっ、その……、話したいことが、あるんだけど」
ネオンに珍しい、年齢に見合った出来事。
緊張気味の彼に少し離れた公園までついて行ってみれば、彼の話したいこととはやはり、
「僕と付き合ってください」
の一言だった。
十五年間生きてきて、ようやく自分と向き合ってくれる人が現れたのかもしれない。
母親と白い体、二つの壁を乗り越えて触れ合ってくれるかもしれない。
そんな淡い期待を、一旦脇においやって尋ねた。
「どうして、私を選んでくれたの?」
緊張でいっぱいの彼の口から何とか出てきた言葉。
「だって……、カブラギさんは、すごく綺麗だし、なんていうか、周りの女の子と違って静かで、憧れるっていうか……」
これはネオンの最も望まない答えだった。
当たり前の答えでもある。彼もまた、ネオンの外見しか知りえない。ネオンにもそんなことは分かりきっていた。
だが、彼がネオンに感じ、求めている物は、ネオンの母親がネオンに押し付けた物そのものなのだ。
母親に刷り込まれていた礼節も忘れ、逃げるように立ち去るしかできなかった。
そのままエレベーターホールに飛び込んでさらに上層へ向かい、あまり自覚もないまま展望テラスに流れ着いていた。

テラスに出たのは、自分を縛るものがタワーの内側にぎっしり詰まっている気がしたせいだろう。
今目の前に広がっている雲の平原には、タワーの中と同じものは何一つない。ネオンはテラスの縁に両手をかけて雲を眺めた。
ネオンの頭にぼんやりと浮かんだこと。
この白く続く雲海の上を遠くまで逃げていき、小さな点になるか。そうすれば誰もこの姿が分からないだろう。
いや、逃げるまでもなく雲も白、自分も白。
あの中にこの白い体を投げ入れて隠してしまえばちょうどいいのではないか。
そんな夢想を、吹き上げる突風が嘲笑った。
帽子はたやすく舞い上がり、ネオンの白い髪が暴かれる。
押さえる間もなくフリヴァーの発着口から飛び出した帽子は、さっきまでの想像の中のネオンのように雲海に身を投げていった。
飛び立つどころか、髪を隠すものがなければ安心して帰ることさえできない。
帽子は無情に離れていく。ネオンはテラスにたった一人、頼れるものなく取り残された。
呆然として帽子を見つめるネオンに、青黒い空の上から無力感がのしかかる。
そこに二度目の突風が吹いた。
ネオンのすぐそばを吹き抜けたそれは、黒い姿を持ってテラスを飛び出し空中を滑っていく。
ネオンの帽子を追いかける黒いフリヴァーだった。
フリヴァーはどんどん帽子に追いついていく。帽子はすぐに雲に沈んだが、フリヴァーは気にもせず、雲の中にざくりと飛び込んだ。
帽子や空想の中の自分も空中にいたが、そんな曖昧で頼りない浮遊のイメージが一掃される。
意志のこもった力強い飛翔。これが空を飛ぶということか。
単に帽子を拾ってもらう以上の、もっと大切なことが目の前で起きている。そんな気がしてきて、ネオンの視線は黒いフリヴァーの潜ったあたりに釘付けになった。
ほどなく姿を現したフリヴァーは、大きく翼を広げてゆっくりこちらに戻ってきた。
パイロットの胸元に帽子が風圧で張り付いている。地上で拾ったのならこうはしないだろう。
空中で、それも視界の悪いはずの雲の中で受け止めたに違いない。
黒いフリヴァーを見つめるうちに、ネオンの腹の奥から今までなかった熱、欲望が沸き上がるのが分かった。
帽子を空中で受け止められるくらい上手く空を飛ぶ方法がある。
タワーの中と全く違う新しい世界、どこまでも続く空に進む方法が、空想ではなく今実際に目の前にある。
それを、自分のものにしたい。
空を自分のものにしたい。
自分の力で何かを手に入れたことのなかったネオン。偶然持っていたか押し付けられたものしか持っていなかったネオン。
そんなネオンが終わろうとしていた。
再びテラスに舞い降りたフリヴァーに駆け寄った。パイロットは機体を背から降ろして畳んでいる。
「ほら、テラスでは軽いものは押さえてないと」
とパイロットが差し出す帽子を掴みながら、パイロットの言葉に被せるように大声を上げた。
「どうしたらそんな風に上手く飛べるようになれますか?私も空が飛びたいです!」
意外と若い、飛行服も黒いパイロットが目を丸くして黙るのを見て、ネオンは自らの非礼に気付き縮こまった。
「いっ、いきなりすみません、そのっ」
「年は?」
急に声をかけられ、肩をびくりと震わせるネオン。年齢を尋ねられていると気づくのに一瞬かかった。
「あっ、じゅ……十五歳です」
パイロットは微笑んでいる。
「俺みたいに上手く飛べるようになりたいって?」
「はい、でもやっぱり難しいですよね……」
「いや」
パイロットの顔には嬉しさや期待がうかがえ、こわばっていたネオンの肩を緩ませる。
「もう免許も取れるし、練習もこれからいくらでもできるよ。こんなとこより飛行場のほうが色々見れるから、週末行ってみな?」
「はいっ、ありがとうございます。」
ネオンがぺこりと頭を下げると、パイロットは笑顔のまま、フリヴァーを身につけて改めて飛び去った。
帰りのエレベーターの席で、ネオンは手渡された帽子を被らずにじっと見つめていた。
まずは、切符が手に入った。
inserted by FC2 system