デニムスカイ特別編 第五話
「family constant -Password-」
 昼食を終えてもネオンはすぐに出なかった。
 規則正しい生活をしているワタルでももしかしたら食事がまだ済んでいないかもしれない。それにネオンには確認すべきことが残っていた。
 ログを前にすると気が引き締まり、うわついた気持ちが塗り替えられていく。ログマスターとして、また選手として、差し迫った問題に向き合えるようになる。
 そう気張ったのもログを閉じるまでのつかの間。
 部屋着から着替えるために分子プリンターから取り出したのは、いつもの白い飛行服ではなかった。
 飛ぶわけでもないのだからワタルが少しでも喜んでくれるよう、綺麗で可愛らしいものにしてはどうか。
 そんな考えとともに、空戦でワタルと並び頂点に立つパイロットの胸の内から、十七歳の少女の部分が再び浮き上がってきた。
 初めて巣籠亭に連れて行ってもらったときのものに近い、ワンピースと薄い水色のカーディガンが、震える華奢な指から垂れ下がる。
 着れば着たで、タイトすぎて体型があまりにはっきり出てしまっていないか、裾が短すぎて白い脚がここまで露わになるのはどうなのかと、往生際の悪い心配。普段の飛行服の方がよっぽど体のラインそのままなのだが、このときは頭から抜けてしまっていた。
 愛機を発着口脇の駐機場に置いたまま駅に向かう。
 屋上行きではなく下りのエレベーターに乗り込む。
 商業フロアでもなく、ワタルの住んでいる階で降りる。
 これら一つひとつの行動につれて、心臓は落ち着きを失い、頬は風を受けることなく熱がこもり、ネオンは選手から少女そのものに引き戻されていった。
 飾り気のない小さな家屋が庭を挟まずに整然と並ぶ町並みは、同じ調布の居住区でもネオンの家のある階とは違って見えた。静かで、少し冷たい感じ。
 これから何をしにいくのか、ネオンは思い出し、自分の中にあるパイロットの部分を呼び覚まして、芝生の道に踏み出した。
 ワタルを助けに。
 輻射線と同心円からなる網目状の道は迷いようもない。一つ角を曲がるだけで、ワタルの家に辿り着くことができた。周りのと変わらない直方体で、少し背が高い。
 ネオンが扉の前に立つと、来客と判断され自動で呼び出しがかかる。
 ワタルはすぐに飛び出してきた。
 滅多に見ることのない、紅潮したワタルの顔。
 しかしその下は、見慣れた黒い飛行服だった。
 自分も飛行服で来るべきだったではないか、何の話をしに来たのだ。ネオンは急に恥ずかしくなって、両腕で身体を隠すようにした。
「どうした?」
「あの、えっと」
 妙な仕草に対する問いかとネオンは一瞬勘違いした。今日突然押しかけた理由を聞いているに決まっている。
 日下氏に差し向けられて、とは答えたくなかった。
「ちょっとお話が、したくて。日下さんにご住所聞いて来ちゃいました。ごめんなさい」
「いや、いいよ。……上がって」
 ワタルの返事が少したどたどしい。
 ある種の経験のない分ネオンの方が何倍も緊張しているわけだが、ワタルも平常心でないと分かれば気休めにはなった。
 しかし扉を抜ければ、もはや縮こまっている場合ではなかった。
 中に収まっていたものに目を奪われ、吸い上げられそうになる。
 晴れ上がった飛行場によく似た青と緑の世界。
 床は一面人工土壌で、きちんと生え揃った芝生に覆われている。そういえば家の中は芝生だと、前にちらりと聞いていた。
 しかし天井と壁の間に角がなく、全体がグラデーションのかかった青い光を放っているとまでは。
 かすかに青白い裾から深く鮮やかに立ち上がっていき、空間が発散する感覚に襲われる。
 ラピスラズリで出来た聖堂。
 頂上には白く強い光を放つ円が浮かんでいる。太陽の役割なのだろうが、どこかデフォルメされている。雲はない。
 以前母親が作った仮想空間のような欺瞞とは違う。忠実な空の再現からあえて離れた、青空の似顔絵というべきものだった。ワタルが自分で考えたのだとネオンにはよく分かった。
 短い含み笑いが聞こえてやっと、ネオンは自分がぽかんと口を開けて天井を見上げたまま突っ立っていたのだと気付いた。
 すぐ振り返って今度はネオンが笑い息を漏らす番だった。
 ワタルが腰かけているのは、芝生がそのまま盛り上がったものだ。膝の半分くらいの高さで、ワタルの身長より長い長方形をしている。
 部屋の中には他に分子プリンターと水回りらしき扉しかない。つまり、
「それって、ベッドですよね」
「ん、ああ。ベッド兼ソファー」
「毎晩芝生で寝てるんですか」
「いいだろ」
 羨ましいだろとでも付け加えんばかりだ。
「はい」
 ワタルならこんな家に住んでいても当たり前だろうと思える。何しろ、ここは飛行場やタワーの屋上と同じ解放感に満たされているのだ。
 ワタルの隣に歩み寄り腰を下ろした。
 すでに普段と、飛行場にいるときと変わらない、穏やかな気持ちで接することができた。
 ワタルの方はといえば、まだ少し頬が赤く表情が硬い。
 芝生は飛行場のものより丁寧に整備されていて、座り心地が良かった。
「ここに日下さんが来ちゃったら大変ですね」
「ん?」
「日下さん、タンポポが大好きじゃないですか」
「あっ……、止めろ止めろ」
 ワタルが一気に笑い崩れた。
 狙いどおり。
「随分殺風景だなあ、なんて言って」
「止めろ、って」
「すごく可愛いお部屋にしてくれますよ」
「止めろ、ってば」
 笑いは緊張が崩壊したところに生まれる。
 二人は今この場の恥じらいだけではなく、スケアクロウに吹き込まれていた薄暗い空気までしばし忘れることができた。
 収まって深く息を吸い、ワタルはこちらに向き直った。
 真剣だが、いつもと同じ。空のことに取り組んでいるときの顔だ。
「悪いな、気い遣わせて」
「いえ」
 次の試合に向けてワタルに再び火を着けることは可能だ。ネオンは確信した。
「賭けてほしいことがあります」
 昨晩の話し合いのことを、ネオンはそのように言ってワタルに示した。
 ワタルが勝てばスケアクロウはオープンリソース化され、日本のメーカーやパイロットが自由に手を加えられる。
 スケアクロウが勝ったら有償かつジラソーラ以外の者には編集不可という条件のままで公開される。
「ヒムカイさんが勝ったら、スケアクロウは私達のものになる。そういう条件で試合させてもらうのはどうか、って話してたんです」
 ワタルは小さく頷きながらネオンの話を聞いていた。
「そうだな、それなら大分良くなる」
「私にもスケアクロウを使う当てがありますから」
 目を丸くしたワタルに、ネオンは順位のツリーを見せた。
 中腹の星のいくつかが赤くなって目立っている。
「練習相手がいなくて順位が伸びない人がいるってお話ししましたよね」
「そうか、練習用のドローンディスクみたいに」
「スケアクロウを改造して練習に使ったら、きっとディスクより成果が上がりますよ」
「ずっと本物に近いからな」
 フリヴァーの動作を理解する、という二人の見い出した極意に倣うなら、スケアクロウを練習用に供することはディスクより有効なはずだ。
「その改造を、いっそ私がやっちゃおうかな、って」
 ワタルの視線はツリーからネオンに戻る。
「そこまで考えてたなんて、」
「まだ途中ですよ」
 ネオンはツリーを消した。
「これだけじゃまだ賭けにならないんです。公平じゃない条件ですから。ヒムカイさんが次は負けないなんてこと、」
 入れ替わりに、先日の練習試合のログを表示。
「これを見たら分かっちゃいますから」
 特別に詳しい編集を行い、これ以上ないほどの注釈を付けておいたつもりだ。
「お前、頭痛は」
「もう慣れました」
「慣れた、って」
 ワタルが心配するとおり、最初のうちはスケアクロウの機動に含まれる違和感によりたびたび目眩を起こした。
 それも、スケアクロウの癖を理解するまでのこと。
 その過程を経たネオンは見抜いていた。
「ヒムカイさんが負けたのは、ただスケアクロウを知らなかったからです。次は一対一なら負けないっていう自信、ありますよね」
 ワタルはゆっくりと、力強く頷いた。
「それだと賭けの条件を呑んでもらえない、ってことか」
「はい。じゃあ、一対二だとどうだと思いますか」
「こっちが一だろ?それじゃ流石に不味いな」
 ネオンも、もし自分が二人いたら難なくワタルを下せるだろうと思う。
 そしてここからが、ネオンにとっての今日の本題だった。
「二、対三、だったら」
 ワタルは、すぐに答えない。
 見開いた目はネオンに釘付けになっている。
 やがて唾液が喉を過ぎる音が聞こえ、かすかに口が開いた。
「多分、いける。でも言い切れない……。きっと、良い試合になる」
 これ以上ない答え。
 ついに、ワタルの口からスケアクロウとの戦いについて前向きな言葉が発せられた。
「よかった」
 ネオンは安堵の息を漏らし、頬を緩めた。
 ワタルの濃紺の眼差しは昨日の姿からは考えられないほど熱く、芯が通っていた。
「ネオン」
「はい」
「俺は、そこまで真剣に考えられなかった。ただ次は徹底的に叩きのめして、早く終わりにしたいとしか思ってなかった。本当に、ありがとう」
「このくらい当然です。ヒムカイさんのためなら」
 ネオンが笑ってそう答えると、ふっと、ワタルの表情が柔らかく変わった。
 ただ瞳は真っ直ぐなままで、さらに近付いてきている。
 細い肩をワタルの大きな手が掴んだ。
 何をしようとしているか分かった瞬間、湧き上がる多幸感。
 それとは裏腹に、いや、むしろその勢いでだろうか。
 ネオンは首を横に振って口走った。
「まだ駄目です。その、ヒムカイさんからまだ言ってもらってないですから」
 少し我が儘だったかとネオンは思った。わざわざ口に出さなくても分かっているだろうとワタルは思っていたかもしれない。
 しかしワタルは素直に身を引いた。
「そうか、そうだったな」
 それだけに留まらず、ワタルはベッドから腰を浮かす。
 そして、ネオンの正面にひざまずいた。これはあまりに大袈裟ではないか。
「えっ、ちょっと」
「いいから。見下ろしてなんか言えるかよ」
 空中では相手を見下ろすこと、すなわち、相手より優位に立つことである。この場でそれを良しとしないワタルが、ネオンにはやはり愛おしく思われた。
 ワタルは一つ咳払いをして、ああ、と呻いてから続けた。
「お前と出会うまでは、誰かが俺にとって大切だと思うことなんてなかった。でもお前のことは、お前がいてくれて本当によかったと思ってる」
 ネオンを見上げていた目が次第に逸れていく。
「つまり、これがそういうことなんだと思うから、はっきり言うけど」
 そこで蛇行した話の筋をぴんと直すように強く息を吸い、視線も戻して、言った。
「お前を、愛してる」
 ネオンは、そのままワタルの顔を見つめていることができなかった。
 すぐに涙が溢れ出して視界を覆い尽くしたからだ。
 俯いて両手で拭わなければならなかった。ワタルが慌てて体を起こしたのが気配で分かった。
「どうした」
「だって、そこまで言えなんて言ってません」
 口角が上がるのも、ネオンは抑えられない。
 再び、ワタルの手が両肩を掴んだ。
 涙は止まったが瞼は閉じたまま、ネオンは顔を上げた。
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