デニムスカイ特別編 第四話
「UNTITLED ver.2 -Orichalcum-」
 赤道上の成層圏に浮かぶジラソーラの居住区には、透明な上面を通して毎日ふんだんに日の光が差し込んでくる。
 エンベロープを取り囲む回廊は十メートルの幅があり、豊富な陽光や高い天井、内側に見えるエンベロープの膨大な空間のおかげでさらに広々として感じられる。
 道のさらに外側を取り巻く小さな家々は中に仕切があるだけでドーナツ状につながっている。しかしその屋根は一区切りごとに板張りであったり瓦を葺いていたりテラスになっていたりと、住人の元の国籍や好みを反映して統一感がまるでない。
 路面は石畳を模していてタワー内にもよくありそうに見えるが、構造は全く異なる。これら内装はタワーのものよりずっと軽量化されている。
 天候により日照が左右されたり、不快な湿気が吹き込んでくることもない。外部の何者にも干渉されることのない町は穏やかな週末を送っているかに見えた。
 ただ一人、ミルドレッドを探す助手のダニールだけが、早足でせわしなく回廊を歩いていた。
 道の脇に置かれたベンチに、濃い褐色の肌と筋の通った鼻をした青年が座っていた。紙袋を膝に載せ、ここで遅い昼食をとろうとしているようだ。
 ジラソーラでは皆が知り合い同士だ。ダニールは駆け寄って尋ねた。
「ラビ、ミリィを見なかった?」
「ん?ああ、さっきアニーについてってたよ。昼ちょっと前だったから、ご馳走になるところだったんだね。ミリィが歩いてるとすぐ目に付くよね。服は黄緑だったよ」
 ラビの返答もやはりのんびりしている。
「ありがとう」
「お姫さんのお世話も大変だね」
 ダニールはあまり笑っていない苦笑を残して元の方向に引き返した。
 ラビはミルドレッドやダニールとは別の分子工学チームのリーダーである。
 ジラソーラの浮揚力を浪費しないよう特別に軽量化した内装を開発し、改良を続けている。今踏みしめている石畳も、皆が暮らす家も、全てラビのチームのおかげで出来たものだ。
 かたやミルドレッドのチームは、そこまで目立った業績を上げていない。強いて例を上げれば、今ラビの持っていた紙袋の中身はおそらくミルドレッドが設計した合成食のホットドッグか何かだろう。
 フリヴァーの開発を任命されたのはごく最近、ジラソーラの活動が安定してからのことだ。
 小走りに少し進むと周りより随分緑の多い家が見つかった。
 段になった棚にもテラスから下がった籠にも植木鉢が並び、多くはとても鮮やかな花を咲かせている。野菜の姿も見え、特に網に這う蔦には立派なウリ科の果実が実っている。
 テラスに上がればさらに華やかであろうことが、下からも見て取れた。
 そして、左右で縦に巻いた長い金髪の後頭部も。
「ミリィ!」
 口に手を当てて叫ぶと、その髪がばねのように揺れた。
 振り返った顔は落胆を露わにしている。上着の肩が黄色から水色に変わる。
 少し考えてから、ミルドレッドはダニールが予想していたのと逆のことを言った。
「いいよ、上がって。いいよねアニー?」
 勝手に言った後からこの家の主人、アニタに了承を求める。
「え?そりゃあたしはかまやしないけどさ、あんたを連れ戻しに来たんだろ?いいのかい?」
「だって最後は結局帰らなきゃいけないんだから無理に粘ってもそうやって過ごした分つまんなくなるでしょ。それならいっそお茶に誘っちゃったほうがゆっくり足止めできるし」
 アニタの爆笑が降り注いだ。
「ミリィ、あんたやっぱり天才だわ!いらっしゃいダニーボーイ!たっぷりもてなしてあげるから」
「ボーイはやめてください……。お邪魔します」

 ここには季節はないがきっとアニタの故郷がその時期なのだろう、テラスはまばゆいばかりに真っ赤な花でぎっしりと取り囲まれていた。
 天蓋の外のいつも変わらない群青の空や、外縁に見下ろせる紺碧の海にテラスが浮き立つ。全身原色まみれのミルドレッドがあまり奇異に見えなくなるほどだ。
 とはいってもそこはやはり、普段からこの花々を世話しているアニタのほうが板についているが。
 浅葱色のワンピースに白いエプロン、縮れた赤髪を後ろでまとめ、浅黒い肌は少しふっくらしている。ダニールと三歳しか変わらないのに、どこか母性的な貫禄がある。
 全く対照的なアニタとミルドレッドが一つの食卓を囲んで談笑しているのは、もてなす叔母ともてなされる姪、といった関係を想起させる。
「あんたが慌ててミリィを呼びに来るってことはお昼抜かして仕事してたりしたんじゃないのかい?せっかくの土曜にご苦労なこったねえ」
「いえ、流石に昼は」
「どうせ適当でしょ?アニーの料理なら入るって」
 実際バー状の合成食だけだったのだがミルドレッドに指摘されると若干ダニールの気に障った。
 が、苛立ちよりアニタの持ってきたものに対する驚きが先立った。
「まあそういうことなら、お菓子と果物だけで勘弁してやろうかね」
 そう言いながら引くワゴンには、大振りなバターケーキ丸ごと一ホールに留まらず、ホイップクリームやジャムを添えたクラッカー、小さなクッキーやシュークリームやマカロンの群れ、飾り切りを施したオレンジや林檎、マスカットに輪切りのバナナと、大皿を埋め尽くしお茶のポットを包み隠さんばかりに盛られていたのだ。
 唖然とするダニールの隣でミルドレッドは無邪気にも拍手でそれを迎えた。食べ尽くす気満々なのがダニールには分かった。
「ミリィ、君少しは控えなって。甘いものならいつもリュックの中のプリンターから出してるだろ」
「えー、だってあれ私が作ったお菓子しか出せないんだけど」
 練習試合に勝利した後の通話のときのように、ミルドレッドはいつも兎の耳の飾りが付いた小さなリュックを背負っている。いつでも好きなときに菓子が食べられるよう、小型の分子プリンターが入っているのだ。
「たまには合成じゃないお菓子が食べたいよねえ」
「そうそう。それは私の作ったお菓子だって最高だよ、だって私が作ったんだもん。でもアニーの作ったお菓子も最高!」
 笑い合う二人の会話にダニールは引っかかるものがあった。
「あの、これ合成じゃなくて備蓄の食材から?」
「当然だろ。あ、イチゴとかはあたしが作ったやつだね」
 特別なことがない限り地上から得た食材は利用を控え、合成食品を食べることになっている。
「何かのお祝いですか?」
「んー、何だっけ……、あ、ほら。あんたたちの作ったやつが日本のパイロットに勝ったっていう昨日のあれ」
「そうそれ!」
 明らかに適当にミルドレッドが乗ってきた。
 その「昨日のあれ」について言っておくことがあってミルドレッドを探していたのだが、今話そうとしてもアニタがいては分が悪い。
 とりあえずダニールはこの場のことに話を集中させた。
「本番で勝ったわけでもないのにもったいないですよ」
「何だいダニー、あんたあたしに客をもてなさせない気かい?」
 アニタは口を尖らせる。
「いや、そういう訳では」
「あたしだって流石に普段は慎ましいもんさ。今日もオートミール、明日もオートミール、明後日もオートミール……。そいつもこうして週末誰かと贅沢を分かち合うためなのさ。分かっておくれよダニーボーイ」
 普段強気なアニタにこんな言い方をされてはかなわない。
 ダニールがたじろいでいると、ミルドレッドがいつになく真剣な表情で割って入った。
「ダニー、あれを見なよ」
 視線はテラスを越え下界の海に浮かぶ島々に注がれていた。
「この赤道直下のガラパゴスにね、なんとペンギンが生息してるんだよ」
「なんだって」
「ペンギンならペンギンらしくもっと寒いところにいればいいのにって思う?でもペンギンの本質はそんなところにない。ガラパゴスペンギンも南極のペンギンも、海でオキアミや小魚を捕って陸で休んで、暑かろうが寒かろうがペンギンの本質を守って暮らしているんだよ。どんなところに住んでいても、ね」
 ミルドレッドは、何を言わんとしているのだろうか。
 ジラソーラという島の規律にばかり囚われてアニタの真心を、人間の本質を省みず、煩いことを言ったダニールを戒めているのだろうか。
 今回ばかりは自分が間違っていたとダニールが認めようとしたところで、
「そいつはさっきあたしが聞かせてやったやつじゃないかい」
 アニタが種を明かし、ミルドレッドと共に盛大な笑い声を上げた。
 ここにいる限りこの二人のペースからは逃れられない。貴重な小麦粉やクリームを腹にたっぷり詰め込まれるのを、ダニールは覚悟した。

「はあ……まさか本当に食べ尽くすまで離さないとは」
 結局ダニールがミルドレッドを研究所まで連れ出せたのは夕方五時のことだった。もう少し遅かったら夕飯までねじ込まれるのを防げなかった。
 ダニールより負担が大きいはずのミルドレッドは涼しい顔をしている。
「君の体のどこにそんなにお菓子が収まるんだ」
「脳の働きには糖分が必要だから」
 そう言うミルドレッドの上着は平静を表す緑色になっていた。
 この感情により色を変える上着は本人のあけすけな態度と相まって実に雄弁だ。
「さっさと済まそ?」
 満腹で弱ったダニールならあまり大した説教もできまいというわけか。悔しいが、ある隠し玉を除けば当たっている。
 ミルドレッドは中央の円卓を囲む椅子の一つに素直に腰を下ろした。
 研究所といっても必要な物は本当にわずかで、分子プリンターを備えた円卓と原料液のタンクしかない。皆で話し合いながら時折実物を試作できるよう、円卓の天板には周りの椅子に対応して取り出し口が丸く並んでいる。あとは、見ても分からないがコンピューターネットワークの割り当てが個人よりずっと多いくらいだ。
 ダニールは立ったまま円卓に手を付き、消化を助ける薬を出させた。グラスを満たす液体には体内で働くナノマシンが含まれている。
 なんとかそれを飲み干し、ダニールはミルドレッドを見下ろした。
「アニーは勝利を祝ってくれたけど、本番でも勝ちたいならうかうかしていられないよ」
 ミルドレッドは返事をしない。かまわずダニールが指を動かすと、円卓の中央に昨日の試合のログが表示された。
「僕なりに昨日の勝因を分析してみた。本番で再現できるものかどうかをね」
「フリヴァーの試合のこと何も分かんないくせに」
「君もね」
 ダニールは説明を続けた。ログの要所には丸が付けてある。
「一つ目は、最初にこちらの居場所が悟られず、こちらは逆にヒムカイ選手が大体どこにいるか予測できたこと。二つ目は、ヒムカイ選手の読みを遅らせて、こちらが圧倒的に有利な根比べに持ち込めたこと」
 ミルドレッドは聞き流しながらリュックを抱えて兎耳をいじっていた。上着は緑を通り越して、退屈を表す深緑。
「本番では、これが両方とも潰される」
 ようやくミルドレッドの目つきがわずかに鋭くなった。
「あっちが飛行場で待っていた昨日と逆に、次はこっちがジラソーラの上で待つんだ。どうやったって居場所は知られる。それに、昨日までは何も知らせなかったけど、もうこっちの正体はばれてる。目測を誤ったり、まして誘いに乗ってくるなんてことはもうない」
「そんなの関係ないじゃん」
 ミルドレッドはリュックを乱暴に隣の椅子に置いた。上着が橙色に変わる。
「スケアクロウはいつでも一番いい手を打てるんだから。状況が変わっても絶対に有利なんだよ」
「あっちだって対策くらいしてくる。もう試合でこっちの情報を与えてしまったんだ。スケアクロウのやり方が必ず通じるとは限らない」
「通じるよ、そういう風に出来てるんだから。本番はジラソーラの上でやるんだからこっちのホームグラウンドなんだもん、有利に決まってるよ」
「直径たった一キロの円を出たら東京じゃないか。何秒で通り過ぎると思って」
 その辺りで腹の膨満感に負け、一旦息をつかざるを得なかった。薬がなかなか利いてこない気がする。
 ミルドレッドは負けるのが嫌なあまり、本当に負ける可能性を真剣に考えようとしていない。もたもたと効果のない言葉を連ねることは止め、ダニールは準備していたものを持ち出すことにした。
「ミリィ、僕自身は別に次で負けたってプロジェクトは失敗じゃないと思っているんだ。地上との交流を深める上では、それでもいい。ただ君は」
 ダニールはタートルネックの襟に手を差し入れ、中の物を引きずり出した。
「自分の実力をみんなに認めさせたいなら、こういうことは繰り返すべきじゃない」
 鎖の先にぶら下がっているのは、銀色の光沢を放つ十字架だった。
 ミルドレッドの手が伸びるがダニールの反応が早くてつかめない。十字架は一瞬だけ銅のように赤くなり、すぐに銀に戻った。
 いや、一見銀に見えるかもしれないが本物とは異なる。軽く、安っぽい感じがする。
 ミルドレッドの上着は夕闇のように暗い群青に沈んでいく。
「何でそんなの」
「教え子の研究成果だもの、ミリィ」
 ダニールが首にかけているのは、かつてミルドレッドが作った、感情に合わせて違った金属を模倣するアクセサリーである。
 飛び級を繰り返して大学まで進んだミルドレッドは、当時助教授として働いていたダニールの下で分子工学システムの研究に取り組んだ。
 そうして彼女が才能を発揮して出来たのが、周囲から得られた情報によって表面の微細な性状を自然に変化させる機構であった。
 それ自体はとても高く評価されたものの、金属状のアクセサリーとして形にしたのが不味かった。ミルドレッドは、実物の金属を自分の目で確認して調整することなく設計を完了してしまったのだ。
 装飾としては良いものではないと指摘されて、ミルドレッドは修正を施さずその失敗作の公開を終了した。手落ちを素直に認めることはできなかった。
 以来、せっかくの能力にも関わらずミルドレッドの分子工学者としての評価はそこそこに留まっている。
 このジラソーラでチームリーダーの座をダニールから譲られてからも、それはまだ変わらなかった。
「卑怯」
 悪態をつきながらミルドレッドは座り直した。
 かざした手の前に、スケアクロウの相手、ヒムカイ・ワタルのログの一覧が浮かぶ。

 さて、それからさらに数時間経ち、日本にも昼が訪れて。
 ネオンは自室でログ確認のノルマを片付けた。全国的に天気が優れず、昼前に楽にこなせてしまった。
 後の用事を思うとどうしても鼓動が早まり、昼食もそうそう喉をすんなり通るものでないが。
 日下氏の言ったとおり調布は朝から雨のままであった。ワタルは仕事を休み家で過ごしているだろう。
 その住所がネオンの手の中にある。
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