デニムスカイ特別編 第一話
「UKIGUMO -Secret Dungeon-」

 のんびりと昇るようになった日差しを、四つに分かれた翼端と長く突き出た風防に受け、白いスパンデュールが飛び立つ。まばらに雲が浮いている。
 調布のタワーを囲み込む桜はその葉を秋の色に染め上げ、それももう散らしてしまおうとしていた。
 一段外周の楓はまだ青々としている。そのさらに外の草原も。
 ずっと向こうには、黒いアクイーラがいる。
 大体同じくらいの時間に飛び立つことが多いが、ネオンとワタルは特に合流しようと誘い合うことはしない。
 距離は、あまり関係ないからだ。
 遠い機影から、かすかな風切り音から、管制の光点のわずかな揺れから、互いの挙動が細部までありありと読み取れる。
 今日は穏やかだ、今日は気張っている、何かに苛立っている、何か楽しみにしている。そんなことまでも。
 フリヴァーの動作を熟知した末に相手の位置や機動、意図や未来さえ察知することを可能にした二人は一進一退の攻防の中で共鳴し、茫洋とした大気は壁ではなくむしろ媒介のようになっていた。
 といっても、そんなに変わったことが感じられる日は滅多にない。この日は二人とも平穏そのものだった。
 平穏。まさにそれが、ここしばらく二人の周囲を取り巻いていた。
 ワタルは飛行場の端の工房に、ネオンは中央のカフェに着陸。それぞれの仕事に取りかかる。
 ログの編集をカフェの軒下で行う習慣は変わっていないが、一時ほど対応に切羽詰まることももうない。
 それはネオンの熟達もあるが、各社の新型機が出揃って競技がますます活発になった後に起こった変化もあった。
 新しいログの一覧を表示すると六割強に黄色い丸が付いていた。
 試合を行った当人により編集済みで、なおかつネオンが目を通していないという状態を示している。
 編集してあるからといってネオンが見なくていいということではない。以前と変わらず、まずは一番上から開いた。
 飛行経路の周りに緑色で表示されたたくさんの注釈のうちいくつかに重ねて、すぐにオレンジの注釈が付いた。これはネオンが特に注意している点を学習し、自動で検査するアプリケーションの働きだ。
 この試合で勝った方のパイロットはいつもすぐにログの見直しを行い、その成果を着実に次に反映している。ネオンにはログを見ているだけで、同じ飛行場で練習し続けてきたかのように成長が把握できる。
 編集が非常に的確だったのでネオンの加える手も少なく、すぐに次に移れた。
 そのような積極的なパイロットもかなり増えてきて、一つ一つの編集済みのログに返事を書くような気分で追記する。負担も少なく満ち足りた気分で進めていけるようになっていた。
 しかしネオンがログの群れから読み取っているのは、満足できるようなことばかりではなかった。

 昼にはノルマもとっくに越えて、午後は飛行練習に移ろうと思いながらカウンターから昼食を受け取った。
 軒下に戻ると、黒い機影がこちらに向かってきていた。アクイーラのアップデートの確認だけで仕事のペースが緩くなったワタルが、昼食をこちらで食べることにしているのだ。
 正確に真正面に降りてくる姿は、雲や風と同じ空の一部であるかのようにさえ思える。ワタルを見つめるこの瞬間が、一日の中で静かな高揚を与えた。
 ふわりと一吹き気流を広げて着地する動作も、雨滴が砂に染み入るようになめらかだ。
「何も?」
「はい」
 飛行場にも集まったログにも変わったことはないという意味である。ワタルも察知できてはいるが。
「あ、でもこの後相談したいことがあって」
「ああ」
 ワタルはアクイーラを肩から降ろして畳み、昼食のトレーを取ってネオンの向かいの席に着いた。
 以前はネオンのほうが行儀良く味わって食べていたものだったが、今では二人とも同じくらい手早く済ませるようになっていた。
 能力が近付いて習慣まで似てしまったのが可笑しい。ただ最後に飲み干す物は紅茶とコーヒーで別々のままであるが。
「相談って」
「その、他の人達のことなんですけど」
 ネオンはまず、最初に見た試合で勝ったパイロットの情報を表示した。
「ん?順位は上がってきてるな」
「はい。でもこの人は渋滞に入っちゃって最近はあんまりなんです」
 全パイロットの順位を表すツリー状の立体画像の中に、彼の足跡をつないだ曲線が浮かんでいる。根元こそ飛び石で進んできているが、七合目に差し掛かってからはすっかり頭打ちになっていた。
「試合、少ないな」
「あんまり練習できてないみたいです」
 彼の位置を示す星と他の星をつなぐ、試合を表す直線の数が思ったより少ない。
 試合以外のフライトを表示してみると、無人のドローンディスクとの練習が出てきた。あまり相手に恵まれていないようだ。
「他にもこういう人が多くて」
 目覚ましい上達を遂げているように見えても、そのように進攻を阻害されているパイロットの姿が目立っていた。
 ツリーを構成する星の輝度を抑えて試合線の輝度を上げれば、光は上の方に偏り、七合目を超えるにはある程度以上の試合数がどうしても必要なことが明らかだった。
「でも、競技自体はどんどん賑やかになってきてるよ。あんまり気にしてもさ」
「そうなんですけど……、また熱心な人が出てくるかもしれないって、言ってしまったので」
 自分達に追いつくほどのパイロットがまた現れるかもしれないから、二人で待とう。
 それはかつて、ネオンが自分と同じ孤独に陥ることを恐れていたワタルの心を解きほぐした、ネオン自身の言葉。
 それが本当に実現するものやら、ネオンは危ぶまずにいられなかった。
 悩みの種をこっそり実らせるツリーをつついて回転させていると、つむじの後ろにワタルの大きな手が乗っかってきた。
「真面目だな」
 笑い混じりにそんなことを言うから、ネオンも苦笑を返さざるを得ない。
「ヒムカイさんに言われるなんて」

 しかしネオンは、昼休みが終わり工房に戻っていくワタルの姿から、ワタルにも引っかかるものがあることを読み取った。
 すぐさまライバルが現れることなどワタルは期待していない。ワタルを祀り上げるばかりの鬼塚を置いて横浜を離れてからネオンが現れるまで、そしてネオンが自分に追いつくまで、随分待ったものだ。
 とはいえ、空全体が賑やかでも自分達の周りが以前と比べ物にならないくらい静かなのは確かだ。
 白衣の上ににやけ顔を乗せて出迎える日下氏に、ワタルは開口一番尋ねた。
「アクイーラって優位なのか?実戦で」
「何だい、突然。すぐに分かると思うけどね」
 日下氏は右手を前にかざしてツリーを表示し、現在の使用機種ごとに星を色分けした。アクイーラが青、スパンデュールが赤、影菟は緑。他の色もかなり多い。
 三色はツリーの中である程度以上の高さを占めて混ざり合い、どれが優位ともつかなかった。
「うちも余所様も全力で仕上げたものだからね、がっちり組み合って崩れる気配も無いよ。それは三機種だけの話でもないけれどね。今更それがどうかしたのかい?」
「ああ、いや、この先開発が激しくなることはないかと思って」
「忙しさが恋しいようだね」
 ワタルは頭をかくことで消極的に肯定した。
「今は誰もが新型機の性能をじっくりと噛みしめているところじゃないかな。我々のアクイーラが一番満足していただいているだろうけどね。空警隊の公募もないし、あまり焦るのは現実的ではないよ」
「そうか」
 ワタルは黒いアクイーラを降ろし、せめてとりあえず目の前の仕事に取りかかろうと、青緑の試験機に手をかけた。
 平日は開発、休日は挑戦者の群れという日々を思えば、現在の静けさは心安らぐ反面、いきなり投げ出されたようで落ち着かなくもあった。

 翌日、二人が食事を終えるタイミングを測ったように、深緑のコートと帽子をまとった日下氏がカフェの軒先に現れた。
 トラムの駅から芝生を歩いて来るのが丸見えで、着く頃にはもうネオンがテーブルに緑茶を用意していた。
「やあ、有り難いね」
「わざわざ昼休みにどうした」
 日下氏がこうして飛行場の端から中心まで顔を見せに来ることもたびたびあったが、平日の昼に来るのは珍しかった。
「今ならカブラギさんもいて丁度良いからね」
 そう言って日下氏は、緑茶をすすりながらテーブルの上に背景付きの立体映像を表示した。
 白いマーガレット。一見そのように思われた、周囲が放射状に分かれた円盤。中心部分はほとんどが透明で、緑色をした底面が垣間見える。
 雲の上に水平に浮かぶ様子から見て、非常に巨大な人工物のようだ。
「協会で「空中都市」が話題になっているのはご存知かな」
「都市?この中に人が住んでるのか」
「聞いたことあります。世界各地から人が実際に住み込んで実践してるって」
「そのとおり、タワー以上に独立性の高い都市として成り立つかどうかをね。名前は「ジラソーラ」、イタリア語でヒマワリのことだから形のままだね」
 映像は外観から内部構造の図解に変化していく。
 エンベロープと呼ばれる中央の透明な部分は、直径一キロ、厚さ百メートルに及ぶ真空のカプセルである。周囲の空気に対して重量がないことにより浮力をもたらす。ヘリウムなどを使わないのは、そんな特別な物質を採掘・輸送するコストをかけるより、圧力に耐えうる炭素原子の配列を開発した方が経済的だからだ。
 その底にはエネルギーと資源を供給する光合成プラントが広がる。最初にちらりと見えた緑色の部分だ。
 エンベロープの周囲を取り囲むように備えられた居住区は小さく見えるが、充分な幅と高さを持つ。そのさらに外側に向かって放射状に百枚以上伸びる可動翼を含め、外表面は全て電位推進表面としてある。
 普段は成層圏プラットフォームの一つとして外乱の少ない高空に浮かび、安定性を得るために赤道上をゆっくり東に向かって進み続けている。
「なんでこれがフリヴァー協会で話題に?」
 そう日下氏に聞きつつも、ワタルの目も指もジラソーラの映像から離れなかった。空にある物なら興味が湧いてしまうらしい。それはネオンも同様だったが。
「うん。どうもこれには、フリヴァーが離発着する環境が整っていないらしいんだ。せっかく空にあるのにね」
「成層圏まで上がったりしないぞ」
「あちら様もそう思って準備してこなかったんだね。でも、今後は地上との交流も増やしたいらしい。何しろ、クリスマスを東京上空二千メートルで過ごすそうなんだ」
 それを聞くなり、二人とも映像から顔を上げた。あとほんの二ヶ月程度で実物を拝めてしまうではないか。
「まあ、お二人がご存知なかったのも無理はない。協会でもこれは交通に関する方面のお話として扱われてきたからね。ところが」
 日下氏はジラソーラの映像を消去し、他の映像に入れ替えた。
 年齢や人種にかなり幅のある数人の男女が、広場の噴水を背景に映っていた。
 皆おおむねゆったりとした普段着らしい服装をして微笑んでいる中、左端にいる少女が目立った。鮮やかなオレンジ色のブレザーを着て、長いブロンドを左右で縦に巻いている。一番若くネオンより年下に見えたが、不機嫌そうに顔を逸らしていた。
 白いタートルネックのセーターを着た白人男性が、翻訳アプリケーションの流暢な日本語でこちらに話し始めた。
「日下航空工房の皆様、初めまして。私達は、空中都市ジラソーラのフリヴァー開発スタッフです」
 即座にネオンは、映像から目を離さないまま、手元で海外のログの検索を始めた。指をいくら動かしても目的のものは出てこない。
「この度、私達は皆様の町の上空でクリスマスを過ごさせていただくことになりました。私達の町の中にも日本から来たメンバーが何人か在籍しています。彼らからお話を聞いて、皆そちらに伺うのを楽しみにしています」
 ネオンは空戦に限らずただの管制情報まで、あらゆる記録に範囲を広げた。ワタルの言ったとおり成層圏まで上がる機体はなく、ジラソーラに在籍しているパイロットも機体も全く見当たらない。彼らの和やかな挨拶など頭に入らなかった。ワタルは顎に手を当て眉間に軽く皺を寄せる。
「中でも、私達フリヴァー開発スタッフにとってこれはとてもありがたいチャンスです。日本は世界一のフリヴァー先進国です。日本の皆様と私達が親しくなれれば、私達は地上の人達ともっとスムーズな交流が持てます。そこで、一つお願い事をさせていただきたい」
 検索をあきらめたところで話が本題に近付きつつあるのが分かった。
 そしてその直後、白人男性は和やかな口調のまま核心に踏み込んだ。
「日本一、つまり実質世界一の選手である、御社のテストパイロットのヒムカイ・ワタルさんと、私達の送り出す選手との間でデモンストレーションの試合をさせてもらえないかと思います」
 ワタルは、微動だにせず聞いていた。
「本番のための細かい取り決めの前に、まず一度練習試合を行う用意ができています。もし私達のお願いを聞いて下さるなら、練習試合のご都合をお知らせください。場所は、そちらのホームグラウンドでかまいません」
 良い返事をいただけると大変嬉しいです、と言い残しながら、映像は消えた。
「工房に送ってきたのは僕を君のマネージャーみたいなものだと思ったからだね。で、カブラギさん」
 日下氏は、ネオンの検索結果を見通しているようだ。
「無いです、情報。何も。機体もパイロットも、ジラソーラにいるはずないんです」
 ネオンは首を振りながら答えたが、不安のこもった声にもワタルは揺らがなかった。
 ログを力に変えてきたネオンにとって、一切記録のない相手の危険性ははっきりと感じ取れた。それはワタルも同じはずだ。
 日下氏の静かな視線とネオンの焦燥まみれの視線を集める。
 それでも、ネオンはやはり期待していた。
「受けるよ。試合の申し出だからな」
 ワタルが当然のように答えた言葉を。
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