デニムスカイ番外短編 第一話
「ハネモノ -Addition-」
静かな水曜の午後だった。
昨日の雨のために草地は湿り気を帯びている。試合も一時活発でなくなり、晴れはしたがまだ新しいログは少なかった。
編集の仕事はもちろん、個人練習までやり尽くしてしまっていた。
レモンティーを飲み干し、カップを置いた。乾いた音が立って消える。そろそろ外の席では涼しくなりすぎてきたかもしれない。
西の地平線をアクイーラが舞っている。黒いワタルの愛機ではなく青緑の試験機だ。
アクイーラの販売開始後も、日下氏の工房ではアップデートの検証や今後のためのデータ採集に余念がない。いつもどおり夕方まではこちらに来れないだろう。
この日はそれっきり、管制は朝から他の機体を表示していなかった。
平日にわざわざ「負けに」来て順位を上げようとする者も下火になり、週末にもネオンやワタルの力を直に体験したいと願う挑戦者が多くなった。
そういった客には丁寧に相手をするし、自分達の試合も楽しんでいる。
土曜は低空で待ち伏せたネオンの粘りが勝り、日曜はワタルの高度なフェイントと不意討ちが決まった。どちらのときも、終わった後ワタルは本当にいい笑顔をしていた。
ここのところの勝率は四対六といったところで、順位を表すツリーは二連星を頂くようになっていた。
次はどんな手を仕込んでおくか毎回考えておかないといけない。そうしている時間は厳しい力比べと騙し合いを頭の中に組み立てているにもかかわらず、鼻唄さえ漏れるような甘い気持ちになれる。
翻って見るに、本当に静かな、持て余すほど静かな、水曜日の午後である。
清水達他のパイロットのお喋りどころか、風ですらそよとも囁かない。軒下の燕もとっくに巣を置いて南へと旅立ってしまった。
やはり練習を再開するのが一番か。まだ命中精度ではワタルに及ばないところが大きいと感じるし、小さめのドローンディスクを飛ばして射撃の訓練をしよう。
そう考えて分子プリンターに近づいたが、手をかざす段になって違う考えが芽吹いた。
こんなに穏やかな空気だからなのだろう。
ネオンが分子プリンターから取り出したのは、一枚の黒い「紙」だった。
厳密には植物繊維から作られた本物の紙とは異なるが、手触りや材料特性は忠実に再現されている。寸法は二十一世紀までで言う「A4」に当たる。
表の席に着いて紙を真っ直ぐに敷いた。
指でテーブルをつつくと、紙面に重なって折り順が表示された。
縦に半分に谷折り、戻して上側両角を中心線に合わせ折る。そうして出来た三角の部分を一旦手前に起こし、後端も起こして中心線上でくっつける。中央だけ軽く折り目を付けて戻し、そこに先端を合わせて今度はしっかりと折る。再び両角を手前に折り、余った小さな三角形を起こす。先端をほんの少し折ってから全体を半分に山折りする。
アンティーク趣味の母親は古めかしい遊びばかり勧めてきたものだが、色々と作らされた折り紙の中でもリストから意図的に避けられてきたものがいくつもあった。兜や手裏剣。昆虫や猛獣。女の子らしくないものは折ったことがなかった。
紙飛行機も、その中の一つだ。
両翼を広げたがまだ完成ではなかった。ガイドによると後縁を少し上に曲げるとのこと。
その後、さらに歪みの点検があった。新しく表示されたガイドと見比べたところ、ほとんど問題なく出来ていた。
昔習った折り紙のコツどおりに仕上げた、黒い紙飛行機。
本物のワタルの愛機と比べれば可愛いものだが、きちんと折った角が鋭く凶暴そうに見えた。
飛ばし方まで丁寧な解説がある。まずはテスト、力を込めず真っ直ぐ前に押し出す。
左旋回、芝に片翼を擦って止まった。
まだ不均一さが残っているのか。ほんの少し悔しさを覚えながらも、調整は慎重に。
もう一度テスト、今度はわずかに右を向いた。
調整した量を減らし、もう一度。
機体はようやく真っ直ぐ進み、数メートル先に水平に止まった。
こうなればもっと高く、長く飛ばしたい。黒い翼にふさわしく。
そういう場合もやはり機体軸に沿って真っ直ぐ投げるべきとのこと。投げずに肩や手首の動きだけ確認。良いようだ。
暇つぶしのはずがなぜか動悸が速まっている。教習の頃を思い出す。
肩を後ろに深く縮め、機体を突き出した。
勢い良く飛び出してピッチアップ、
頭上で背面を見せる。
速度を取り戻して降下、
脇をすり抜け、最後に上を向いたまま落ちた。
これほど激しい機動を行うとは予想していなかった。角速度で言えばフリヴァーよりも速いループだ。
といってもただ回って戻ってくるだけでは上手く飛ばしているという感じがしない。もっと長い間滑空しているところが見られないだろうか。
ガイドによれば機体を横に傾けて投げれば螺旋上昇するようだ。念のためカフェの建物から離れておいた。風向きを考えて立とうとしても風自体無い。
翼を右に四十五度傾けて持つ。
再び、突き出す。
右に跳ね上がる。
今度はのけ反らない。
自分の安定性で水平に戻った飛行機が、ネオンを見下ろして滑っていく。
ごく緩い右旋回でネオンの周りを少しずつ降りてくる。
ワタルが乗っている空想までできるくらい滑らかだった。
地表間際でほんの少し降下が遅くなってから、機体は芝に受け止められた。
つかの間の雄姿を見せた小さな鴉を、曲がらないように嘴から拾い上げる。
ちゃんと上手く飛ばせたことが空を飛ぶことを理解している証明のように思える。
先程まで静けさに飽き飽きしていたこともすっかり忘れて、ネオンは紙飛行機を飛ばし続けることに決めた。
といっても紙飛行機に関しては流石に熟達が足りないのだろう、何度も投げているうちには水平旋回や最初のようなループだけで着地したり、頭から突っ込んだりすることもあった。
そして何度かは、軽やかに滑り降りる姿をじっくりと見せつけてくれた。
一度そんなところを見ればもう一度、まだもう少しと、成功を貪欲に求めてしまう。
次第に要領を掴み、失敗が少なくなっていく。
飛行機はネオンの期待に応えて、跳ね上がった頂点で流れるように姿勢を変える。
黒い翼は空気の塊に乗って、ネオンに近付いたり遠ざかったり、気ままな向きに軌跡を紡いでいく。
望みどおりの長く淀みない飛翔が繰り返せるようになった頃。
投げ上げた機体が、不意の風に持ち上げられた。
そしてこの日最も高く飛行機が上がり、滑空に移ったとき。
黒いアクイーラが西から飛び立った。
金色の陽を浴びる二機はネオンの視界の中で交差し、視線の的が入れ替わった。
「おかえりなさい」
「ああ」
いつもどおり一旦降りてコーヒーを一杯だけ飲もうと椅子を引いたワタルの目に、見慣れない物が映った。
そのテーブルにワタルが着くと知ってネオンがわざと紙飛行機を置いておいたのだ。
ワタルの向けてきた目は丸く、ネオンが何か答えるのを待っている。指切りを知らなかったくらいだから、紙飛行機自体あまり見たことがないのかもしれない。
ネオンは紙飛行機を手に取り、飛ばせるように水平に持ってみせた。
「アクイーラですよ」
「何?」
少し強めに投げると、飛行機は浮き上がってから店の奥のカウンターまで届いて止まった。
ネオンはそれを拾い、一応納得した様子のワタルに差し出した。
ワタルは受け取りながら席に着いたが手はカップを取らず飛行機を持ったままだ。
ネオンの作った小さなアクイーラに注がれる眼差しは、柔らかなものだった。