デニムスカイ第九話
「モンシロチョウ -Hard Mode-」
 急いで上がってみると、幸いセンチネルはまだ見えないくらい遠かった。なるべく早く始めれば索敵段階からの本格的な試合にできる。
 管制を通して来訪者が話しかけてきた。
「こんにちは!テストパイロットのヒムカイ・ワタルさんはいますか!?」
 若々しい活発な声。
「すみません、今彼はいないんです。その、帰りが遅れておりまして」
「そっか、どうしよっかな……」
 風防の表示の中でセンチネルの位置を示す光点が接近を止め、左に向かい始めた。
「あ、あのっ」
 センチネルは離れていかず、横に進み続けている。
「ヒムカイさんと試合をしにいらしたんですよね」
「まあ、そうだけど」
 ネオンは短く息を吸い、大気の向こうの相手に問いかけた。
「代わりに、私と試合していただけませんか?」
 ネオンは、この相手をどうしても逃したくなかった。
 日下氏がわざわざ連絡してワタルの代わりを頼んだくらいだから、挑戦者に試合させず帰すのは失礼なことなのだろう。もし相手が断って帰ったらワタルの不利益になるかもしれない。
 そんな不安にもかられたし、それ以上に、ワタルに挑戦しようというくらい意欲的な相手なのだ。
 まだ見えないセンチネルはこちらに向き始める。
「いいよ、せっかく来たんだしシルフィード相手なら楽しめそうだ」
「よろしく、お願いします」
「よろしく!」
 空戦を管理するアプリケーションが作動。風防の光点が消えた。
 操縦把を握り込む細い手に、自分の脈動が感じられる。
 一気に上昇。
 広く水平線を見渡す。
 情報が遮断されるまでセンチネルは左にいたが、そちらに集中していてはいけない。
 どんな手を使ってくるか分からないのだから、思い込みは落とし穴になる。
 全ての方向に同じように、目に受けるものをありのまま捉えるべきだ。
 やがてうっすらと、小さな点が現れてくる。
 方角は、光点が消えたのと反対の右側。
 こちらを少しでも欺こうという工夫が、なぜか自分への思いやりのように感じられる。
 全力で上昇したのに、大きく回り込んできた相手も同じ高さだ。センチネルのパワーか、相手の腕か。
 決して相手から目を離してはいけない。
 機影が膨らみ色が見えてくる。
 鮮やかな赤の、目立つ機体。
 左翼を立て近づく。
 こちらも九十度横転。
 旋回では負けないはずだ。
 背後に食らいつくべく、
 背中合わせに回るが、
 相手は引き起し、
 すれ違いざま、
 太陽を突く。
 閃光で影が消える。目が焼かれ、追尾が断ち切られる。
 とにかく対処しろ。脳裏に響く。
 右下に突っ込む。
 一気に駆け出す。
 ここは逃げるしかない。
 白い残像が薄れる頃には、
 赤いセンチネルはすでに真後ろ。
 相手は遠く、まだ撃たれると決まってはいない。
 日光で旋回率の差を覆せるように位置を調整していたのか。
 空気を隔てた向こうでこちらを絶えず気にかけてくれるのが、嬉しい。

「いちいち面倒だな、こうやってこっそり帰るのは」
 飛行場を横切ろうとするトラムの中、席に身を預けるワタルは不平をもらした。視線は透明な天蓋越しに青空をなぞる。
 向かいの日下氏は深緑の帽子とコート姿。
 ワタルを調布のタワーまで運んだレイヴンは、今は畳まれて窮屈そうに隣の席にもたれかかっている。
「まだ誰も来てくれてないかも知れないだろう?あの子にもちゃんとした試合を楽しんでもらわないと」
「それはそうだ……って」
 ワタルは肘掛けに手をつき体を起こした。
 見開いた目は前上方の一点に釘付けになる。
「どうしたのかい、僕には見えないよ?」
「アロウだ、あいつ……」
「おやおや、まだ彼岸花には早いだろうに」
 視線は動かさないまま、ワタルは座り直した。
「大丈夫だ、二人とも笑ってる」

 右寄りに逃げ続ける。
 距離は縮まらず済んでいる。
 相手が少しずつ浮き上がってくる。
 いずれ内側に突っ込んでくるつもりだ。
 目印の乏しい晴天、動きを読みづらい。
 位置変動を予測しながら相手を睨む。
 赤い翼の切っ先がその予測から、
 逸れて落ちる。
 横転、ブレーク。
 相手は視界の右端。
 真下に滑り込んできた。
 こちらに鼻を向け、
 ズームアップ。
 腹を刺す気だ。
 内側に倒れ、
 バレルロール。
 弾幕から逃れる。
 急減速で追い越させられるか。
 相手は今、ネオンの力だけを見ている。それは、とても気持ちのいいことだ。
 赤い影は、
 真後ろ。
 動きを合わせられたのだ。
 悔しい。でも嬉しい。
 真心のこもった、
 弾を浴びる。

 息を切らせて降下を始めると、カフェのそばに人影が見えた。黒い飛行服のワタル。
 その前に向かい風に着陸できるよう緩く旋回する。が、赤いセンチネルが目の前に回り込んできた。ネオンはセンチネルの着陸を待たざるを得ない。
 ネオンが着地した頃には赤いパイロットは機体を畳み終えていた。
 真右に見える赤いパイロットは、ネオンとワタルの間くらいの年。やや短い髪の下の顔は少し幼く見える。
 その顔が、ネオンと反対に向く。
「ワタル!」
 声を上げ、ワタルを呼び捨てにしながら、赤いパイロットはワタルに駆け寄った。
「おい、先にあっち」
「あ、ああ」
 ワタルに顎で促されて赤いパイロットは振り返り、深々と頭を下げる。
「ありがとうございました!」
「あ、ありがとうございました」
 つられて下げた頭を起こすと、目の前に赤いパイロットの手が差し出されていた。
「僕は鬼塚阿郎(あろう)、横浜から来た。あなたはワタルに教わってるの?」
 赤いパイロット、鬼塚は、再びワタルを呼び捨てにした。ネオンは手を取る。
「は、はい。まだ一ヶ月と少しですけど。鏑木ネオンといいます」
「一ヶ月!それであんなにできるのはすごいよ!」
 鬼塚は目を丸くして高い声を上げる。ネオンの手を揺さぶる姿はまるっきり少年のように無邪気だが、ネオンには気になることがいくつもあった。
「あの、ヒムカイさんにお話があったんじゃあ」
「あ、そうだった!」
 鬼塚は慌ててワタルのほうに向き直り、調子をずっと抑えた言葉を発した。
「ワタル、横浜に帰ろうよ」
 空気が止まった気がした。
 どういうことかネオンには分からない。だが、それだけに嫌な感じがする。
「もうレイヴンの開発も終わったんでしょ?横浜からだってここに来るのは簡単だし、横浜のほうが強い奴がいっぱいいるよ。みんなワタルが帰ってきたら絶対喜ぶよ」
 鬼塚の口からは続けてネオンが考えもしなかった言葉ばかりが放たれる。
 自分のあずかり知らぬ理由でワタルは快く返事して、調布を離れてしまうのだろうか。つま先の冷えるような感じがする。
 ワタルは顎に手を当てて眉を寄せていた。
「そういう問題じゃねえんだよ、また次の機体の開発もあるし、そいつの世話にも時間かけたいし、それにな」
 ワタルは一旦区切り、顎から手を離して足を少し動かす。
「俺は、横浜だけに集まるよりは他のどこでも空戦が盛り上がるようにしたい。まずはここからな。それでそいつを世話してるんだよ。だから、横浜には帰れないな」
「そっか……。ワタルの言うとおりだ、今日知らない人とできてすごく楽しかったもん」
 鬼塚は肩を落とし、センチネルに手をかける。
「それ言いにわざわざ来たのか?」
 ワタルは苦笑する。
「ホントは試合したかったんだけど、二回戦はきつそうだから。また来るよ」
 鬼塚にはそこまで疲労した様子は見えないが、横浜までは若干距離があり、日差しも橙がかってきている。
 センチネルを背負った鬼塚は少し歩き、ネオンの前で止まった。
「すごくよかった。また今度やろう」
「はっ、はい」
 無邪気に笑う鬼塚に心からそう答えられるとよかったのだが、ネオンの胸には引っかかるものがあった。
 赤いセンチネルは南に戻っていく。その機影の輪郭が分からなくなってきたあたりで、ネオンは振り返ってワタルのそばに立った。
「お帰りなさい」
「ああ」
 ワタルは微笑しているが、それから続く言葉が、ネオンはすんなり出せなかった。
「どうした?」
「あの、横浜、って」
「仕事もらう前に住んでたんだよ。戻ったりすることは絶対ないけどな。試合、よかったろ」
 絶対に戻らない。その言葉がネオンを安心させ、
「はい。なんとか避けようとしたんですけど、全然敵わなかったです」
心の底からの笑顔でそう言うことができた。
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