デニムスカイ第五話
「Solid State Survivor -Item-」
 辛うじて雨に崩れずにいる雲のずっと上。ネオンは充分高度を取ったことを確認した。
 今回行う技は低高度では命取りになる。
 左横転。
 仰向けにぴたりと停止。
 すぐに上舵。
 頭から落下。
 恐怖を抑える。ただのループと同じだ。
 引き起こして半円降下完了。
 正確に反転したので、最初と正確に反対の方角を向いていた。
 二つの回転を組み合わせた曲技スプリットSを、ネオンは完璧にこなすことができたのだ。

 飛行場に立ち寄ると、試験機の機影は遠くの工房上空に見えなかった。
 代わりに真上に、ワタルの黒い愛機「E型センチネル」の姿がある。
 いつもの激しい試験飛行とは打って変わってゆったりと浮いている。
 と思ったがワタルはゆらりと左に傾き、
 渦を巻くように落ちた。
 息を飲むネオン。
 だが螺旋は崩れず、
 一、二、三、四、五旋転。
 ぴたりと回転を止め、平然と進む。
 わざとスピンしたのだと分かり、ネオンは息を緩めた。
 ワタルは脇腹をこちらに向け、翼を振った。合図だろうか。近付きながら降りてくる。
 着地したワタルが機体を外すのを待ってから、帽子を取ってぺこりと頭を下げた。
「お久しぶりです、ヒムカイさん」
「調子は?」
「おかげ様でとっても上手くいってます」
「ならよかった。今日は俺の役目はなくてな。日下さんは徹夜だろうけど」
 ワタルより開発者本人のほうが忙しいのは当然かもしれない。
「徹夜って、そんなに大変なんですか」
「まあ俺も明日からますます忙しくなるよ。日本一のやつを作らないといけないから」
「日本一?」
 ネオンはつい聞き返した。
 日下氏の工房はこじんまりとした素朴な所である。急に出てきたそんな高い目標とは簡単に結び付かない。
 飛行場でも、日下氏の機体開発について話す声は聞かれなかった。
「話してなかったか。今作ってるやつ、空中交通警察隊に使わせるやつなんだよ」
 ワタルの口元に凛とした笑みが浮かんだ。
「空警隊が次に使うフリヴァーを公募しててな、何にでも対応できるように最高のやつをよこせって。俺が使ってるのも俺が来る前に日下さんが作ったんだけど、前回の公募のとき採用されたんだ。だからそのとき日本一だったのは、こいつ」
 イメージに合わないどころか実績があったのだ。それも、技師は日下氏一人だけの工房で。
「日下さんって、すごい人だったんですね……」
「まあな。トップメーカーが何ヶ所も出るんだけど、俺も日下さんもできることは何でもやってるよ。こいつの後継機なんだから、そりゃ最高のもんにしないとな。俺はこれが初仕事だけど、全然きつく感じないよ」
 ワタルの目の輝きは、彼が何週間も休みなく働いていることを忘れさせた。いや、むしろ自分が最高だと信じられる仕事に打ち込んでいるからこそなのだろう。
 初めて目標というものを持ったネオンの胸にも光るものが芽生えた。
「今試験してるのよりももっとすごくなっちゃうんですよね。完成したら飛ぶところを見せてくれますか?」
「ああ、お披露目みたいなこともやるだろうからそのときにな。楽しみにしてくれんのか」
 ワタルは再びE型センチネルを身につけ始めている。
「もう一飛びするから。最近ずっと練習できなかったし」
 ワタルにとっては数週間ぶりの休みだ。本来なら降りて立ち話する時間も惜しかったのではないか。
「ごめんなさい、貴重なお休みなのにお邪魔して」
 しかしワタルは鼻だけで笑う。
「お前がいてよかったよ」
 そう言い残してヘルメット部分を被り、すぐに飛び立った。
 今の話ができたことがだろうか。わざわざ降りてきてくれたのも自分と話がしたかったからか。
 置き土産のような一言のおかげで、ネオンはいつにも増して空中のワタルから目が離せなくなった。

 曇り空では夕方暗くなるのも早い。あまり帰りを粘ることもできなかった。
 特別に大きくはない家。円柱形をしたベージュの壁、上側が円くなった枠の太い窓、三角帽子の屋根、花壇。
 母親の好みそのものだが、中の本人は今このドールハウスに似つかわしくない振る舞いをしているに違いない。
 主役の人形が見つからないのでは当然か。
 玄関を開けると案の定、神経質な声が漏れ出してくる。
「おかしいと思わないの?今日だってこんなに遅くまで帰ってこないじゃないの、あんな野蛮で危ないものに……」
 そこで気付いた母親は、忍耐をにじませた父親からネオンに向き直った。時刻は午後五時半。
「ネオンちゃん、今日こそははっきり言わせてもらうわよ!もうそんな遊びを続けさせるわけにはいきませんからね!」
 無視して部屋に進む。
「待ちなさい!聞いてるの!?ねえ!」
 肩をつかむ手を振りほどき、ますます尖った声を後ろに扉を閉じた。
 椅子に腰掛け、大きなため息一つ。
 木材に似せられた窓枠には無機質なフィルムカーテンがかかり、頭板に薔薇の彫刻の施されたベッドには無愛想な機能性シーツ一枚。豪奢な曲線を描く棚板は空っぽ。
 すぐ取り替えられるものだけ替えた、ちぐはぐな光景だ。
 分子プリンターに指を向け、比較的高価な合成食を注文した。数秒で温かいオムライスの体裁をしたものがプリンターの上面から出てくる。
 値段に見合ってある程度凝った味わいをしているが、生き物から作った普通の料理にはまだ及ばない。
 学校の勉強もそれなりにこなして数時間、もう寝てしまおうとしたとき父親からの通話が来た。
「もう寝るの?」
「うん。お父さん、いつもごめんなさい」
「気にしなくていいよ。荒療治になるけど、いつかはお前とお母さんの関係を変えなきゃいけないんだからね」
 画面越しにネオンは小さくうなずいた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 ワタルにメッセージを送ろうかと考えたが、手間をかけさせることを考えて控え、床に就いた。
 大分早い時間だったが、これで翌朝も母親が起きるより早く登校することができる。一日分のカリキュラムを済ませてから教習に費やせる時間も増える。
 家で過ごす時間は余計で、息苦しい。
 支えのない空中でだけネオンは解放される。

 さらに教習の回数を重ね、梅雨の合間。
 基本的な曲技はほぼ完了していた。
 ここまで毎回楽勝というわけにはいかなかったが、初めてループに挑んだ日の挫折はずっと昔のことのように感じられる。
 教習を終えて着替え、いつものように飛行場の駅を降りた。
 無論ワタルの機影は飛行場の中心部ではなく、工房の方角にある。
 開発完了の待ち遠しさは別の意味を持ちつつあった。
 カフェに近づくと、大きく開いた入口の外側にあるテーブルでは三人のパイロットが談笑している。空いていれば、試験機の見えるそこで教習内容を復習したかった。
 パイロットの一人がこちらに視線を向けた。他の二人も続く。
 三人はお喋りを止めて椅子とテーブルを鳴らし、慌ただしく席を立った。
 頭を下げるネオンに、後ろの一人がぎくしゃくとした会釈を返す。ネオンと言葉を交わすこともないまま三人は店内に引っ込んでいった。
 ワンピースの袖や大きな帽子の鍔から白い肌と赤い目を覗かせる少女。ネオンは学校にいるとき以上に異物として見られているに違いない。
 ワタルの影はずっと遠く、ネオンの他に見つめる者はない。
 それでも真っ直ぐ家に帰るよりはずっとよかった。

 やがて梅雨も明け、教習も終了して最後の試験を受けた日。ネオンは飛行場ではなく商業フロアに寄り、帰宅は夕方遅くなった。
 玄関を開けると、振り向いた母親が凍り付くのが見えた。
 白く輝く長い髪は、母親にとって美しい愛娘の象徴だった。それはネオンにもよくわかっている。
 当然、それを切ることの意味も。
 母親の顔は醜くゆがんでいく。
 わめき散らすだけで済みそうもない。左奥に自室の扉がある。
 一気に踏み出して母親の脇をすり抜けた。背中に一瞬指先が触れる。
 手が届きはしなかった。父親がとっさに取り押さえたおかげだ。
 言葉を成さない叫びが、閉めかけた扉の外から聞こえる。さらに父親の怒鳴り声が混じった。
「いつまでまま事を続けるつもりだったんだ!」
 母親が矛先を父親に向け始めたのがわかった。
 表面的には平和だった家庭が、自分の手で打ち砕かれた。
 起こした嵐から隠れるように、ネオンはベッドに潜り込みうずくまった。

 翌朝早く。
 目を覚ましたネオンは、部屋の中に届き物が二つ浮いているのを見て跳ね起きた。
 最初に目を引いたのは、青い球を基調とした複雑で鮮やかな立体画像。簡単なアプリケーションが付随している。
 ネオンの胸は一瞬熱くときめいたが、もう一方、紙状の画像に付いた見出しがその喜びをすぐに押し流した。
 端をつかむようにして引き寄せる。フリヴァーに関するものを受け取るようにしていたニュース速報である。
<次期空中交通警察隊採用フリヴァー、五栗工業製「王鷹」に決定>
<日下航空工房製「スーパーセンチネル」性能で圧倒するも予算面から採用見送り>
<−選考会の公表では、性能が非常に高く評価されたスーパーセンチネルではコストが高額すぎ、空警隊にとって最大の費用対効果を発揮する機体は王鷹であるとのこと。−>
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