デニムスカイ第四十九話
「Summer '68 -Legend-」
 誰よりも深くフリヴァーについて理解している二人にとって、試験は当たり前のことを冷静に済ませる用事程度のものだった。
 曲技試験の際は多少の風があったにも惑わず、コンパスと定規で引いたように正確に課題シークエンスをこなすことができた。設問はそれなりに量があったが、全て普段話し合っているような内容を整理して答えればよかった。
 その翌日の夜。
 軽く肩を叩かれて右に向くと、ユカリがうつむき気味に何か報せを見せていた。
 試験日の通知が届いた時と同じでワタルは気が付かなかった。もはや参考にもならないログの編集に打ち込む癖が、未だに抜けていなかったためだ。
 沈んだ様子が良くない結果を連想させる。そんな出来ではなかったはずだが。
 すぐに自分に届いた方を開くと、中央にあったのは「合格」の二文字。ユカリのものも同じだった。
 文字の縁が煌めいている気すらする。いや実際に装飾効果でそうなっていたのだが、広告画像によくあるようなものよりはるかに尊く見えた。
 これこそこの三年余りの成果が公に形をとったもの、次の段階に進むための鍵である。
 それを揃って手にしたというのに、なぜユカリの顔が曇っていなければならないか。
 ワタルが通知から顔を上げると同時にユカリが口を開いた。
「前、協会のお仕事のときに、日下さんっていう人と知り合ってね」
「くさか……、日下航空工房の?」
「そう。センチネルEを空中警察隊に納めたばっかりでしょう。これからっていうときなのに、出向してたパイロットの方が引退しちゃうんですって。それでね」
 ユカリは合格通知を消してきちんと座り直すが、視線は落ちたままだ。
「ワタル君のこと話してみたら、すごく興味持ってくれてね。もし本当にテストパイロットになったらぜひ来てほしいって。調布の工房にね」
「調布か」
 調布飛行場はタワーから近い割に広々としていて良い場所であるにもかかわらず、盛り上がりに欠け、空白地帯になっていると聞いていた。といっても日下氏ものびのびと開発を行っていて、そこで働くのであれば恵まれた環境であるといえた。
 何よりE型センチネルが空中警察隊に採用されたということは、空戦能力が最も高い機体と認められたということである。今後もそのような空戦指向の特に強い機体を作っていくのなら、ワタルにとってこちらから願い出たいくらいだった。
「日下さんの連絡先は?」
 ワタルが聞くとユカリは無言で手を差し出した。手の平で受け止めてデータを貰う。
 なるべく早く、今夜中にでも連絡しよう。ワタルは話さえ付けばすぐにでも調布に移り住むつもりになっていた。そういえばここは元々ユカリの家だ。
「お前はどうする?残る?」
 ワタルがそう聞くとユカリは顔を上げたが、目を見開いても表情に力は入らなかった。
「うん、私もね……、ナドウモビリティのほうから、早速声がかかっててね」
「ああ、ならよかった。所沢か」
 何気なくそう返したワタルからユカリは顔を逸らした。一瞬目の端の光が見えた。
「そうね、まあ、なんとか」
 くぐもった声でつぶやくのが聞こえた。
 それでやっと、ユカリがうつむく訳がワタルにも分かった。
 今の生活はプロになるための通過点だと、ワタルは考えていた。しかし訓練に打ち込めるようにと同棲を誘ったユカリのほうはそうではなく、ワタルとの暮らしそのものも大切だと思っていたのだ。
 鼻をすする音が一度だけした。
 ユカリが振り返ると、握って丸めたような笑顔がそこにあった。
 はーっ、と声に出して深く息を吐く。それに合わせて体から力も抜けていくようだ。
「なんか、肩の荷が降りたって感じ」
「お前さえ良ければ、俺は別に、調布に住まなくても」
 慌ててかけた言葉はユカリの冷めた視線に遮られた。
「駄目よ、プロになってまで甘えないの。大体一緒に住んでたこと自体あんまり知られない方がいいくらいでしょ?ワタル君は新しいところに進まないと」
 つい今しがたまでの弱々しさ、それにワタルが狙撃を成功させて以来なんとなくまとわりついていた気弱さまで、ため息とともに抜けてしまったのだろうか。敵う者の無かった頃の自信にあふれたユカリ、そのものの口調だった。
「じゃ、ついでだからこの際ばらしちゃおっかな」
 ユカリがそう言った直後、周囲が並んだ文字で埋め尽くされた。
 部屋の床から天井、一方の壁からもう一方の壁まで届くそれは、膨大な量を含むログのリストだった。全て編集者の欄にユカリの名があり、ユカリが編集した状態では公開しないよう設定されている。その数はワタルが一年近くかけて見る量に匹敵した。
 一つ選んで開くと、その試合の展開が一目で頭に入った。ずっとログのまとめに取り組んでフライトログというものの扱われ方そのものを変えてしまったワタルにも文句のつけようのない出来である。
「俺が飛んでた間に?」
「うん、アロウと試合してたときとかね。でも、全然追いつかなかった」
「目の」
「目のせいじゃないわ、きっと」
 ユカリは声に力を込めてワタルの言葉を止めた。
「ワタル君ほど早いうちからやらなかったからとか、その割に量がまだ少ないとか、きっとそんなことよ。ね?」
「あ、ああ」
 次第に調子を柔らかくしていったが、ユカリのほうがワタル本人以上に瞳の色のこと、それにワタルの能力のことを重く受け止めているようにも感じられて、ワタルはそれ以上何も言えなかった。
 ユカリはもう一度、今度は声を出さずにゆっくりと深呼吸した。
「合格おめでとう。って、まだ言ってなかったわよね。おめでとう」
「ああ……、ユカリも、おめでとう」
「そうよね、ちゃんとお祝いしなきゃ。すごくおめでたい事なのにこんな暗くしてちゃ駄目よね!飛行場のみんなにも早く教えてお祝いしてもらわないと!」
 立ち上がって連絡の準備をしながらどんどん声を明るくしていくユカリに対し、無理をしているのではないかとか、気遣いが足りなくてすまなかったとか、そう思っても口に出すことはできなかった。だからといってただ何も言わずにいることもできず、たった一言、本当にかけておかなければならない言葉だけを発した。
「今までありがとう」
「うん、私の方こそ。あ、でも最後に一つだけアドバイス」
 こちらに向き直って、すっかり落ち着いた微笑を見せる。
「横浜を離れるから後は任せるって、ワタル君からアロウにちゃんと話してね」

 翌晩、豪華な料理の並ぶ合格祝いの席から鬼塚一人だけ立ち上がった。
「えっ……、それって」
「ああ、言ったとおりだ。俺はこれからは調布で飛ぶことになるから、こっちはお前に任せる。お前ならもう充分だろ」
 テストパイロット認定試験に余裕で合格したユカリにも勝てるのだ。充分どころか、鬼塚ほどのパイロットはそう簡単に見つかるものではない。
 ワタルとユカリが揃って去ったとしても他の飛行場からの挑戦者を圧倒でき、皆に教えるにも困らないだろう。
 そもそも、すっかり格差が開いてしまった今となっては、共に練習する機会もワタルに立ち向かっていく意欲も皆からは失われていた。
 ワタルがいてもいなくても、他のパイロットにとっては何も変わらない。知らずのうちにそれほどの断絶ができていて、ワタルが何をすると言っても遠巻きに見守るしかないのだ。
 それを皆、ワタルを含めて、よく分かっていた。
 ただ一人鬼塚だけが、素直すぎる皆の態度が理解できず立ち尽くしていた。
 もう席に着けと隣の男が袖を引く。鬼塚は無視したか、あるいは気が付かなかった。
「調布からでもこっちに遊びに来れるよね?」
「分からない。忙しくてできないかもしれないし。まあ、」
 ユカリがわざわざ助言したとおり、ここで言わなければもう言う機会などない。
「俺に勝てる自信が付いたら呼んでくれよ。それなら来る甲斐があるからよ」
 一旦鬼塚の頭がゆらりと傾き、その動きのまま席に着いた。が、それでも矛先が隣のユカリに向けられただけだった。
「姉さんは、それでいいの?あんなに仲良くしてたのに……」
「私は、ワタル君のために」
「一緒に住んでたくらいだったのに、どうして!」
 今度はワタルが椅子を跳ね飛ばす番だった。
 ユカリが抑えたおかげでそこで留まることができたが、皆の視線と沈黙は押し留めることができなかった。
 当のユカリただ一人が、冷静を保って鬼塚と向かい合っていた。
「そうね、一番初めからあなたにも話して相談するべきだったわ。ごめんなさい」
「そうだろ!?だから」
「私達が出ていくことを、じゃないわ」
 コップの水を一口飲んで途切り、また続けた。
「ワタル君と一緒に暮らす少し前のことよ。一度だけ、ワタル君のお母さんが飛行場に来たことがあるの」
「何だって」
 ワタルすら知らなかったことだ。
「たまたまワタル君が飛んでて、私しか会わなかったのよ。それで、ワタル君は免許を取って間もないのにすごく上手いって誉めたんだけど……、ワタル君のお母さんは何も言わずに帰っちゃったの。ワタル君がいくら頑張ってても困るだけ、って感じだった」
「それは、そうだっただろうな」
「ワタル君がもっと心を開いてくれるようになんとかしたいって思って、それで練習のためにって言って私の家に住むように誘ったのよ」
 それなら効果はあったと、少なくとも人の目を見ることが以前ほど恐ろしくはなくなったとワタルは自覚していた。
「でも、逆効果だったかもしれないわね」
 鬼塚の眉間にはまだ不快さが詰め込まれていたが、もうそれをぶつけてくることはなかった。

 ほどなくして鬼塚は機体をセンチネルD型からE型に買い替えた。色は元のオリーブ色ではなく、誰であろうとすぐに見つけられるような赤一色である。にも関わらず、鬼塚はもはや滅多に負けることはなくなっていった。
 またユカリが早速シルフィードの開発に参加したのもほぼ同時であった。しかし、協会で活動することは止めていなかった。
 ワタルに追い付くにはワタルの切り開いた領域に同じように進めないといけない。そのためにワタルと同じ目が必要なのかは分からなかったが、少なくともワタルと同じだけの経験を踏んだ若者が現れる必要はある。ユカリはそう考えていた。
 そのためにまずワタルが考え出したものをユカリが練り上げ、協会に提案して進めていた計画が「見えない大会」だったのだ。

 そして、ユカリが手掛けた二つ目の新型機の型式審査が終了したすぐ後。
 ネオンは所沢の、飛行場の中心にある博物館ではなくナドウの試験センターに呼ばれた。
 半円筒形の透明な壁は博物館の塔のように巨大ではないが、三階分の高さの空間に陽光をたっぷりと取り込んでいる。空から近付くネオンの様子が中からよく見えるだろう。
 しかしネオンが案内を受けたのはその裏手、日陰になった何もない平面の壁だった。
 残暑も収まりかけてひんやりとした影の中に降り、駐機場にシルフィードを立てる。それと同時に、壁の中心が収縮して小さな入口が現れた。
 中は全くの暗闇で様子は一切見えないが、そこが格納庫であることはすぐ分かった。
 踏み込むと背後でシャッターが閉まり、中央がほの明るく浮かび上がった。
 そこにあったのは、二機の、白と菫色のフリヴァーだった。
 広げたままの翼を並行に並べて佇んでいる。
 ネオンは一瞬、白い方を見慣れた愛機かと思ってしまった。それほどよく似ていたのだ。
 もちろん本物は外にある。それに、シルフィードとは全く異なる機体であることを、各所の形態が示していた。
 長く突き出した風防は全く突出部のない背中に連なる。降着装置は深くカーブし、鳥類的な印象をますます強めている。
 翼端の分岐は四つに増し、後方のものほど強く反り上がっている。
 そして、垂直尾翼は存在しない。
 同じように尾翼を失った日下のアクイーラと同じ結論に達したらしい。あるべきものがない違和感など感じられず、全ての要素が完璧に調和しているように見えた。
 鋭く力強く、そしてその力をあくまで理性的に扱い尽くす、理想のフライトを思い起こさせるデザイン。
 二色の機体とそれに見入るネオン、丸い光の島は闇の中に浮かびながら静かな時間を包み込んでいた。
 その薄膜を緩やかな足音が破り、そっと侵入者が現れる。
「シルフィードを作ったときはね」
 ユカリがゆっくりと話し始めた。
「ワタル君に敵うようなのができたらって、ずっと思いながら飛ばしてたわ。今度は、ワタル君とあなたのことを考えてた」
 聞きながらネオンの手は、自然と白い新型機の降着装置に触れていた。ユカリはネオンを真っ直ぐ見つめている。
「これの、名前は?」
「スパンデュール。空の妖精」
「スパンデュール……」
 繰り返す音を胸に刻んだ。
「伝承では、スパンデュールは空の妖精なのに翼がないの。それで、空に行くために飛行機にこっそり乗っていたんですって。このスパンデュールの本当の翼は、どこにあるか分かる?」
 これとよく似た質問を、免許を取る前にワタルから受けたことがあった。
 ネオンは自分を指差し、ユカリは満足げな頷きを返した。
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