デニムスカイ第四十七話
「rats walks my forehead slowly -Status Ailment-」
 梅雨が明け乾いた空を、挑戦者の機体が進んでくる。色はまだ判別できない。
 まばらな雲は相手の視界だけを遮り、相手がこちらに気付く様子もない。容易く軌道を予測できる。
 姿勢を調整。
 発射。
 同時にダイブ。
 外しても威嚇の効果がある。間髪入れずに襲いかかれば有利なままだ。
 その配慮もいらなかった。すぐにブザーが届く。
「ほ、本当に」
 相手からの通話。
「今喰らったとおりだ」
「噂どおりか」
 元来た方角へターンしながら、相手はそう言い残して通話を切った。
 どんな噂が立っているというのか。いや、聞かなくてもワタルには大体分かっていた。
 この頃の挑戦者は皆ワタルの狙撃の実験台となり、大半は見事に命中して、その驚異を確かめて帰っていった。もし外したとしても、ワタルは必ず相手の動きを読んで先手を打ち、優位を崩さなかった。
「終わった?」
「ああ、こっちはすぐ始められる」
「じゃあ、お願い」
 今回も、練習のための時間を挑戦者に費やさずに済んだ。
 ワタルは速度を落とさず、ごく緩い旋回に入る。背後でユカリが飛び立つのを確認し、さらに離れていく。
 充分離れて、ユカリを示す光点が消えた。
 頭を上げながら横転、素早く振り返る。
 労せずしてユカリは見つかったが、あちらからはまだ見えていないだろう。
 ユカリには最初の狙撃以来、二度目を放ってはいない。
 撃てばきっと当たる。それが分かりきっているだけにもどかしい。
 距離さえ詰めれば対等に持ち込まれる。そうすれば、むしろ他の相手より楽しめる。逆に、近付くまではどんなに有利でも一切手を出すわけにいかない。
 ユカリも遠距離射撃ができるようになったら一体どんな試合が展開するのか。いくら想像を巡らせても、ユカリの目がこちらに届く気配はない。
 これが終わったら次は試合ではなく曲技の練習にしよう。そんな風に考えることも増えた。

 その日は試合と曲技、半々ずつの時間をかけて練習を終え、タワーに戻った。
 先に進む菫色の機体が目の前にある。
 ユカリの操縦が、ワタル自身気味悪いと思うほどよく読み取れた。翼の変形の度合いまで、測ったように分かる。
 それは自分の機体にも向けられており、翼の傾き、先端や前後縁の向き、厚みの変化、全て指先のように細やかに伝わってくる。
 同じくらい練習しているユカリにそこまでの感覚が備わっていない以上、原因は二つしか考えられない。
 大量のログを編集していること。それに、濃紺の瞳。
 純粋に目の色だけが原因なら練習量を増やす前からその気配があったはずだろう。実際はその逆で、ユカリに対して全く勝ち目がなかった。
 それに、当時ワタルほど大量のログを詳しく見ている人物はいなかった。皆自分の試合にちょっとした覚え書きを加える程度で、協会でもそこまで丁寧な説明の付いたログを保管するのは初めてのことだった。
 フリヴァーの動きを最も理解しているのはワタルだったと多くの人が認めただろう。
 それでもワタルは、自分の眼球を疑うことを止められなかった。
 両親から十五年間受けてきた扱いは、自分の瞳を忌むべきものとしてワタル自身の根底に刻み付けていた。
 今前を行くユカリは、これに気付いているのだろうか。
 そんなことは読み取れないまま、ユカリは発着場に吸い込まれていく。

 数ヶ月後。
 同じ横浜のタワーにある飲食店に、飛行場のパイロットほぼ全員が集合した。
 飛行服姿で店の一角を占める集団はそれなりに異様ではあるはずだが、個々の晴れやかな表情が印象を和らげていた。
 皆一つのテーブルを囲んでグラスを手に持ち、最も上座に付いたユカリに暖かい視線を送っている。
 やや年長の、丸顔のパイロットが音頭を取ろうとする。
「えー、それでは!ユカリさんの立川曲技大会準優勝という、横浜飛行場初めての快挙をいわ」
「乾杯!」
 誰かのフライングに合わせて快音が響く。幹事の困惑と抗議の声も笑いにかき消された。
 一際高い笑い声は鬼塚、ほとんど聞こえない程度の含み笑いはワタルのものだ。
 この当時、立川飛行場の曲技大会はショー要素の薄い個人競技で、チームを持たない者でも参加して腕を奮うことができた。ユカリが積み重ねてきたものを披露した結果が、地元のパイロット達に食い込んでの準優勝だったというわけだ。
「すごかった、完全に見とれちゃったよ俺!」
「横浜のレベルもついにここまできたか、って感じだね」
「今回の映像で飯三杯いけるよ!」
「古いねえお前は」
「お前はいけねえの?」
「いける!」
 皆その成果を大歓迎し、ユカリを称賛すると同時に仲間として感謝していた。未成年者も多いので酒は入っていないが、充分喜びを分かち合っている。
「ユカリさんはホント、ぐいぐい上達してくれてるよね!おかげでみんなも色々教わってるしさ、ワタル君もだけどさ」
 鬼塚は皆の言葉にしきりに頷き、誰よりも柔らかい微笑みを浮かべていた。
「本当に、今まで姉さんのフライトを見てこれてよかったよ。すぐ近くで見れること、ありがたいと思わなきゃね」
 その一言に、ユカリは少し懐かしいような妙な感じを覚えた。
「何よ、最近ずっとワタルワタルって言ってたくせに」
「姉さんこそ何だよ、今日は姉さんが頑張った日なんだから当たり前だろ?」
「そうそう、そのとおり!今日はおめでとう!」
 先程仕切れなかった幹事が急に立ち上がって、大きな拍手を響かせた。すぐに他のパイロットもそれに続き、テーブルが万雷の拍手に包まれる。
 合わせた両手で照れ臭そうに口を覆うユカリを、その場の誰もが同じように祝福していた。ワタルも、素直にそう思っていた。

 帰りのエレベーターはそれほど混んでおらず、同心円状に座席の並ぶ半円形の内部が広々として見えた。
 一人暮らしで高くない階に住んでいるパイロットが多く、他のパイロットが次々と先に降りていく。
「送るか?」
「ううん、大丈夫。おやすみ」
 家のある階で降りていくユカリをワタルは見送った。同棲していることを、一応伏せているためである。実家のある階まで上がるふりをしなくてはならない。
 最後まで残ったのは鬼塚とワタルだった。
 先程まで皆に見せていた笑みは、鬼塚から消えていた。
「ねえ、どうして出なかったの?」
 顔を見ないまま、抑揚を付けずに鬼塚が言う。
 優勝したのはまだ丹羽とチームを組む前の出黒沢で、ワタルは出場をひかえていた。
「ワタルが出たら、絶対優勝できたよ」
「いや、試合じゃなくて操縦の腕を競うんだから、ユカリを立てたほうがいい。テストパイロットになろうとしてるんだから。それに俺は、曲技の方はあそこまではできないよ」
 試合ではワタルが優位だったが、操縦の細やかさ、挙動の美しさではユカリが勝っているとワタルは自覚していた。
「嘘だ」
 鬼塚の声に低く力がこもる。
「姉さんにも勝てたんだ。ワタルは、特別なんだ」
 その一言だけ残して、エレベーターを出て行った。
 次の階ですぐにワタルも降り、下りの方に向かう。
 特別。
 本当に「特別」であったら、ワタルにとってどれほど残酷なことであろうか。
 ホールの中を秋の夜風が吹き抜ける。

 家の扉を開けるなり、ユカリの両腕が飛び出してきた。
 かわしたり抗言する隙もなくワタルの体はからめ取られてしまう。ユカリは飛行服から薄い部屋着に着替えていて、ほんのちょっとの間に飲んだのか吐息からアルコールの匂いをさせていた。
「本当に、ありがとう」
 静かに囁く。
「俺は何も」
「いっぱい練習に付き合ってくれたもの。ワタル君がいなかったらこんなに上手くなれなかった」
 そう言って、また顔を覗き込もうとする。顔を逸らそうとしても、今度はユカリの腕がしっかりと頭に巻き付いていた。
「今日くらいはちゃんと顔見て?」
 もう目の色に気付かれてしまう。それでユカリも気味悪がって離れていってしまう。
 それを恐れるワタルの脳裏は、空中でも久しく感じることのなかった眩暈に襲われた。
 が、次の言葉でそれはかき消された。
「その目、綺麗よ」
 また別の混乱が訪れたが、今度は嫌な感じはしない。ユカリはとっくに濃紺の瞳に気が付いていて、その上でおかしいことなど何もないと考え、しかしワタルが引け目に感じていることもよく分かっていたのだ。
 自分の瞳の色に対して初めて優しい言葉がかけられた。初めて、瞳の色を許された。
 強張っていた首や肩の力を抜くと、ユカリの唇が近付いてきた。それを避けるつもりもない。
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