デニムスカイ第四十六話
「Long Distance Runaround -Instant Death-」
 それから半年後、ワタルがユカリと暮らし始めて一年。
 ユカリは雲間から漏れる陽光を浴びて機首を上げ、ループに入る。ワタルはそれをカフェから横目で眺めていた。
 正円を描いて始点に戻っても、まだ姿勢を変えず次の一周へ。その中心がぶれることはない。
 さらに回転を続けて、三度目を終えるまで狂いはなかった。
 激しい空戦や華やかなショーではなく、テストパイロット試験に向けて正確な操縦を目指している。
 ワタルの正面に置いたログにも、実に的確な解説が加えられていく。
 一日三個から六個に増やしたノルマもすでにじっくり推敲する余裕ができて、すっかり手慣れたものだ。
 ノルマを増やしたのは、ユカリの助言によるものである。
 ワタルが自分の知らない手を織り交ぜてくるのを受けて、多くのログを見ることが本当に効果があるとユカリは見抜いたのだ。
 以来、ワタルは飛んでいるかログとにらめっこしているか、常にどちらかしかないというくらいになってしまった。
 ユカリが今、軸の全くぶれないロールをのびのびとこなしているのも、ワタルの収入が増えて余裕ができたおかげともいえた。
 そのユカリから不意に通話が入る。
「この後、お願い」
「ああ」
 それだけ言い残すとユカリは左に旋回、速度を上げて去っていった。互いに見えない状態から索敵を行い、しっかりと試合をするつもりだ。
 目の前のログが片付くまで作業を続けると、ちょうど頃合いで仕上がった。
 席を立ち、機体を持って外へ。管制はユカリを南東に示す。
 離陸するとすぐにその光点が消え、試合が始まった。推力と上昇率は最大を保つ。
 位置情報の表示こそ消えたが、ワタルには光点の続きが見えるような気がしていた。
 最近、毎回このような感覚を得る。
 初めて横浜に来た挑戦者でもその打ってくる手には見覚えがあり、自分がまとめてきたログのいくつかをぼんやりと思い出せた。
 それがいつも正しいという確証はワタルにはまだ持てなかった。しかし、今回は比較的自信がある。
 ユカリは消える前に向かって右にずれた。
 左バンク、緩い角度でダイブ。
 ユカリに見えづらい範囲へ滑り込む。自分からも視界の隅になる。
 当たりをつけたところを警戒し、しかしそれ以外にも注意を向けて。
 予感は的中した。
 ユカリは前方左上、回り込んできた。
 前に綿雲が一つ。これは使える。
 頭をさらに下げ潜り込む。
 見えないユカリの道筋が分かる。
 雲の肌に合わせて右に引き起こす。
 脇腹が見える。
 発射、
 ユカリは消える。
 急横転で回避した。
 ワタルはユカリの上まで飛び込む。
 速度を失いながら、さらに横転。
 右の翼が真上を向く。
 引き起こすユカリが見える。ワタルと逆に加速している。
 再び落下、襲いかかる。
 ユカリは右急ターン、
 すでに見えていた。
 深く横転、発射。
 弾道とユカリが見事に交差した。
 このようにしてワタルがユカリに読み勝つのも、珍しいことではなくなっていた。
 ふと時刻を確認すると、いつも鬼塚が現れる頃だった。

 頭一つあった身長差は半年で三分の一に縮まっていた。それでも着地した途端両腕を振り上げて跳んでくる様や、屈託のない笑顔はあまり変わっていない。
 変わったものといえば、鬼塚の向ける憧れの矛先だ。
「すごいすごいっ!今の先読み、完璧だったよ!そのうち姉さんでも相手にならなくなっちゃうんじゃない?」
「失礼しちゃうわね。……まあ、今でもみんなそうなのよね」
 ユカリはそう言って、鬼塚の後ろに苦笑いを向ける。後からついてきたパイロット達も全くそのとおりだと、頭をかいて締まらない顔をしている。
 だが持ち上げられているワタル本人は、全く表情を崩さない。
「まだ状況によって五分五分ってところだ。相手にならないなんてことはないよ」
 誉められて素直に喜ぶことを、調子に乗ることとワタルは捉えてしまう。
 しかし鬼塚の言葉は、子供じみた買い被りなどではなかった。

 梅雨が始まる前の最後の試合は、ワタルが離れてからユカリが迎え撃つ段取りとしていた。
 雨雲はすでにタワーから見る空中を灰色に塗り潰している。
 そこから飛び立ち、上まで出てしまえば雲の表側は白く照り返してくる。パイロットにとって特権的な空間。
 自分は隠れたまま、相手には頭を出してほしい。雲海を滑りながらの我慢比べだ。
 雲の皺を全て見逃さず、一瞬で距離を測り点検していく。
 その一つに胡麻粒のような影が現れたとき。ワタルにはそれがとても近く感じられた。
 そして、自分がそう感じたことを疑問に思った。
 実際には見ているものがどれだけ離れているか、よく分かっているからだ。射程距離の三倍はある。
 撃ってみたら当たるだろうか。
 外せば通り過ぎた弾がユカリに見つかって、試合が終わるなり何という無茶をするのかとからかわれるのだろう。今からその声が聞こえるようだ。
 そのくらいのリスクなら別にやってみてもかまわない。
 ユカリにはまだこちらを見つける気配はない。
 辿っていく道筋が容易く読める。
 ほんのごくわずかに頭上げ、右回頭。弾道を重ねる。
 発射。
 一秒後、
 ブザー。
 ユカリは何事もなかったかのように進み続けている。
「え、何?」
 試合が終わったことには気づいたが弾が当たったのだとは思わなかったのだろう、何が起こったのか不思議そうな声が届いた。

 本格的に雨ばかりの日々が、すぐに訪れた。
 ユカリは協会に出かけて、家の中にはワタルしかいない。日中も篭りっきりでログの編集ばかりしている。
 それも、以前に見たものをまた見直しているだけだった。ここのところ試合数も少なく、提出すべきものはとっくに片付いていた。
 あれ以来再びユカリに狙撃を試してはいない。
 まぐれだったのか確かめるためにも、もっと試せば確実な技となるのではないかとは思っている。
 しかし、あんな試合ではお互い機動や状況対応の訓練にはならないだろう。
 外から来る挑戦者相手ならいい。それなら早く済ませて自分達の練習に打ち込める。そう考えてみても、この空模様で晴れ間にわざわざやって来る熱心なパイロットは見当たらなかった。
 試合が終わった後。
 鬼塚はワタルに飛びついてはしゃぎ、比べるもののないワタルの技術をしつこいほどに誉め讃え続けたが、鬼塚の高い声は全てワタルの耳をかすめ通るばかりだった。
 鬼塚の言葉に頷くユカリが、どこか寂しそうに見えた。その力無い表情が未だに引っかかっている。
 ユカリがそばにいることに慣れすぎて、つい眼を見てしまったのだろうか。
 舌打ちが漏れる。なぜかは分からない。
 せっかく編み出したかもしれない技術を早々に封じなければならないのは不満だが、練習すべきことはまだいくらでも残っている。
 そうワタルは頭の中で言い、忘れようとした。
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