デニムスカイ第四十五話
「ガーベラ -Gain-」
 翼を完全に立てる。
 これ以上ないくらいひねり上げる。
 目指した背中がもうそこにあり、
 仮想弾が吸い込まれていく。
 ワタルがユカリの許に住み着いてから三か月、連日の練習がとうとう形ある実を結んだ。初めてユカリから一勝をもぎ取ることができたのだ。
 しかし、ワタルは簡単には喜ばない。まずそれがまぐれではないかと自分で疑い、試合の流れを頭の中で確認した。
 回り込むことを可能にした旋回と仮想弾を命中させた射撃は、確かにワタルの実力によるものだった。
 しかしその前、ユカリが水平面内のみで逃げようとしたことでこちらに有利になったのはどうだろうか。今さら手加減とも考えられない。やはり運だろう。
 それでも、管制から伝わるユカリの声は高く速い。
「おめでとう!ホントに今、ワタル君が撃って当てたのよね!?ホントに、おめでとう!」
 撃って当てたのは、まぎれもなく事実だ。今度はそれを確実にできるようにすればいい。
 そのためには、
「早く降りて、ログを見直そう」
「うん、あの子も待ってる」
 降りるべき方角に小さな人影が見える。
「早いな。まだ午前なのに」
「今日土曜よ?」
「あ、そうか。曜日の感覚無くなってるな」
 ワタルは通話内容が二人にしか聞こえないように切り替えるのを忘れなかった。
「働いてない人はこれだから」
 練習の合間にフリヴァー協会で働いているユカリがからかうが、反論は帰ってからゆっくりすることにした。
 鬼塚がこちらに向かって大きく手を振っていて、その後ろからも他のパイロットが数人近付いてくる。ここで詳しく話すわけにもいかない。
 ユカリの右後方について隊列を組んだまま、鬼塚の前を横切るようにして着地。
 止まった途端、まだ十三歳になったばかりの鬼塚が夏草の上を飛び跳ねるように駆け寄ってきた。もちろん飛行服ではなく、上下とも半袖を着ている。
 こちらが機体を畳み終えないうちに、上気した言葉を投げてきた。
「姉さんが負けるの初めて見たよ!?不調以外で!」
「お生憎様、私は絶好調よ?今のは正真正銘、ワタル君の勝ち」
 鬼塚が見上げてくる目は輝き、憧れの色を満面に浮かべていた。
 ワタルの手を両側から掴み、思いきり上下に振り回してくる。
「すごい……、ワタル、本当にやったんだね!」
 集まってきたパイロット達も皆口々にワタルの勝利を讃えた。
「おー、びっくりしたよ」「おめでとー!」「珍しいもん見たね」
 しかし、ワタルは鬼塚の手を握り返さない。
「次にまた勝てるとは、限らない」
「そんなあ、もっと自慢していいのに!」
「たった一回当てただけじゃ何も分からねえだろ」
 今日もまだ何回か試合をするのだし、一回勝って終わりということはないのだから大袈裟にはしゃぐ鬼塚に合わせて喜んでいる場合ではない。ワタルはそう考えていた。
「謙虚なんだね。……でも、そのくらいじゃなきゃあの姉さんに勝てたりしないよね!」
 姉の実力に対する鬼塚の信頼も、この当時は相当なものだった。

 結果として、ワタルの姿勢はやはり正しかった。
 ワタルの欲する展開が再び訪れることはなく、午後になってから三度の試合は全てワタルの黒星で終わった。
 まだ辺りは暗いというほどではないが、真横の雲間から傾いた陽が覗き、もう時間はなさそうに見えた。
 タワーの方角に向こうとしたとき、ユカリが急にこんなことを言い出した。
「ねえ、ちょっと寄り道していっていい?」
「寄り道?寄れる場所なんかあるか?」
 そう返す間にもユカリは機首を上げて浮かび上がり、ループを描いていく。
 雲の底から数十メートルほど下で頂点に達し、背面のまま今度はまっすぐ進む。上昇して失われた速度は回復していない。
「何を、」
「ワタル君も来なよ。すごいよ」
 試合の結果に囚われていたワタルにも、その意味はすぐ分かった。
 天球の八割を覆う雲の天井は、澄み渡りつつも柔らかな橙に染まっていた。さらに節々に刻まれた表情豊かな谷間に沿ってレモン色から青紫までの色に縁取られ、空の高さと大きさを描き出す。
 それを撫でていくユカリの視界は、きっと緩やかな歓喜を与えるものに違いない。だが、ワタルはこう答えた。
「俺は、ここで見てる」
「そう?」
 ただ雲を眺めるよりはユカリのいる風景を見ていたいと、ワタルにはなぜか思えた。
 菫色をしたユカリの機体は夕雲と調和して、時折溶けて見えなくなってしまいそうなほどだ。とはいえワタルもそう簡単には見逃さないくらい鋭い目を持っている。
 これから、まだあの影を追い続けなければならない。

 二人とも料理をする気がないので、発着場からタワー内部に入ったら弁当屋に寄ってから帰宅するのが習慣になっていた。
 低い食卓で買ってきたものを食べる間もワタルは飛行服のまま、ログを見直し続けている。
 これもいつもどおりの習慣なので、ユカリも特に何も言わない。
 全部片付いた容器を分子プリンターの回収口に入れたとき、飛行場で話せなかったことについて今話してしまおうと思いついた。
 右手の指をすぼめてユカリに差し出すと、ユカリは手の平で受け止める。データの受け渡しが完了。
「何?」
 ユカリは問いながら何を受け取ったか手の甲に表示した。
 何気なかったその表情が、驚きに塗り替えられていく。
「こんなに、どうしたの?何のお金?」
「ログも渡しただろ」
「あ、うん」
 ユカリの収入に近い金額とともに渡されたのは、数十の試合を記録したログだった。
 二人の試合やそれぞれが挑戦者と行った試合も含むが、大部分は他のパイロットによるものである。
 ユカリはそのうちの一つを開き、細かい解説がついていることを一目で読み取った。これほど丁寧なものはなかなか見られないだろう。
「協会のバイトだよ。協会が公開したり保管するログをまとめるやつ。勉強にもなるからな」
「あ、私も聞いたことある。空戦はまだ新しい競技で、これから協会が支援するのにとにかくたくさんデータが必要だって……。それを、ワタル君が?」
「ああ」
「いつの間に」
「飛行場が埋まってるときとか、雨の日とかだな」
「でもだって、こんなに、悪い」
 ユカリが金を返そうと手を伸ばすが、ワタルは受け止めない。
「機体の維持費と充電代は残してる。あとはいらねえよ」
 ワタルは当然のことのように淡々と続けた。
「俺をただのヒモにする気か」
 ワタルがそう言うとユカリは引っ込めた手を床につき、顔を見つめてきた。
 瞳の色に気付かれないかと、ほんの少し目をそらした直後。
 膝を立てて起き上がったユカリの腕が、ワタルの上体をしっかりと抱きかかえていた。
 押さえつけられた頭のすぐ横にユカリの唇があり、吐息に遅れて搾り出すような声が耳に届いた。
「ワタル君、すっごく上達してるなって、私の見てないところでもいっぱい頑張ってるんだろうなって思ってたの」
 長い髪や、薄い部屋着の中の体が、柔らかくワタルを包み込む。年頃の男子相応の劣情を沸き上がらせるには、ユカリの肢体は理想的と言えるほどだ。
 しかしそれをワタルの頭に響く警報が押さえ込んだ。
 ユカリが肩を掴み、何か言いたげに目を見ようとする。その隙に、ワタルは顔をそらし立ち上がった。
「もう寝るぞ」
「いっつも逃げちゃう」
 口を尖らすユカリの様子に、ワタルは少し安心していた。怪しまれてはいないようだ。
「別にそういう関係じゃないだろ」
 逃げているというのは、ユカリの言うとおりだ。
 目を見て話すことさえ恐れている。
 瞳の色が知られたらユカリの方から離れていってしまうかもしれない。

 翌朝の六時。タワーの外はすでにかなり明るい。
「ほら、起きろよ」
「んん」
 ワタルが先に起き、ユカリの肩を乱暴に揺らして起こすのもいつもどおりだ。
 この日の午後、ワタルは二度目の勝利を果たすことになった。
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