デニムスカイ第四十四話
「Be A Superman -Replay-」
 数日で夏はすでに盛りを過ぎ、日差しは風の涼しさを感じさせる隙を生じていた。
 カフェのテーブルに表示された、「見えない大会」の順位を表すツリーもまた、数日前までの秩序を失っていた。
 表示したのは、その影響でログ編集のノルマが増したネオンである。
 一個まとめ完了。ふう、と、ため息をついて、また次へ。
 ネオン自身の星は今、三位の高さを占めている。
 あまりにも決定的だった遠距離射撃により鬼塚は二位の座からも撃ち落とされ、そこにはネオンから毎週勝ちをもぎ取っているユカリが押し上げられた。
 ネオンに勝利した古尾もかなり引き上げられるなど、撹乱はツリーの七合目以上全体に及んでいる。
 さらに、上位が騒がしくなったのは順位だけではない。
 ユカリが最近公開したログにより、頂上近くの薄かった部分が埋められたのだ。公開されたのは、ワタルとユカリが横浜にいた頃のものである。
 下の鬼塚とかなり多くの試合線で結ばれている。鬼塚に対する負け越しは三年前までのことなので、現在の順位に対する影響は薄れてしまったらしい。
 見るべきはそちらではなく、ユカリから真上に無数に伸びる細い線でできた短い柱だ。上にはもちろんワタルしかいない。
 初期のものを除いて大半が午前中、長短合わせて日に五回前後。朝六時からなどというものもある。しかもワタルはそれらと同じ日の午後にまた鬼塚と試合しているから、その練習量はすさまじい。
 といっても、数ならネオンも相当なものだった。
 北西からテレポーターが接近、管制が伝える。
 今日三人目の挑戦者だ。
 ログの編集を中断。すぐに出て飛び立つ。
 相手は左に進路を変更する。そのかすかな動きから、テレポーターにしては身軽なことを読み取る。方角からしても、所沢から来たえとりに違いない。
 充分な高度を取り、管制情報が消える。試合に突入。
 すぐにえとりが視界に入る。
 距離は、通常の射程圏の二倍強。
 あのときと同じように狙えるだろうか。
 相手の道筋は見えている。
 向きを微調整。
 ネオンの目には模擬銃から伸びる弾道と、えとりがこれから辿る軌道がすでに見えており、両者は次第に近付いていく。
 交差した瞬間、発射。
 読みどおりの道を辿る。
 しかし、ネオンはそれを察知した。
 右横転上昇。
 太陽に向かう。
 視界の端でえとりは反転降下、
 弾道の下に落ちる。
 しかしこちらには気を払っていない。いや、閃光で見失ったのだ。
 これならもう逃がさない。
 さらに横転、背面で落ちる。
 立て直すえとりとの距離が詰まる。
 えとりは左旋回を続ける。ネオンの優位は崩れない。
 改めて連射。
 今度こそ外しはしなかった。
 ブザーが鳴り止むとえとりは翼を振り、カフェの方角と反対側にずれた。地上と変わらない上品かつ慎ましやかな所作で、先を譲っているようだ。

 機体を畳み終えたえとりに、深々と頭を下げられる。
「流石のお手並みでございます。最初の一撃で完全に流れをお決めになってしまわれました」
「いえ……、どうも」
 えとりは一発目をあくまで牽制だったと考え、そのように誉めたらしい。
 しかしネオンの狙いはそこにはなかった。
 射程の倍以上離れた鬼塚に命中させて以来、ネオンが再びワタルのような遠距離射撃を成功させることはなかった。
 まぐれなどでは決してない。鬼塚と仮想弾、双方の軌道を完璧に読んだネオン自身が、それをはっきりと自覚している。
 それでも、あのときの正確無比な狙いをどうしても再現できていないことも、ネオンにはありありと把握できてしまうのだ。

「そのようなおもてなし、申し訳ございません。わたくしが」
「そんな、このくらい何でもないですって。今は刈安さんがお客さんなんですから、大丈夫ですよ」
 えとりのウェイトレスとしての習性は、たかがアイスティーをカウンターから取ってくるにも念を押して抑えておかねばならないほど強かった。
 グラスを手にカウンターから振り返ると、椅子の横に立ったままのえとりの姿が目に飛び込む。こちらに向ける視線はどうにも落ち着かなさげだ。
 山吹色の飛行服が柴犬を思わせることと合まって、度の過ぎた忠犬さながらである。
 「おすわり」と口走る代わりに、苦笑を漏らしてしまった。もちろん促さないと先に座ってくれはしない。
 そんなえとりの様子は滑稽でさえあるが、それもネオンに対する深い気遣いから来るもの。
 席に着いたネオンのごく小さな溜息を、えとりは聞き漏らさなかったようだ。
「いかがなさいましたか?」
「あっ、いえ。何でもないです」
 心配をかけまいと、ネオンのほうから別の話題を振る。
「あの、刈安さんが午前中に来れるってことは、ナドウの新型機も」
「はい。わたくしどもの開発も一段落いたしました。他社様にさほど遅れず発売させていただける見通しでございます」
 現在、ランキング上位の混乱により空は一段と騒々しくなっている。そこにナドウの新型機、日下航空工房のアクイーラ、そして五栗の影菟が放り込まれれば、ますます喧騒に拍車がかかるだろう。
 レイヴンの登場したときと違って今回は空中警察隊の採用試験などとも関係ない。各社とも、「見えない大会」による活性化に合わせてのことだ。
 ネオンにとっては歓迎すべきかもしれない。早くあの時の狙撃を再現するには、練習量やログを見る量を増やすしか手立てがないのだから。
「本日はそれをお伝えしながらご様子を拝見するようにと、……あの方から」
「アメジさん?」
「え、ええ」
 ユカリの名前をとても出しづらそうにしている。
「カブラギさんは、お気になさらないのですか」
「それは、びっくりもしましたけど……、今は何もないわけですし」
「そう、ですか」
 常になく沈んだ表情をするのは、今度はえとりのほうだった。
「気になりますか?」
「ええ。やはり、ご懇意にさせていただいている先輩方お二人が、なんと申しますか、逸脱した関係でいらしたというのは……。その頃ヒムカイさんは、成人なさっていらっしゃらなかったわけですし」
「あ、でも一緒に住んでたのは本当にヒムカイさんが練習に打ち込めるようにだって言ってましたよ」
 ワタルとユカリから聞いた話では、そういうことがなかったわけではないのだが。

 六年前、ネオンとワタルが出会う五年前。
 枯草とまだ冷たい海、それに、激しく追い回しあう二機のD型センチネルが夕日に照らされる、三月の日暮れのことだった。
 この日最後のブザーが二人の耳を打った。三回とも全て、ユカリの勝利である。
「お疲れ様。今日も助かったわ」
 ワタルはそんな社交辞令じみた挨拶には応えず、小さく舌打ちする。ユカリもいちいちそれに腹を立てることはない。飛行場に降りずに直接タワーを目指しながら、ユカリは会話を続けた。
「やっぱりもっと練習したいんでしょ?」
「そりゃ、お前と同じだけ練習できればな」
 ワタルは吐き捨てるように不満をこぼした。
 この当時、ユカリも未だテストパイロットにはなっていない。午前は個人練習、午後はワタルとの試合と、試験に向けて一日中飛び続ける日々である。
 対してワタルは、免許取得から一年と経たずユカリの練習台が務まるほどには上達した。が、放課後の一部に限られた時間のみのフライトではそこ止まりで、「善戦したが一歩及ばず」の状態から今一つ抜け出ることができずにいた。ついこの間まで高校入試の準備がさらに足を引っ張っていたからなおさらだ。
 今のままではワタルのできることは全てユカリのよく知る範囲に収まってしまい、出し抜いて勝ちを奪うなど到底できはしない。ユカリにしても格下の相手ばかりではそれほど効果は上がらず、ワタルの世話に終始している感がぬぐえなかった。
「じゃあ、あの話。考えてくれた?」
「ああ、いや……、流石にそこまで世話になるわけには。お前みたいにプロになるとも、限らないし」
「そう。まあ、それはそうよね。いくらなんでも」
 ユカリは軽く笑って返した。
 すでに自立しているユカリはほとんどの時間をフリヴァーに費やすことができる。そこまですればテストパイロットを目指すには充分すぎるほどだし、実際、空戦競技でもすでに滅多なことでは撃墜されないほどの実力を備えていた。
 追いつけないのも当然といえば当然なのだが、ワタルは納得しない。そこでユカリが半ば冗談混じりに提案したのが、いっそ学校に行くのをやめて共に練習に打ち込む生活をしてはどうか、ということだった。
「そんなに焦ることないわよ。今だって一年目とは思えないくらいじゃない」
 ワタルは応えないまま、タワーが目前まで迫っていた。
「でも、もっと頼りにしてね」
 そう言い残して菫色をしたユカリの機体が下降し、ワタルとは別の階の発着場に向かっていく。
 ユカリの住んでいる小さな家が詰め込まれた階よりもワタルの住んでいる上の階の方が、比較的住み心地は良いとされている。しかしそれは、あくまで一般論だ。
 芝生の道を踏みしめる足取りは重く、途中の公園にでも逸れて止まりそうになる。それでも、また明日万全の状態で空戦に臨みたければ帰って体を休めるしかない。
 扉を開け、そのまま黙って部屋まで進んだ。居間には母親がいたようだが、お互い声もかけなければ振り向きもしない。
 ここのところ、合成食品ばかり食べている。
 それで栄養が偏ったり体に悪影響が出ることもない。空を飛ぶことだけが楽しみのワタルにはどうだっていいことだった。両親もワタルに手料理を勧めてくることすらしない。
 原因不明の濃紺の瞳が、それをいぶかる両親との間にすっかり深い溝を作ってしまった。ユカリだってこの目のことを知ればワタルに対する態度を変えるかもしれない。
 軽くログを見直す。当時の環境ではあまり詳しいログのまとめは重視されていなかった。さらっとなぞればそれでこの日やることは終わり、あとはゆっくりと眠るだけ、のはずだった。
 母親からの通話。立体映像は表示させずに応答する。
「あのね、お父さんが、あなたの趣味のことでね」
 珍しくフリヴァーのことに踏み込んできたこの一言がとうとう、断裂を最後まで貫通させてしまった。
「どうせ実になることじゃないんなら、もっと大人しいことにしたらどうかって」
 ワタルの肌を電流のような感情が駆け抜け、口から怒声となって吐き出される。
「ああ、それなら」
 しかしワタルは一旦深く息を吸い込み、今度は冷たく、落ち着いた言葉を発した。
「実になるように、できる限りのことをしてやるよ」
 通話を切り、部屋を出た。
 そのまま玄関を出ていくまでに、両親のどちらかでも居間にいたかどうかすら認識していなかった。
 愛機を曳いて飛行服のまま駅のゲートをくぐり、ちょうど着いた下向きのエレベーターに滑り込む。十数階下って降り、小さな家々に挟まれた街路を迷わず大股で進んでいった。
 両親がワタルの上達の程について何も知っているはずはない。いくらフリヴァーの腕を磨こうと無駄な遊びだと初めから決めてかかり、不可解な眼を持つ我が子が目立ちさえしなければいいとしか思っていない。
 それならば、本当に無駄でないと言えるほどの練習を、両親と無関係なところですればよい。
 小型住居の一つの前に立ち、家主を呼ぶ。扉はすぐに開き、丸く見開かれた両目が現れた。
「本当に悪い。けどやっぱり、お前の言うとおりにさせてほしい」
 ユカリはしばらく呆けたような顔のままでいたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべて内側に振り返った。
「いいわ、いらっしゃい。荷物はないの?」
「ああ、分子プリンターがあればいいよ」
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