デニムスカイ第四十三話
「けもの道 -Recurring-」
 本来ならそんなことはとても口に出せなかっただろう。にも関わらず、ネオンの胸の内はただ清々しさに満ちていた。
 ワタル、そしてユカリから肩の力が抜け、心から硬いものが取れて、急に空気が柔らかになるのが分かった。
 しかし最初に声を発した小松田だけは例外だったようだ。
「あれっ、お前らって元々そういう関係じゃなかっ」
 そこまでで止まった。ユカリが、小松田の両肩を突き飛ばしたためだ。
「あーもう!何なの今日のあんたはっ!」
「え!?いや、」
「相手の手の内だけじゃなくて空気も読めなさいよね!」
 ユカリが小松田を責めるほどネオンは自分の言った事の再認識を迫られ、血色を浮かべやすい耳たぶが瞳と同じくらい赤くなる。ユカリの気の遣い方が雑すぎるのは明らかだった。
 さらに小松田も、あまりにも正直すぎた。
「う?あ、すんません。でもこいつらどう見たって」
「どう見たってずっと胸に秘めてた想いをついに打ち明ける美しい青春の一ページだったでしょうが!ネオンちゃんがどんだけの気持ちで」
「あっ」
 小松田がユカリの背後を指差した。
「あ?」
 その先には、草を撒き散らして鮮やかな離陸を見せる白いシルフィードがあった。
 いつの間に身につけて準備を終えたのか、目覚ましい上昇率で去っていく。
「ほらあ、あんたが馬鹿なこと言ってるから!」
「俺が悪いんすか、これ!?」
「当たり前でしょ!」
「調布に帰っただけだ。俺も帰るよ」
 騒ぐ外野を余所に、ワタルはすでにアクイーラを身につけていた。
 ユカリは一息つくと、髪をフードから解き放ちながらワタルのほうに振り返った。波打つ髪を躍らせて、その表情は妙に爽やかだ。
「そうね。私達はえとりちゃんの様子見てくるわ」
「刈安がどうかしたか?」
「私達が一緒に住んでたって聞いたらちょっと気分悪くなっちゃったみたいで。あの子、本当にそういうことに疎いからね」
 高級料理店の娘として生まれたえとりは幼少時から一流のウェイトレスになるように育てられ、今でも店とテストパイロットの二重生活で俗な世間に触れる余裕などない。
「じゃ、ごゆっくり!」
 右手を小さく振り、ユカリは大袈裟なウインクを残して去っていく。
「ほら、あんたが先に行くのよ!」
 小松田の腕を引っ張っていくことは忘れない。

 飛び立ってすぐにワタルは、三つの機体を捕捉した。
 調布に向かうネオンは南東に見えている。
 あとの二つは南西、管制によると立川のすぐ手前にあった。
 機速からいってネオンが本気で逃げてはいないのを確認してから、進路はそちらに向けたまま丹羽に通話を繋いだ。
「おい」
「ひっ」
 情けない声が漏れる。
 出黒沢はテレポーターでもっと早く去れるはずだが、合わせてもらっているようだ。
「す、すまなかった、本当に」
「俺に謝ってどうする」
「あ、ああ」
「お前らはあいつの話に乗せられてついてきただけだろ、多分」
 丹羽と出黒沢が何も知っているはずはない。
「そのとおりだ」
「日を改めて本人達に直接謝れよ。顔も見たくないとか言うかもしれないけどな」
「ああ、そうする」
「よし」
 ワタルは通話を終えた。

 ほどなくして、丹羽と出黒沢は立川のタワーに到着した。
 機体を背中から下ろすなり揃って大きなため息をつき、発着場の芝にへたり込む。
 出黒沢がぽつりと、
「どうすっかね、これから」
「また一から真面目にやるしかないんじゃないかな」
「そだな」
 小さな雲がすぐ上を通り過ぎ、影が二人を撫でていった。
 再び出黒沢が口を開く。
「ほんのちょろっとだけ、なんだけどよ」
「ん?」
「なんか、ほっとしてんだよな。カブラギがあの程度で凹む弱っちいガキじゃなくてよ」
「ああ」
 丹羽は口の端を持ち上げた。
「君を、いや僕らを打ちのめしたのが、ただのいたいけな女の子のわけがなかったね」
「全くだ」
 多少無理をして作った笑いだったが、二人の表情は張りを取り戻していった。
「そうだ。次の大会のときも殿堂入りしましたみたいな顔してないで、改めて競技に加わってさ」
「あの黄緑の奴の、カラミティーズっつったか」
「ああ、今度は曲技できっちり実力の差を見せてあげよう」
 しばらく二人は含み笑いを交わし、再び立ち上がるまでの力を蓄えた。

 ネオンはワタルがついてくるのを背後に確認し続けていた。
 幸い、調布の周囲にもこれからタワーに着地しようとするフリヴァーはない。自分達以外は遠くを過ぎるだけだった。
 ネオンが頂上の中心に向かって降りる間、ワタルは旋回して待っていた。
 場所を空けるとすぐに、簡潔すぎるほど簡潔な姿のアクイーラが、飛行場より柔らかな芝生にさざ波を立てて舞い降りる。
 二人だけになりたくて逃げ帰ったのに、それでもヘルメット部分から抜け出るワタルの顔を直視できなかった。
 以前から恋仲に見えていたと、小松田は言った。
 そう思っていたのは小松田だけではないかもしれない。自覚のないままそんなに露骨な態度を取っていたのだろうか。
 地上一キロ近い高さの風は真夏でも冷たい。それでも、ネオンの頬を冷ますことはできなかった。
 ワタルが機体を畳み終えてしまったのが気配で分かった。
 連れてきておいておかしいが、何か声をかけられたら心臓が口から飛び出しそうだ。
 二回、どさりと草を圧す音が聞こえた。
 それっきり動く気配はせず、長い吐息だけが続いた。
 そっと顔を向けると、ワタルは機体を立てたまま大の字で寝転がっていた。
「もうだめだ。朝からほとんど飛びっぱなしだ」
 そう言って、あらかじめ用意していた棒状の合成食品を飛行服の胸元から取り出し、仰向けのままくわえる。
 真ん中でそれを噛み切って手招きしてきた。
「お前も疲れてるだろ。立ってないでさ」
 確かに、体に力が入りづらい。結局三人全員を相手にしてしまい、普段よりずっと消耗している。
 右隣にぺたりと腰を下ろすと、ワタルが合成食品の半分を差し出してきた。
 目の前に来たそれを反射的に手に取る。が、チーズのような断面にはくっきりと歯型が残っていた。
 ワタルの口に触れたことを意識してしまい、手に持って見つめたまま胸が高鳴って喉を通る気がしない。
「いらね?」
「いっ、いえ!いります!」
 つい慌てて一気に噛み砕き飲み込んでしまった。味わって食べる意味もなかっただろうが。
 少し落ち着いてみると、何度か見たような光景だと気付いた。
「芝生に寝っ転がるの、好きですよね」
「あ?ああ、家ん中も芝生だからな、慣れてんだよ」
「家の中も?」
 人工土壌の中には素足で踏んでもいいものもある。
「芝生なら飛行場にいるみたいだろ、だからさ」
 ワタルの口元が小さく緩んだ。
 対等の仲間に恵まれてこなかったワタルだが、それでも空を飛ぶことは好きでたまらないのだ。
 ふっと、その笑みが消える。
「お前、さ。ずっと考えてたんだけど」
「はっ、はい」
「俺みたいになって、相手がいなくなっても大丈夫かな」
 動悸の原因とは少し違った。
「誰にでも簡単に勝てるようになっても、ですか」
 ワタルは首肯する。
「今お前がやってるログの仕事も、客と試合しまくってるのも、横浜で俺がやってた事を再現できるようにユカリが考えたんだよ」
「それが、「見えない大会」」
「そうだ」
 ワタルが孤立してきたことは、よく分かっている。
 しかし、ネオンはそれほど悲観していなかった。
 今日ワタルのいる高みに、ほんの少しでも手が届いた。それが自分にしかできないとは思わなかった。
「また、すごく熱心な人が出てくるかもしれないじゃないですか。二人で待ちましょう?」
 ワタルは空を見上げ、その言葉をゆっくり飲み込むように、少し黙った。
「そうか、そうかもな」
 やがて上半身を押し上げ、再びネオンの方に向く。
 正対した顔がネオンに近付いてくる。
 心臓がますます慌て出す。遠心力もないのに意識が飛びそうになる。
 黒髪の頭が目の前で急に沈んだ。
 その行先は、ネオンの膝の上。
「ちょっ」
「悪い。やっぱだるいわ」
 次第に力が抜けて、重さがじんわりと伝わってくる。
「ずっ、ずるいです!」
「ん?」
「こんな、急に甘えるみたいなこと」
「嫌?」
 とても緩んだ声、今まで見たどの時より無防備な姿。
 まるで子供のようなワタルに対して、もう強張る必要などないようだ。
 そっと、ワタルの頭に手を乗せる。
「嫌じゃ、ない、です」
「ん」
 小さく撫でてみる。ワタルはされるがままにしている。
「今日、お疲れ様です。勝ったんですよね?」
「ああ」
「後でログ見ます」
「ああ。お前も、お疲れ」
「新型機、綺麗ですね」
「今度、二人で……」
 飛ぼう、と続けようとしたのだろうが、ワタルは寝息を立て始めてしまった。
 頭を撫で続けるネオンの手も、すぐにゆっくりと動かなくなった。
 高い雲の群れはちょうどタワーの上を避けて流れていく。
 風は飛行服に遮られ、あくまで暖かい夏の日差しの中、二人は共に羽を休めた。
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