デニムスカイ第四十一話
「Close To The Edge(iii)I Get Up I Get Down -Normal Equipment-」
 先に古尾氏を発見できたにも関わらず、ワタルはわずかな苛立ちを覚えていた。
 ハンデさえなかったら撃とうと思えばとっくに撃てる距離だ。遠距離狙撃を身につける直前の時期を思い出す。といっても早々に片付けてしまうつもりはなく、使える手を一つ封じられているのが単純に不愉快だった。
 互いに鱗雲のマットより充分高く、のびのびと機動が行えそうだ。
 ワタルの目にも輪郭はまだはっきり見えないが、相手の機体については事前に知らされている。
 短いタンデム翼に、内側を特に強い電位推進表面として噴流を生む補助推力ダクト。これらは駒鳥やロビンブーストから受け継いだものだ。
 ダクトはもはや付け足しではなく、胴体と滑らかに一体化している。一回の試合で充電量を使い果たすほどだった燃費も改善されたらしい。
 五栗工業がレイヴンとその後継機アクイーラの打倒を賭ける、新型機「影菟(かげずく)」。
 ワタルは古尾氏の右後方に向かって回り込むべくターン、同時に速度との兼ね合いを測って上昇角を決めた。
 推力を最大に上げた瞬間、目の奥に突き刺さるような加速度に見舞われた。
 レイヴンでもここまでのものはなかった。何回味わっても、全く異質な歓喜が全身の血から泡立つ。
 そろそろ相手がこの模擬銃の制限された射程に入る頃。
 相手の視線がこちらを捉えた。
 特異な形態だが視野は悪くない。
 深く左横転。
 カナードの上反角が増し、鋭敏な方向舵として働く。
 深緑の影菟が右に折れる。
 噴流を曲げて行う強引な機動だ。
 二つ開いたダクトがこちらを睨み、その名のとおり梟の眼光を思わせる。
 双方が連射、弾道が交差する。
 逆落としにダイブ。弾が脇腹を抜けていく。
 相手は背後で再びターン、引き離されずついてくる。速力は互角らしい。
 右横転、ぴたりと止める。と見せかけて振り抜く。
 真左に逆ループ旋回。
 相手は僅かに外へ。
 なおもよどみなく追ってくる。
 やはり従来の機体から逸脱して、完全には読み切れない部分がある。ただ、古尾氏のむせ返るような自信、それは丸ごと伝わってくる。
 こういう相手と、機体開発やハンデと関係なく出会えたらどれほど良いか。
 右に、左に、なるべく速度を落とさないようにクイックロール。
 敵弾の束がいくつもすり抜け、風防の表示を赤く彩る。
 翼を立てたまま真下へ。
 カナードが反り上がり頭を押し下げる。
 相手はまだ上に。
 はっきりと影菟が遅れた。
 先程までより機動が緩い。降下にはダクトの力が有効でないのか。
 もう追われるだけの立場ではなくなってしまった。
 逆ループから復帰、
 影菟が強引に切り込む。
 緩く右旋回、勢いを殺さずに。
 相手は速度の回復が遅い。
 急加速を連発されたら難しくなったが、そうはしなかった。
 もし機体の能力的に可能でも人体が耐え切れないのではないか。
 切り返して左ターン、一拍置いて上昇。
 また少し距離が開いた。
 おそらくは連発を避けている。
 いずれにせよ、結局本質的なのは人間の能力だ。そう思ったところで、試合前の考えが頭の中に低く響き始めた。
 濃紺の眼は単なる偶然の産物であり、異常の証ではない。
 わずかに頭上げ、
 直後反転、雲の下へ。
 また一段相手を置き去りにする。
 タイミングを計るのに意識して能力を使った。
 自分の能力は眼のせいではなく、激しい鍛練の成果にすぎない。
 そうであると確かめるためにユカリと自分がネオンに取り組ませたこともきっと無駄にはならない。
 これは、ただの人間の能力だ。誰が手にしてもおかしくないし、遠慮なく相手にぶつけてもいい。
 左横転、すぐ戻して右に、行かない。
 無理矢理左に曲げる。
 影菟の動きももう学び取った。
 相手は外側に残される。
 もっと深くバンク、
 内側に飛び込む。
 相手は急回頭。
 ターンして上昇、
 相手を正面に見上げる。
 頭上げ、
 連射。
 頭上を敵弾が過ぎ、同時にブザーが鳴った。

 地上には五栗工業や報道関係の観客たちが集まっていた。人数は少ないながらも、皆精一杯の拍手や歓声をささげてくれているのが分かる。
 古尾氏はすでに着陸の準備を始めていた。真っ直ぐ降りるその背中からは、ワタルの能力がなくても彼の生真面目さが見て取れそうだ。
 ワタルは素直に追従せず、何となく管制情報の確認をしていた。
 この近辺で飛んでいるのは自分達のみ。調布の情報を表示すると、誰も飛んでいない。今日はネオンが所沢で練習する日だったと気付いて表示を切り替える。
 映った機体の数と機種、それに機動で、何者がそこに現れているのか一目で分かった。
「降りないんですか?」
 管制を通して呼びかける古尾氏の高度は、もうワタルの半分になっていた。
「降りますよ、一旦」
 そう言った直後、ワタルは急反転。
 上げ舵で半ループへ。
「え、ちょっと!?」
 慌てる古尾氏の声を他所に大回りで落下する。
 高度十五メートルでループの底に着く。
 水平に復帰し、そのまま突っ切る。
 ざわめく観客にどんどん近付いていく。誰かが指差して叫ぶ。
 目前で右ターン。
 五栗の社長がのけぞった勢いで倒れかけ、フリヴァー協会の若い役員らが手を大きく振る。
 身勝手な退席の前にせめてものおまけを付けたつもりだったが、ワタルはそれ以上のサービスはせず、真っ直ぐ離れた。
 観客の中でただ一人落ち着いていた日下氏が通話をつないできた。
「行ってきなさい。展示用の機体は用意してあるからご心配なく。空戦を含めて休まず往復してみせれば航続距離のアピールにもなるからね」
「ごめん、よろしく頼むよ」
 ワタルは続けて、貴重な一時をくれた古尾氏に一言礼を言った。
「ありがとう、次はハンデ無しで!」
「ふふ、それは厳しい」
 古尾氏は着地とともに応える。
 ワタルは機首を上げながら、普段滅多に行わない操作を始めた。
 風防に二回連続で映る確認メッセージを了承。
 両肩から短い震動が伝わる。左右の模擬銃が白煙を引いて跳ね上がり、背中から離れた。
 緊急用のパージシステムを作動させたのだ。お荷物を捨てますます軽くなったアクイーラは速度と上昇率を一段と増す。
 パラシュートを開いて降りる模擬銃を置いて、ワタルは静岡飛行場を去っていった。
 ネオン達の試合に加勢する気はない。結果はネオン自身の手に委ねると決めた。
 風防には所沢の管制情報が映ったままで、ネオンの操縦がまた一段と冴えていることを伝えてきていた。これは単なる上達ではない。
 あとほんの少しで、ネオンの手がそれに届いてしまう。試合中は大人しかった考えが膨らんで確信に変わっていく。
 一方では、所沢で今何が起こっていて、ネオンがどんな思いをさせられているのかという焦慮も同じように大きくなる。
 ユカリとの過去を知らされてもネオンは変わらずにいてくれるだろうか。それとも、かけ替えのないパートナーをまた失うのか。ユカリのときは大切だという認識すら後になるまで芽生えなかった。
 様々な思念が混然一体となって、さらにワタルを強く引っ張っていった。
 一路所沢へ。
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