デニムスカイ第三十八話
「シャンデリヤ -Level Up-」
 試合が明けてワタルが着地すると、芝生から焦げるように熱くなった空気が舞い上がった。
 早朝に飛び立った時はまだ涼しかった。春先と比べれば倍は時間がかかっただろうか。もちろん、ワタルにとっては歓迎すべきことだ。
 振り返れば純白のシルフィードが濃紺の夏空から浮かび、近付いてくる。
 広がった主翼の縁が日差しにほんのり透けている。
 後流にさざめく芝生の中央に降り立つ。随分頼もしくなった足取りに、ワタルは目を奪われた。
 そのまま機体を降ろして畳む様をなんとなく眺め続けていると、ネオンは突然、胸の前にログを開いた。
「すぐできますから」
 そう言ってネオンが飛行経路の始点に手を伸ばして始めたことこそ、目を離すべきではなかった。
 近付いてみると、ネオンは最初からいきなり解説を加えていた。
 滑らかに手先を走らせて作業を進める。ワタル視点の内容まで、映像の再生も無しに正確に書き込んでいる。
 ネオン自身が行った直後の試合とはいえ、その淀み無い動作は初めて見たログとは思えないほどだ。
 見る間に手は最後まで進み、一度目を通しただけでネオンはまとめをほぼ完成させてしまった。
「早いな」
「お仕事もすぐ終わっちゃいますよ」
 ネオンは自信ありげに微笑む。

 実際、ネオンはユカリとの練習日以外にも他所のパイロットに挑んでいくほどの余裕を作り出していた。
  それもランキングで自分を上回る相手ばかり選び、古尾氏に敗れてわずかに下がった順位を一週間で取り返していた。
 明らかに、ネオンの空中感覚はますます研ぎ澄まされている。
 今見せた手さばきもその表れに違いない。
 ネオンの強気な笑顔が、それがネオンにとって誇れる成果だと言っている。

「お仕事っていえば」
 歩き出しながらネオンが問う。
「最近試験飛行してないですよね。開発は済んじゃったんですか?」
「工房ではな。今は型式審査中」
「じゃあ、それに通ったら」
「ああ、でもその前に初公開のイベントがあるらしいんだよな。俺は詳しく聞かされてないけど、まあ日下さんのことだから」
 ワタルに一肌脱がせる気なのだろう。顔を見合わせて小さく苦笑いする。
「今回はその後すぐ発売だよ、空警隊の公募もないし」
「あ……、空警隊って」
 ワタルがうなずくとネオンはその続きを止めた。
 レイヴンより性能で劣る五栗製「王鷹」が採用された空中警察隊の公募は、出来レースだったのではないかという噂もあった。
 ともかく今回はそんなものに縛られはしない。
「発売、楽しみです」
 そう言うネオンの微笑みが本当に尊く感じられた。
 同時に、それが非常に危ういところで保たれていて、いつか無くなってしまうのではないか、とも。
 以前は能力の高さが周りを引き離し、ワタルに近付いてくる者はなかった。今はネオンがワタルを目標として向かってきている。かつての孤独が嘘のようだ。
 しかし、ワタルには手放しで喜べない部分があった。
 結局はネオンを自分と同じところに引きずり込んでいるだけではないだろうか。
 空戦が盛んになり挑戦者は激増したが、本気でワタルに勝つつもりの者はネオンを除けば皆無になってしまった。
 ある者には恐れられ、ある者には祀り上げられる。ネオンもいずれそういうものになるのか。
 もしくは、その前にワタルの過去について心の準備無く知ってしまうかもしれない。
 それでネオンが遠ざかるかということより、ネオンがそれを受け止められるかということ自体が、ワタルには気がかりだった。
 今はどうだろうか。ネオンはワタル以外と戦っても手応えがなくてつまらないと思ってはいないだろうか。
 カフェのすぐ前に着いて、ワタルは尋ねた。
「ネオン、試合は楽しいか?」
 ネオンは首を傾げてワタルを見つめ返す。
「楽しいですよ、ヒムカイさんは楽しくないですか?」
「いや、俺以外との試合がさ」
「それも楽しいです。できることがどんどん増えて、順位が上の人にも負けなくって」
 再び眩しい微笑。
(その上の奴を全員倒したら、後はどうする)
 ワタルはそれを口に出せなかった。
 快調に進んでいるネオンの前には何等の不安もなく、上り詰めた後のことなど考える余地もない。
 このまま進み続けることに水を差すのはワタルにはためらわれた。
「あっ、ヒムカイさん!」
 ネオンは管制情報を手の上に拡大。一機近付いてきていた。
「ああ、行ってくる」
 レイヴンを身につけ直して飛び立つ。
 いつネオンに話すべきだろうか。以前の自分と同じものになってしまってからでは遅い。

 自宅のあるフロアの発着場に降り立つと同時に、日下氏から着信があった。
「発表イベントの予定が固まったよ。審査が順調に進んでいるおかげでね」
 ワタルは機体を畳みながら聞く。
「再来週の木曜、五栗と合同で執り行う」
「五栗?」
「あちら様の新型機とデモ空戦を交わすのさ。場所もお互いの中間の静岡に決まったよ」
 ネオンに再び勝つことは今のままでは無理だと言った古尾氏の余裕ある態度を、ワタルは想起した。
 あれはネオンではなく、ワタルに向けたものだったのだろうか。
「筋書きが決まった芝居じゃないだろうな」
「いや、それでは盛り上がりに欠けるからね。君には射撃を封じるハンデが用意されているよ」
「ハンデ?」
「君の撃つ仮想弾は一定距離で消滅するように設定される」
 普段ならそれでも何の問題もない。しかし相手のパイロットは古尾氏だろうが未知の機体にはどうだろうか。「ロビンブースト」の格闘性能を受け継いだであろう相手に有利だと想像できた。
 それにしても自分の知らないところで随分勝手に話が進んだものだ。ワタルは不平を感じ、すぐそれを打ち消す。空警隊に比べればこのくらいは軽い。
「明日、君の機体を渡すよ。それで一応飛ばしてみてほしい」

 快晴の明朝、日の昇るのがやや遅くなってきた。
 工房の倉庫の扉が開き、深緑のコートと帽子を着込んだ日下氏に続いて、黒一色の新型機が闇から零れ出る。
 畳まれた機体の中心、胴体背面に、センチネルEとレイヴンから引き継いだ「満月を追うカラス」が見える。
「さあ」
 日下氏に促されるまでもなく、ワタルは機体を背負い、翼を広げた。
 カナードは三十度ほど上に反った位置で止まる。
 ヘルメット部分は胴体と滑らかに繋がり、単一の曲面をなす。降着装置は細い。
 レイヴン以上に狭い主翼は緩やかに前進角が付き、鋭く後ろに曲がった翼端へと続く。
 その後ろに垂直尾翼はない。
 簡潔でありながら異様なシルエットが漆黒の彩色に強調されていた。
 これまでただ新型機と呼んでいたが、発表するには愛称が必要だ。
「名前は?」
「もう決めてあるんだ。「アクイーラ」さ」
 勝手に決められることなら相談もしないのはいつものことか。ワタルにも案があるわけではなかった。
「カラスが描いてあるのに「鷲」か」
「北米民話によれば大鷲はワタリガラスの後継者に当たるんだ。太陽を取ってくるよう創造主に命じられたワタリガラスは、それを大鷲に実行させる」
 帽子の鍔から三日月形に笑んだ白い歯が覗く。
「つまり、君が新たな光をもたらすのさ。レイヴンの次は、このアクイーラで」
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