デニムスカイ第三十四話
「U.T. -Scrolling-」
雲の群れに追いつき、切れ間をくぐる。
地平線に視線を巡らす。隠れている部分も蛇行して探らないといけない。
右手に白い山が連なる。いい隠れ蓑だ。
そう思ったとおり、
前方右寄り、向こう側に機影。
雲が邪魔どころか、相手の居場所を示してくれたかのようだ。
慌てて動くことはない。おそらくこちらは気付かれていない。自分の優位を悟られないように。
高度は相手が上、まだ上がる。
ちらり、ちらりと、隙間から相手が見え隠れする。
距離を詰めているうちにおぼろげな映像が頭に浮かぶ。
相手が雲を出て駆け下りてくる、緩く曲がった坂道。
ただの思い込みかもしれない。意識の脇に置く。
相手が身を躍り出して、
外側にぴくりと傾く。
瞬間、
イメージが修正される。
落ちる影と重なる。
右横転、上げ舵。
仮想弾が抜け、
相手は後ろ。
かなり速い完璧なダイブだった。直前に傾いたのもフェイントで、見えてしまったら普通は避けられない。
だがネオンは、相手の動きを完全に把握できた。
旋回を続ける。
相手の後上方へ。
やはり一旦逃げる気だ。
先程見えたもののまさに続き。
相手の手が読める。
しかし見え方が以前と違う。
一つひとつの動きに見覚えすら感じる。
今まで見てきた膨大なログから一部分ずつ選んで継ぎ合わせているかのようだ。
雲の上すれすれ、
相手は急横転。
また次の手が見えた。
雲に沈む、
という振り。
強引に右転回、
射撃。
弾が飛び去って、
旋回する相手と重なる。
スローモーションで見える。
頭の中と耳の中、同時にブザーが鳴る。
その直後始まったことに、ネオンはしばらく気付かなかった。
もう少しカフェの方まで進むつもりなのに、機体がすでに降下を始めている。
何かおかしい。そう思っても制御系は脳波を受け付けないし、周囲には下降気流などない。
風防の中央右下に赤い文字が点滅していた。
「不時着中・体力消耗につき」。
以前ワタルも言っていた。「空中でバテたら制御系に勝手に降ろされる」。その声を思い出しながら、ネオンは文字の点滅をどこか他人事のように頭蓋骨の内側から見つめていた。
地面がもうかなり近いところまで迫っている。草は刈り取られていないようだが、丈はどのくらいだろうか、目測が定まらなかった。
主翼が広がって大きく湾曲。頭上げ。降着装置が力の入らない腕ごと正面を向いて伸びる。
気流に押し退けられた草の中に、ネオンの体がはまり込む。草が降着装置にからみ付いて機体を受け止める。
推進系が静止し草が起き上がっても、ネオンは起き上がれない。
ワタルの呼ぶ声が聞こえる。
ネオンが再び目を覚ましたのは、四つ並べられた椅子の上だった。
テーブルに半分隠れた窓から雨空が見える。
座って外を睨むワタルの横顔は、険しい。
ここまで運んでくれたのをうっすらと覚えている。
「ごめんなさい」
ネオンがつぶやくとワタルは素早く体ごと振り向いた。その表情から怒気が抜ける。
「よかった。気分悪くないか」
ネオンは首を横に振った。
「ごめんなさい」
再びつぶやく。
「自分で分からないといけないのに」
「いや、俺も気付かなくて」
ワタルはそこで止めて少し考え、
「そうだな、もう無理するなよ」
ごく軽く握った拳を、ネオンの額にこつりと当てた。
「数日は天気悪いみたいだから、ゆっくり休めるよ」
「はい、でも、今日の感じを忘れたくないです」
ネオンがそう言った途端、ワタルの目つきが再び険しくなった。
詳しく聞きたがっている。そうネオンは察して体を起こした。ワタルはネオンの肩を支えて手助けする。
きちんと座り直してからネオンは話し始めた。感じたまま、ありのままを。
大量の試合を読み解き人に伝えてきたネオンには、克明に伝えるのは容易いことだった。
「――それで、ここで目を覚まして……、あの」
「うん、いや」
ワタルは途中から口を手で覆って俯いていた。
その姿勢でもよく分かるくらい、眉間に皺を寄せている。
「その感じは、一度分かれば簡単には忘れないはずだよ。念のためログに詳しく書いて送ってほしい。ゆっくりでいいからな」
トラムとエレベーターを乗り継ぎ、ワタルはネオンを家まで送った。
まだ体が重そうなネオンが丁寧に頭を下げながら扉を閉めるのを見届ける。
エレベーターの駅に戻る、居住区の路上。
ワタルは拳を耳に当てた。
十数秒後。ユカリとの通話がつながる。
「あらあら、いいタイミングね」
「何が」
「ちょうど雨で切り上げて帰ったところよ。そっちは順調?」
いつもと変わらないゆったりした口調が、ワタルの苛立ちを煽った。
「お前の、」
ワタルは一度立ち止まって深呼吸する。
「お前の思いどおりかって意味ならそうかもな」
「そう」
沈黙。
空気がじっとりと動かない。
「悪かった。突っかかりたいんじゃなくて相談だった」
「聞くわ」
ワタルは唾を飲み込んで、
「あいつが不時着した。試合の後、疲労で降ろされた」
「えっ」
「普段から無理してたからな。お前の思いどおりって言ったのは、その試合の最中のことだ」
「どういうこと?」
歩きながら、ネオンが話した内容を、覚えている限りそのまま話す。
不時着後動けない状態になっていたことを伝えるのと、駅前広場に着くのが同時だった。
「このまま、続けさせるのが正しいのか?俺のためにあいつを利用してるだけにならないか?」
ユカリの小さく唸る声が挟まる。
「続けさせるっていうのは少し違うわ。ネオンちゃんは進んで頑張ってるもの。元々負担は大きいはずだけど、それ以上にね。それに、やらされてるだけならそこまで行けないでしょ?」
ワタルにも、それは分かっていた。ネオンは自発的に取り組んでいて、それだけ多くのことを身に付けている。
大量のログ一つひとつを余すところなく取り込まなければこんなに早く今日の試合には辿り着かないだろう。
だが、それだけではまだ納得しづらい理由がワタルにはあった。
「それにしたって、あいつは何も知らないわけだし」
「じゃあ、教える?全部教えて、それからネオンちゃんに考えさせる?」
その言葉が呼び起こすざわめきに、ワタルは一瞬息を詰まらせた。
「全部って、」
「全部よ。じゃなきゃ意味がないもの」
再び沈黙。
ワタルは返答を絞り出す。
「今は無理だ。いずれはそうするべきだけど」
「そう、そのとおりね」
二人同時にため息をつく。
「お前からも少しは手を抜くように言ってくれよ」
「ええ。ワタル君も、ちゃんと支えててあげてね」
通話終了。
広場に吹き込む風は湿り気を帯び、タワー外の雨を意識させる。
このまま、せめてネオンの疲れが癒えるまでは止まなければいいと思う。
ワタルの願いどおり、梅雨はほんのわずかな切れ間しか挟まずに続いた。
テストフライトを伴う開発作業はどのメーカーも休み。これは元々予定に組み込まれていた。
全国から届く試合のログも、北海道以外からは数分の一に減った。
日本の空全体が、ネオンとともに寝静まっていた。
やがて、梅雨前線が関東をすっかり抜ける頃。
再び飛行場に出ていたネオンの帰宅を、着信が迎える。
手の甲の表示を見る。古尾氏から。
夕飯の支度がすでに出来た食卓を横目に部屋に駆け込み、応答。立体映像が出る。
ユカリより少し年上くらいに見える、髪をきちんと切り揃えたやや細面の男性。
あの改造機と同じ、深緑の飛行服だ。
「やあ、こんばんは。今大丈夫でしたか?」
「は、はい」
「そっちもそろそろ梅雨明けかと思いますが」
「ええ、今日はよく晴れてました」
「そうみたいですね」
ネオンの飛行服を見て柔らかく微笑む。
「おかげで試合する余裕が作れました。場所はこちらになってしまいますが」