デニムスカイ第三十一話
「I Talk To The Wind -Cyber Sickness-」
すっかり散った桜の花びらがどこからか流されて、カフェ前の芝生に引っかかる。傾き始めた日の光が少しだけ黄色い。
もう朝から今日だけでいくつ目になるだろうか、ネオンは表をまた一つ下ってログを開く。
飛行経路の数箇所には自動で解説が付けてある。発見や捕捉、撃墜といった、重要ではっきりした節目だけだ。
もちろんそれだけでは足りない。ネオンは開始点からなぞり始めた。
センチネルEを駆るこのパイロットは、雲がたくさん散らばっていたからあらかじめ充分上に出た。それが功を奏して、右下方にいた相手を先に発見。
しかし姿勢を読み切れず忍び寄ることには失敗、左に逃げられそうになったところでダイブして加速。同時に緩い旋回で相手の背後へ。ベストの降下率だった。切り返される前に間に合って射撃。
以上、分かったことをそれぞれの箇所に書き加える。
これをもう一度、今度は負けた側の視点で。それができたら、さらに二つを見比べて付け足し。これで大体形になる。
飛行場に来ずに部屋で作業することもできる。しかし空の下にいるほうがネオンには落ち着いて仕事ができた。
それに、部屋にいると良くないことがもう一つある。
そのログの編集がほぼ終わる直前。
音声通話が着信した。左手を耳に当てる。
「一位のヒムカイは!?」
南西からやって来る五栗工業製「王鷹」からだ。空中航空警察隊に採用され市販が遅れたことは、かえって五栗にとってマイナスだった。
「すみません、彼は試験飛行中でして」
「ログマスターのカブラギ?」
「あっ、はい」
ネオンは今、俗にそう呼ばれていた。
「あんたにも興味あるな、頼める?」
ちょうど右手が作業を終えた。
「よろしくお願いします!」
機体をつかみオープンテラスの外へ。
素早く背負い、主翼を広げる。
仕事が始まってしばらくしてから、挑戦者の来ない日はなかった。
最大上昇率。
だが優位に立つほどは上がれないだろう。
雲が大分ある。これを利用できるか。
相手が来る方角のわざと左へ。
視界を調べながら進む。
もちろん右だけを見ているわけにはいかない。
が、相手はやはり右に。
ここで少し反れる。
気づかれない。
雲が間に挟まる。これは好都合。
その陰を回り込んで、
相手の後下方に。
逃げるかもしれない。そう思った直後、
相手が傾く。
右下に撃つ。
ブザーが鳴り終わると同時に相手の横転が止まった。
先に高度が取れない状態から忍び寄るのにも慣れてきていた。
試合が終わってもネオンの目は一機を探していた。それは相手の王鷹ではない。
飛行場の西側に、青緑の試験機が浮く。
日下氏の工房では新型機開発が本格化し、活発に試験飛行を行っていた。もうレイヴンの改造機ではなく新規の機体のようなのだが、遠くて姿はよく分からない。
作業を再開。
試合前に置いていったログを見直す。完成としていい出来だ。
表をもう一つ下り次のログを開く。すでにノルマのラインより三つ下まで来ている。ネオンはそこで打ち切る気にはなれなかった。
ワタルが来る頃にはすっかり日が沈み、西の空にわずかな赤みを残すばかりとなっていた。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
「立花はすぐ帰ったみたいだな」
何気なく発された一言だが、ネオンには予想外だった。
立花が来ていたこと自体、今初めて知った。
「気付かなかったです。それ、何時頃でしたか?」
「四時くらいだよ。どうした?」
鋭い痛みの後に来る鈍痛のように、不注意を悔やむ気持ちがじわりと染みる。作業に集中しすぎてすぐそばの出来事にも気付かず、ずっと遠くにいたワタルに教わるなんて。
「もし空中だったら、不意討ちで負けてました」
つい声が高くなったが、ワタルは苦笑を返してきた。
「試合のときとは違うだろ、気にすんなよ。あ、そうだ。今日のログくれ」
あくまで軽い調子で手の平を差し向ける。
ネオンが手を重ねるとすぐに渇いた信号音がして、受け渡しが完了したワタルはすぐ手の甲に情報を表示させた。
ぷっ、と吹く音が漏れる。
「こっちのじゃねえよ、お前の試合!」
「え?」
ネオンが今渡したのは、今日見てまとめを行ったログ全て。
自分の試合のことがすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
「まあ、こっちも見とくからいいよ。あんま無理しないようにな」
「はいっ」
全く、この調子では持ちそうにない。くすくす笑い続けるワタルと再度手を重ねる。
「俺も早くは来れなくなりそうだ、また開発がな」
もう夕空も燃え尽きた。
「あのっ、……帰りは、一緒に飛べますよね」
「ああ、お前が待てるなら」
レイヴンの開発当時はまだ免許もなかった。頭上をワタルのセンチネルが過ぎるか過ぎないかの頃に、夕闇を見上げながら一人トラムに乗ったものだった。
所沢飛行場の中央にそびえる博物館。駐機場には黄緑色のレイヴンが五機並ぶ。
エントランスホールの脇には椅子とテーブルが並べてあり、簡易的なレストランとされている。機体と同じ黄緑の飛行服を着た男達が背もたれに身を預ける姿は平日夕方のお決まりとなっていた。
この飛行場を本拠地とする曲技チーム「カラミティーズ」が練習を終え、一日の振り返りついでに羽を休めている。
全員のカップが空になったところで席を立つつもりで、皆なかなかコーヒーを飲み干さない。辺りには緩みきった空気が漂っていた。
「ん?」
一応脇に表示していた管制情報に、淡白な顔つきの副リーダーが目を向ける。
北東から一機この博物館に近づいてくる。機種を見るとテレポーター。
「ヒトシ、刈安来てるよ」
「あ?」
チームのリーダー、小松田が振り向く。眉間に苦々しいしわが刻まれているのが見えたはずだが、副リーダーはただ黙って顔を見つめ続けてきた。
「分かったよ、しゃあねえな」
結局小松田が折れて席を立った。
表に出てみると夕方の風はまだ温みきっておらず、短く刈られた頭が空中にいるとき以上に冷やされる。
濃紺の夕闇に翼端の光が見えたと思うと、見る間に膨らんで細長いシルエットを現した。
その調子でさっさと用事を済ませて帰ったらいいと、テレポーターの速度でも小松田にはまだじれったく感じられた。
博物館から漏れる灯りが山吹色の主翼を浮き彫りにする。
ナドウモビリティの試験飛行センターから飛来したえとりが、小松田の目の前に着陸して手早く機体を畳んだ。
その顔に微笑はなく、小松田の渋面とさして変わらない。巣篭亭に行ったことのない小松田にとってはこちらこそが見慣れた姿だった。
「珍しいじゃねえか。わざわざこっちっ側まで」
「ええ、本日は皆様にお伝えしたいことがございまして。今後私どもの開発作業がより活発になりますので、試験飛行中こちらの方まで失礼させていただく場合がございます。申し訳」
そこで小松田は手の平を上げて遮った。
「申し訳ございませんがご協力のほど、だろ?気にすんなってこった、ここは俺ら専用じゃねえ」
「大変感謝いたします」
えとりは顔が隠れるほど頭を下げる。小松田はその半分の角度でも下げすぎだと思った。
「刈安おめえ、もうちょっと気楽にやれねえもんかね……。きっちり座らされてナイフとフォーク持たされそうだぜ」
「そうおっしゃられましても……。まさにお客様にそうなさっていただくために、幼い頃から叩き込まれてまいりましたから」
小松田は顎に手を当て、眉間をますます深く折り畳んだ。
「アメジさんに頼んではみたのですが、たまには様子を見てくるようにと」
「まあ、ああいう人だしなあ」
二人して小さくうなずく。
試験飛行センターに戻れば、意地悪くにやけたユカリが待っているだろう。
調布より高さで五割、直径で倍も大きい横浜のタワー。その居住フロアの一角。
小さめの住居がひしめき合って狭苦しい印象を与える区画には、一人暮らしの男性にありがちな単なる立方体の家も多く見られる。
その中の一つに、真っ赤な飛行服を来た男が戻ってきた。
「あら鬼塚君、こんばんは。お帰りなさい」
「こんばんは、どうも!」
近隣の婦人と明るく挨拶を交わしながら、鬼塚は玄関に入った。
作った笑顔がすっと消える。
内装もよくあるワンルームで、ベッドと分子プリンターくらいしか家具といえるものはない。
鬼塚はその中に立ち、右手を上げた。
点いたばかりの照明が再び消え、順位を示すツリーが浮かび上がる。
三回の試合を行って帰ってきたが、自分の星に変化はなかった。試合線がびっしり取り巻いていて一見の姿は変わりようがないし、順位も今更変動することはなさそうだ。
それは自分の直上に燃え盛る一等星も無論同じ。
ワタルの圧倒的な力を一目で分かる形で知らしめる、このツリーを考え出した人には感謝したい。たった一人に許された玉座に納まるワタルを見上げていると、鬼塚は心に不思議な安らぎを覚えた。
もうワタルが直接鬼塚の相手をすることはないだろう。ワタルに会うことすらこのまま二度とないかもしれない。それでも、かつて深く崇敬して後を追い、そして挫折させられたワタルの力が、こうしてありありと示されている。触れられなくても、自分の信じるものの頼もしさが感じられる。
そのワタルと自分の星に近付いてくるものといえば、ワタルとの結び付きがすっかり強まったことを見せつけるネオンの星。今日の試合でまた少し位置が上がった。
ログマスターである彼女の元には連日新しい挑戦者が押しかけ、ことごとく返り討ちにされている。この流れが衰えない限り、彼女はますます攻め立ててくるだろう。
しかしそれはまだ時間のかかること。今このツリーの中で鬼塚の胸中を最も強くかき乱すのは、彼の隣の星だ。
ツリー全体をよく眺めると先端近くがわずかに薄くなっている。その原因はユカリにある。
すぐそばのワタルや鬼塚と、全くつながっていない。