デニムスカイ第二十五話
「大航海 -Bonus Stage-」
 空になったビーフシチューの皿とパン籠が、母親の手で食卓から片付けられていった。
 半年ぶりの光景。円熟した味といいパンの焼き加減といい、母親の料理の腕は全く衰えていなかった。
 父親など二杯もお代わりして、満足そうに腹をさすっている。穏やかな視線は台所で紅茶とデザートを用意する背中に向けられていた。
 両親には改めて言っておかないといけない。
 今夜のことだけでなく、この半年間ネオンが行ったこと、得たもの、そしてこれからのことを。
 それは多分、免許を取っていいと言ったとき父親が考えていたものを大きく超える。それらを話して、父親がどう思うかは分からない。
 振り返った母親の持つ盆には、ポットとティーカップに加えもう一組ずつカップが載っていた。テーブルの傍に立ち、プリンの入った上品な柄のカップを並べる。
 母親は、元々喜ぶはずがないのははっきりしている。
 しかし自分の自由にすることに母親が強く反発することはもうない。ネオンにはそう思えた。
 母親の部屋に並んだ人形に、自分と似たものはなかったからだ。
 紅茶も淹れ終わった母親が席に着き、父親がスプーンを手に取る。
「あの……、聞いてほしいことがあるの」
 両親の視線がネオンに集まった。

 空戦のこと。自分の上達ぶり。プロの曲技パイロットにも勝てたこと。
 出会った人々とのぶつかり合いと関わり合い。ワタルと日下氏のこと。ワタルの腕前と頼もしさ。二人がどれだけ自分の助けになってくれたかということ。
 協会でログのまとめの仕事をしないかと誘われていること。
 両親は二人一様に、真剣な顔で聞いていた。
 はっきりした反感もないが、大歓迎でも決してない。
「ネオンは」
 父親が口を開いた。
「自分でも不安に思ってるね?その、仕事のこと」
 すっかり見抜かれている。誤魔化しても仕方がなさそうだ。ネオンは正直に小さく頷いた。
「その、お父さんもね」
 父親の顔が、やや緩んだ。
「仕事で新しいことを始めるときや大事な場面を迎えるときなんかは、不安に思うよ。そんなときはね」
 今度は父親の口角がはっきりと上がる。
「逆にいい気分になってくるんだ。自分が真剣なんだ、いい加減な気持ちじゃないんだって分かるからね」
「それじゃあ、」
「まあ、ちょっと早い気はするけどね。お父さんは賛成かな」
 ネオンの肩と喉に溜まっていた力が抜け、つかえ気味だった息がすっと抜ける。
 黙っていた母親が動き、視線を集めた。
 母親は一旦父親の耳に口を寄せたが、父親は手ぶりで直接話すよううながす。
 おずおずとネオンに向き変えた母親は目を泳がせなかなか口を開かないでいたが、やがて、囁くようなかすれ声が発せられた。
「勝負事をするのが、楽しいの?」
 仕事自体のことではない。母親には空戦のことのほうが気になっていたらしい。
 なるべく可愛らしくと育ててきた娘が戦いに打ち込むのは、やはり受け入れづらいのだろう。
「うん……。練習したことを他の人と比べ合って、それが通用したりしなかったりするのが、楽しい」
 母親は何度もまばたきしたり、深く息を吸ったりしてから、改めてもう一言。
「静かに暮らしてたのに、どうしてそんな争いをしたくなったの?」
 母親の言い方に、ネオンは違和感を感じた。
「逆なの」
 問いの答えになるか分からないが、ネオンはそれを言葉にしてみた。
「何かと戦うことが、必要だったの」
「ネオン」
 父親の声。
「この半年ちょっとで、何て言うか……、大人になったね」
 自分では全くそんな気がしない。相変わらずワタルに助けてもらってばかりで……、と、結局それを気にしている。ただ照れ臭そうに見えるように頭をかいてみせるくらいしかできない。
「プリン、ぬるくなっちゃうよ」
「あ、うん」
 ずっと話していたから手をつけていなかった。一口運ぶ。以前より美味しいと思える。
「約束の時間も近いみたいだし」
 カップから顔を上げると、父親がやや下を向き目をそらしていた。
「いや……、心配は心配だけどね」

 芝生の陰に小さな明かりが並び、ひっそりと寝静まりつつある居住フロアの歩道をほのかに照らしていた。
 薄暗い中を出かけていくのは、暗い道を帰るのよりずっと寂しい。
 時間にはまだ余裕があるのに、足は自然と素早く動く。
 駅に着くと一転して眩しい光と白っぽい壁が目を刺した。だが、人気が無いのは変わらない。
 エレベーターの位置を示す縦長の掲示に、ずっと下の商業フロアでせわしなくうごめく何台かが映る。その中から一つだけ、こちらに上がってくるものがある。
 早く、早く。そんな階で何をしているのか。ネオンは思い通りに進んでこないエレベーターに悪意すら感じた。
 やっと着いたエレベーターの席は九割強空いていた。
 残りを埋める帰りの客には、ネオンの姿が異様に見えただろう。それは体の色のことだけではない。
 金曜の夜、外は雨。飛行服を着てフリヴァーなど持って、一体どこに飛び立とうというのか。
 そう思われていることは分かったが、気にしている場合ではないと思うまでもなく、ネオンは気にも留めなかった。
 管制と気象情報を膝の上に表示。
 一つだけ灯る光点にネオンは目を見張った。
 多摩丘陵を覆う雨雲の上限すれすれ、タワーの西側を旋回している。
 優れた感覚を持ち管制にも助けられているとはいえ、暗い雲の中を飛び続けるのはつらいはずだ。
 そうであるからこそ、ワタルが見せようとしているのは今このときでないと見せられないもののはずなのだが。
 気付けば屋上のすぐ手前、乗客はネオンただ一人。
 エレベーターを降りた時点で雨雲は二層になった屋上の間に入り込んでいて、申し訳程度の明かりが示すリフトの縁をぼかしていた。
 光の中心に、そっと踏み込む。全身に水滴がまとわり付き、髪を濡らし頬を冷やす。
 低くかすかな音が鳴ることで辛うじてリフトの動作が分かった。
 その音が止んで上層に着いたはずだが、視界に何の変化もない。
 水に閉ざされた暗闇。
 地面が本当にあるのか爪先で確かめながら輪の外に踏み出すと、街路と同じ明かりが灯った。が、ほんの足元が明るいと分かるのみで、自分の膝すら闇に隠されている。
 それでも、管制のおかげで向くべき方向を知ることができる。
 今、真正面にワタルがいる。冷たい雲の中で何も見えなくても、それさえ分かれば怖くはない。
「ヒムカイさん……」
「着いたか。じゃ、始めるぞ」
 光点は旋回を止め、こちらに向かい始めた。
 高度は雲の上限に保たれたまま。
 ネオンは水滴に包まれながら闇を見つめ続ける。そのうちワタルの姿が現れるのだろうか。しかし、どうやって?
 何をするつもりかネオンには見当が付かないまま、ワタルはどんどん近付いてくる。
 ワタルとタワーの間の距離が半分になり、さらに三分の一になった頃、ネオンは気付いた。
 目の前がほんの少し、明るくなってきている。
 青味が徐々に増し、黒一色でなくなりつつある。
 気のせいでも、目が暗さに慣れてきたのでもない。
 明らかに黒雲の目隠しから澄んだ夜空に近付いている。
 ワタルの瞳によく似た、深い紺色に。
 やがてワタルがタワーをすっかり通り過ぎたとき。

 目の前に星空が現れた。

 頬に感じる軽さで本当に晴れたことを知った。
 雲は渇いた空気の塊に切り裂かれて左右に退く。
 崩れ落ちるような雨の壁が、星明かりに照らされる。
 もう空は閉ざされていない。宇宙空間までも開いている。
 足元の芝生もはっきり見える。ネオンは振り返り駆け出した。
 顔をなぞる雫を拭うのも忘れ、乱れる風に吹かれながら屋上の縁まで辿り着いた。雨雲は留まることなく押し退けられている最中だ。
 どんどん下がっていく壁の上から、星々が零れ出す。
 広がり続ける雲の裂け目。その先端がほんのりと明るくなっていく。
 雲の縁が白く光り始め、新しく現れる夜空の色が群青を越えて明るい瑠璃色になり、
 ネオンの目に閃光が飛び込んだ。
 反射的に一瞬閉じた目を再び開いて映った、光の中心。
 満月。
 完全に澄み切った夜闇に、東から昇りつつある月が浮かび上がる。
 今や分厚い覆いを剥ぎ取られ、鋭く、それでいて優しい光を投げかけてくる。
 ふと足元に目を向ければ、月光は灯火よりずっと頼もしく辺りの様子を明かしていた。
 地表の草の葉とネオンの白い睫毛の先で水の玉が煌めく。
 雨の壁も月光を受けて大理石のように白く輝く。
 雲と雨の海を切り分けて、タワーを丸ごと載せた巨大な空気の船が進んでいく。
 その舳に、一際冴え冴えと照らされるものがあった。
 ワタルはゆったりとした速度で、わずかに蛇行して進む。
 昼と同じ大きな装備を背負っているのがはっきりと分かる。
 どんな試合や曲技のときにも増して目を離すことができない。
 追いかけなくていいのか。
 そう頭に響き、すぐに機体を持つ手を動かした。
 ネオンの行く手を阻んだものは、もはや晴れて消え去っている。
 点検項目オールグリーン。周囲に他の機体無し。三歩踏み出し、タワーを蹴る。
 立ち止まっていられない。
 どこまでだって追いかけて、
 いつか必ず追い付いてみせる。
 掲げた紋章の烏そのままに満月を目指すワタル。
 その背中を、ネオンは真っ直ぐに追っていった。
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