デニムスカイ第二十四話
「ONWARD-Summoning-」
「それは君、どんどん進んでしまったらいいじゃないか。彼や僕のお節介なんか気にしてどうするのさ」
そう言って呆れたように笑う立体映像の日下氏に、ネオンは面食らっていた。
自分が考え込んだ分だけ相談も込み入ったものになるつもりでいたのだが、日下氏は問題自体存在しないと言わんばかりだ。
「腕前にしたってね、彼や鬼塚君が特別なんだよ。テストパイロットだってあそこまで喧嘩が強いのはそういないもの。あんなのを見本にしていたらいつまで経っても仕事なんてできないよ」
「そ、そうですか」
ワタルの腕には当分追いつけるはずがないと日下氏は見ている。
ネオンもそれが分かっていないわけではないが、あの約束のことを話すとまた笑われそうだ。
「ヒムカイ君も、調布に来た頃は愛想もなくてやたら尖っていたし……。ほら、君が初めて来たときも立花君を怒鳴り散らしてたじゃない」
「前はいつもあんな感じだったんですよね」
「ああ、皆ヒムカイ君が忙しいときだけを狙ってカフェにたむろしたものさ。彼も今はすっかり居心地良さそうにしているだろう。君には感謝しているよ」
「え、でも私は別に何も」
「何もしていないと思うかい?」
「その、飛行場のみんなと試合したときなんかも、私は助けてもらってばっかりで……」
いつも肝心なところではワタルの力を借りずにいなかった。
「その前からさ。それより前から、彼は随分穏やかになっていたよ。なぜだか分からないかい?」
「えっと……」
「彼は、君のことが好きだからさ」
何を言われたか分かるのに数秒かかった。
考えの真裏から来た言葉の意味を理解し、それが無防備な急所に刺さったと分かるのにかかった時間だ。
「なっ、かっ、か……、!」
からかってるんですか、と叫ぼうとした勢いで、唾液が気管に入ってむせ返ってしまった。
また何だかよく分からなくなって、咳き込みながら、ああ耳が熱いな、などと余計なことが気になり出した。
「はは、大丈夫かい?君が慌てるような意味ではないよ」
ならばなぜ慌てるような言い方をするのか。日下氏を睨む視界はにじんでいた。
「君は調布の空を晴らして、立川にかかった蜘蛛の巣も取ったんだ。君が動けば、周りに新しい風が吹く。僕らはたとえ君が嫌がったとしても、君を助けたいくらいだよ」
そう日下氏が語るのもあまり頭に入らないまま通話が終わった。
それから二日間、飛ぶことができないまま金曜になった。
放課後を迎えたネオンは手の甲にタワー外の気象情報を映す。
本降りの雨。朝には降っていなかった。こうして淡い期待が外れるのも、これで三日連続だ。
気休めに、学校のあるフロアのテラスに出てみる。
見えるのは水浸しになった灰色の大気ばかり。隙間なく閉ざされて、晴れる気配は全くない。せっかくの土曜日も飛べずに過ごすことになりそうだ。
このまま中に戻れば、ネオンは飛行服に着替えもせず白いワンピースのまま帰るだけだろう。
何の楽しみもなくただ一人、以前と同じように。
ただ白い髪を帽子で隠すことはしない。ネオンにはもうそんな必要はない。
これ以上、空と自分の間を阻むものはいらない。
吹き込んでくる空気はネオンの指を湿らせ、ゆっくりとかじかませる。雨が止む頃には秋もすっかり終わりだろうか。
もう少し上では水滴ではなく雪の粒が飛んでいそうだ。
さらに上がったら雲を抜ける。
そこでネオンは思った。
もし地表に降りたりせずタワーから飛び立ってタワーに降りれば、大部分雨を避けて飛ぶことができる。
飛行場で休憩はできないし不自由なのは確かだが、とにかく飛ぶだけならできる。
なぜもっと早く思い立たなかったのだろう、シルフィードを持ってきておけばよかった。ネオンは後悔しつつも気持ちをはやらせていた。
一旦家のあるフロアに戻ってそこから飛ぼう。いや、その前に雲の上限がどのくらいの高さか確認しておかなければ。
気象情報はタワー頂上から二千メートルまで雲だと伝える。
シルフィードなら難しくはない。
あまり高く上がらなくなった太陽が横合いから照らし、雲海にくっきりと陰影を付けていた。
なだらかな起伏は雪原のように見える。いや、本当に雪でできているのだった。
自分の影が先を行き、凹凸を滑らかに撫でていく。
地表からの塵が遮断された天球は澄み渡り、静けさを雲まで降り積もらせている。
飛行場上空に到着。
そっと左バンク、緩やかに旋回。
影を追い越し、また追い越される。
回り続けながら螺旋上昇、影と別れる。
高いところにいる、ネオンはそんな風に思う。
高度はいつもと変わらない。すぐ下を隙間なく覆う雲が、じりじり下がっていくのがはっきり分かるせいだ。
さらに横転、背面に。
逆落としにループ。
頭上に白い地面。
すぐに上がる。
背面のまま水平に。
姿勢を直さずに進む。
すぐにログを見てみると、雲までまだ百メートルはあった。
ぶつかっても平気なのに臆病すぎた。ワタルなら本物の地面にももっと近づけるか、それともプロだからそんな危険は冒さないか。
ネオンは比べてばかりの自分に気付き、考えを打ち切った。
シルフィードを手に入れた日のように空を見つめて浮かぶ。
しかし天頂にワタルはいない。ネオンにはそれが、あるべきピースが外れて穴が空いたように見えていた。
飛行場の上まで来れば、飛びさえすれば、ワタルに会える。どこかそんなつもりで、「飛びたい」と思っていた。
一人でのんびり浮かんでいようとしても、気持ちはダイブをかける目標を勝手に探している。後ろを取られる前に見付けなければと焦っている。
「好きだから」
頭の中に響く声色は、いつの間にかワタルのものにすり替わっていた。
パイロットとして気が合うということを日下氏がネオンをからかいたくてそう言ったに過ぎず、同じことを言うにもワタルなら全く違う言葉を使うだろうに。
改めてワタル本人と話したい。ちゃんと話してから、どうするか決めたい。
ワタルはそんな言いもしないことなど知る由もなく、いつもどおり落ち着いた姿を見せてくれるだろう。そうしてこのぼんやりと火照ったような感じをなくしたい。
こうしていても仕方がない。早く家に帰ろうと、横転し正立に戻ったとき。
雲の雪原に一つ、黒い染みを見付けた。
待っていたように翼を上下に振る。
「似たようなこと考えるもんだな」
管制を通じてワタルの声がはっきりと届く。思っていたより少年じみている気がする。
「あっ……、あの……えっと……」
あんなに話がしたいと思っていたのに、かえって熱を帯びた頭からは何の文章も出力されない。
とにかく近付きたい。急減速せずに済む程度に素早く降下、ワタルの左上に並ぶ。
レイヴンの両肩には模擬銃ではなく、もっと大きくて前後に口の開いたものが装備されていた。
「今夜、暇か?」
「えっ……、今夜、夜ですか?」
「飛ぶ用意して八時に屋上に来てほしい。見せたいものがあるから」
多分それまでに雲が晴れることはない。ワタルなら、それは分かって言っているだろう。
「はい」