デニムスカイ第十八話
「Electric Cafe -Dangeon-」
 母親の部屋を隠して広がった草原を、丘に向かって歩く。
 実際には、無数のナノマシンがネオンにまとわり付いて五感を与えているにすぎない。そのことを考えすぎてこの世界に入り込めずにいると、仮想空間に異物と見なされ、ネオンに対するシミュレーションは強制終了する。
 しかし飛行場の草原で長く過ごしたネオンの肌は、分子と神経信号で精巧に模擬されているはずの感覚にも絶えず違和感を訴え続けていた。
 ここの草はへつらっているかのように柔らかく無臭で、風はぎこちなくまばらにしか吹いてこない。
 それらを無視できたとしても、季節に見合わないほどの暖かさ。タワーの外と違うことを認識せずにはいられなかった。こういう独自の空間なのだと思ってなんとか保っている。
 空など見上げる気にもならない。晴れているらしいが、どうせ曇ることなどないのだろう。
 とにかく、この日ここに来ればチャンスは必ず訪れる。それまでは耐えなければ。
 少しずつ順応しつつ丘の中腹まで辿り着いた頃。
 頂上のクリーム色をした小屋から、白黒のものが出て来るのが見えた。
 ここで最も注意すべきもの。だが、警戒を表に出してはいけない。
 ゆっくりと近付いてきて、人間の、子供の輪郭が明らかになる。
 幼い足取りに合わせて揺れる、黒いノースリーブのドレスと揃いの黒いリボン。
 それらに引き立てられる、透き通るように白い肌、白金に輝く長い髪。
 血潮のように赤い瞳が見つめてくる。幼いなりに整った顔立ちは人形を思わせる。
 八歳の頃の自分が、目の前に立ち止まった。
「はじめまして、お姉さん」
 深く頭を下げ、丁寧に挨拶をしてくる。
「父のお知り合いの方?」
「ええ……、はじめまして。こんにちは」
 母親から植え付けられた礼節を盾にする他なかった。

「素敵なところでしょう、私はここに住んでるの。父も一緒にね」
「そ、そうね。暖かくて、気持ちいい」
 二人の白い少女は、小屋まで並んで歩きだした。
 脇を黄色い蝶が通りすがり、ネオンはとっさに目をそらした。
 空戦により研ぎ澄まされた動体視力で、その可愛らしいものに節足動物として生きるためのディテールがないことを捉えかけてしまった。
 ここはただの仮想空間ではない。母親が作り出した理想の世界なのだ。
「お姉さんも、私とおんなじなのね」
 無論、体の色を指している。
「黒か赤のお洋服を着たらいいのに。そのほうがよく目立ってきっと綺麗よ」
 無邪気に笑う口から、母親と全く同じ言葉が出てくる。
 全身の肌に刺さるような戦慄をこらえ、ネオンは笑顔を作った。
「そうかも、しれないね。でも、私は、あんまり、自慢に思ってなくて」
 やはりこれは、母親なのだ。
 父親の言っていたとおりだ。母親はここで、かつて自分の理想どおりだった我が子の姿を借り、自分こそが純白の少女ネオンだと思い込んで過ごしている。
 ネオンと父親の目的は、この遊びを止めさせることだ。
 小さな母親はあまり納得していない様子でネオンを見上げていたが、すぐに下を向いてしゃがみ込んだ。
「ここのクローバーはみんな四つ葉なの」
 それを聞いてネオンは頭を抱えそうになる手を抑えた。そんなものに何の有り難みがあるというのか。
「手を出していただけないかしら」
 請われるまま、手の平を差し出す。
「逆さまよ」
 甲を向け直すと、母親は小さな手で中指にクローバーの茎を巻き付け、丁寧に葉の向きを整えながら結んだ。
「できた!歓迎の印」
 クローバーの指輪、その向こうに屈託ない笑顔が見える。
 おそらく色鉛筆で描いたようなきれいなものであろう四つ葉を、見つめ過ぎないようにした。
「ありがとう、とっても可愛い」
 十年近く前、母親は四つ葉のクローバーを長いこと探し続けたことがあった。場所はタワーの外の公園。
 あのときは自分のためだと思ってただ嬉しかったのだが、今考えると子供じみた執着心に外ならない。
 この野原は、あの公園を母親なりに改良したものだろう。ここのクローバーは皆「合格」というわけだ。
 今母親はその幼稚さに相応しい姿になって、鼻唄混じりに元気良く野原を歩いている。

 小屋のある丘の頂上にはすぐに着いた。
 そばに生えている大木には、太い枝からブランコが下がっている。
 白い座面は緻密な彫刻が施された華やかなもので、ロープは蔓薔薇で飾られている。以前、家の内装が丁度こんな雰囲気だった。
 母親はブランコにちょこんと座り、
「押してくださる?」
 すましながらも甘えたような目を向けてくる。
 ネオンはやむなく母親の背後に周り、刺のない薔薇のロープを押し始めた。
 ブランコは思いの外軽く、母親は黄色い嬌声を上げながら高く揺れ上がる。
 丸っきり親子が逆転しているようだが、不思議とおかしな感じがしなかった。
 こうなる前から母親の遊びに付き合わされてきたからだろう。
 母親の楽しそうな笑い声を聞きながら、ネオンはブランコを押し続けた。
 初めからこんな遊びばかりなら、ただのどかで無邪気な時間を分かち合ってこられただろうか。いっそ自分と母親が反対だったらよかったとも思えてくる。
 いや、やはりそれは受け入れられない。
 我に返ってみると反復運動で細い腕に疲れが溜まり、息が切れてきていた。
「あら、お疲れかしら?止めていいわ、ごめんなさい!」
 お言葉に甘えてブランコを受け止め、深い息をついた。
「つい夢中になってしまって。大丈夫?」
「うん、平気。でもちょっと休ませてね」
 そう言うと母親はぽんと手の平を打って顔をほころばせた。
「ちょうど美味しいお茶っ葉があるの、お茶をご一緒しません?」
 これで小屋の中に入ることになるだろう。母親の暮らしに深く突っ込み、機会を伺うには丁度いい。
「それじゃあ、いただきます」

 木組みの小屋の外観は、家と同じように柔らかな色合いと大き目の部品で可愛らしくまとめられている。
 当然、中に入ってみてもかつての居間やネオンの部屋と変わらず、優雅な曲線を纏った家具やきらびやかな小物で固められていた。
 ここ半年ばかり忌避してきた雰囲気に再開する羽目になりかえって疲れが増しそうだったが、ここはこらえて世辞を言っておく。
「素敵なお家ね」
「そうでしょう!?みんな父が揃えて下さったの、私の頼んだとおりに!」
 母親は高い声に自慢と悦楽をたっぷり載せ、部屋の真ん中でくるりと回ってスカートを浮かせてみせた。
 昔のとはいえ自分と全く同じ姿で、母親そのものの振る舞いをされる。そろそろ耐え切れなくなってきた。
 まだなんとか表情を抑えることには成功したようだ。母親はにこやかなまま椅子に手を添えて勧めてくる。
「ありがとう」
「ちょっとお待ちになってね」
 母親は踏み台をキッチンに持ってきて、紅茶の用意を始めた。
 手際よく湯を沸かし、茶器を温め、茶葉を量る。八歳のネオンの姿で。
 実際のネオンは、怪我でもしたらと言われて台所に近寄らせてももらえずに育ち、今は夕飯の準備に苦労する有様である。
 あまりにも母親に都合の良い暮らしぶり。小さな背中を見る目に苛立ちがこもる。
 とはいってもここは母親の思い通りの空間であり、母親の手の平と言ってもいい。
 小さな子供に見えても、怒りに任せてねじ伏せようとすればこの仮想空間を追い出されるだけで終わるだろう。手荒い真似をしなくても、遊びに水を差せば同じことだ。
 とにかく今は待つしかない。
「あっ、いけない!」
 唐突に声を上げ、母親が振り返った。
「ごめんなさい、今はあんまりちゃんとしたお茶菓子をお出しできないの。そうしないと今夜のご馳走が食べられないわ」
 すまなそうな顔がぱっと満面の笑みに代わる。
 ネオンの胸が急速にざわめく。
「お姉さんもお祝いにいらしてくれたんでしょう?だって今日は私の」
 違う。
 思わず立ち上がる。
 椅子が倒れ、音は鳴らなかった。

 母親の顔が恐怖に歪むのを一瞬だけ捉えた。

 部屋は全くの暗闇ではなく、ほのかに明かりが差し込んでいた。
 開いた扉から覗き込む父親の気配が、背後に感じられた。
 自分の影が正面のベッドに向かって伸びている。
 影はシーツにくるまった母親の体に重なり、その左には、母親の顔。もちろん、本来の姿である。
 見開いた目で呆然とこちらを見つめる。
 母親も仮想空間から追い出されたのだ。どこかに潜んでいた罪悪感のためか。
 眉根には次第に深い皺が刻まれていき、唇は細かく震え始めた。
 一歩前に出る。シーツの肩がびくりと動く。
 そのまま近づくとシーツは母親の手に強く引き寄せられ、顔は丸まった肩に隠れた。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
 叫ぶ声が何度も響く。
 ネオンはベッドのそばにそっとしゃがみ、右手を伸ばした。
 中指には四つ葉の指輪。映像だけでなく実際に合成されたようだ。
 触れた肩がびくりと震え、叫び声が止まる。
 嘘がばれて慌てる子供。ネオンには今の母親がそんな風に見えた。
 身をかがめ、顔を寄せてそっとささやく。
「他に言うことがあるでしょう?」。
 小刻みな震えを止め、母親は恐る恐る顔を起こした。
 見つめていると、眉はわずかに緩み瞼が下がっていった。
「あ……、誕生日……、おめでとう」
 目を見て言ってはくれなかったが、ネオンはそれでもう満足だった。
「ありがとう、お母さん」
 何年も心の底からは言えなくなっていた言葉を、全く新たな気持ちで口にすることができた。
 ネオンは十六歳の誕生日を取り戻した。
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