デニムスカイ第十四話
「Like Your Magic -Next Stage-」
夏の勢いをすっかり失った草の葉を、冷めて渇いた風が揺らした。空には刷毛雲が薄く塗り広げられている。
飛行場中央、大きく開いたカフェの入口。ネオンの着くテーブルの上には紅茶のカップと、今しがた終わった曲技練習のログが載る。
地平線の上、工房の方角に青緑の機体が見えた。
レイヴンの市販が開始して早々、次の機種に向けて改造したレイヴンのテストフライトが始まったところだ。
ログから目を離したネオンに管制がアラームを鳴らす。
ワタルの手が空いていないにも関わらず、侵入者。
タランテラBが一機近付く。
南に寄り工房を迂回。挑んだのはワタルにではない。ネオンは椅子を鳴らして立つが、
「まだ休んでたら?」
そう声をかけて灰色のパイロット、柏のタランテラが飛び立っていった。
侵入者の機影が見え始める。
後手の柏は急いで上がる。
紺色の機体が近付く。
鏡合わせに右旋回、
小さく早く回り、
互いの尾を掴む。
一周、正円を描き、
二周目、綺麗になぞり、
三周目に入ったところで、
紺色の傾きが乱れる。
柏は逃さない。
すぐに二機とも大人しくなった。
彼らが少しだけ真剣に試合を楽しむようになってから、平日の侵入者が増えていた。戻ってきた柏の口角が上がっている。
「お疲れ様です、明日は私の相手してくれませんか?」
「あー、今勝ったからいいかあ」
勝ち目がなくとも断りも手抜きもしないとネオンには分かっている。カフェの椅子は以前よりずっと居心地が良くなりつつあった。
家路に飛び立とうと柏が機体をつかむのと、ワタルが店に現れるのが同時だった。
見せろと言われる前に柏はワタルと手の平を重ね、試合のログを渡す。
「悪りい、手短に頼むわ」
「しょうがねえな」
立ったままログを表示させたワタルは少しだけ顎に手を当て、
「同じ機種同士でも相手と同じ手は使うなよ。実力で敵わなかったときに挽回できないからな。自分が楽だと思う手を相手も使ってくるはずだから読みやすいだろ」
すぐに言葉が流れ出た。
それこそ難題だと言わんばかりに頭をかきながら出ていく柏と入れ代わりに、ネオンはワタルに駆け寄った。
「あの、発売おめでとうございます!」
「ああレイヴンか。ありがとう」
「日下さんにもお祝いを言った方がいいですよね」
「程々でいいと思うよ、もう次のやつに夢中みたいだし」
そう言うワタルも数ヶ月前、佳境に入ったレイヴンの開発に休みなく打ち込んだものだった。
「また忙しくなっちゃいますか?」
「いや、急ぎじゃないから普通にこっちに顔出せるよ」
窓から差し込む夕日の中にワタルの笑顔が浮かび上がる。
「物足りないか?」
「あ……はい、相手してくれる人は増えましたけど、その、」
「なるべく早く寄るようにする」
表に出ると、草地を照らす夕焼けの金色はすでに落ち着きつつあった。
「また後でな」
「はいっ」
その夜、部屋での通話が終わりワタルの立体映像が消えても、ネオンは見てもらったログを表示し続けていた。
バレルロールを描く曲線の周りに鈴なりになって付けられた注釈。まだネオンの身につけていなかったことが、ワタルの助言でいくつも書き込んである。
飛行経路を指でなぞりながら、もっと上手く回る自分の姿を思い浮かべて頬を緩める。
それに続けてワタルのことを頭の中でかき混ぜていて思い出した。日下氏にお祝いを言わないといけない。
すぐに繋がって白衣姿の立体映像が浮かんだ。まだ作業中だっただろうか。
「お邪魔してすみません。レイヴン無事発売、おめでとうございます」
「うん、ありがとう。君にとっては新しいハードルの出現かもしれないね」
「え?」
「ヒムカイ君以外にレイヴンで君に挑む者がいないとも限らないからね。今までは頼もしい愛機の力に助けられていたけど、これからは弱点の突けない相手も現れるかもしれないよ」
日下氏の言う通り、ネオンが今まで勝ってきたのは機体の性能でも実力でも優位に立てる、勝って当然の相手ばかりだった。
鬼塚に至っては、身軽さではかなり上回っているにも関わらず四戦全て負かされている。
「気負うことはないよ、君は君のためだけに飛んでいるのだから。勝ち負け含めて君自身の財産とすればいいのさ」
確かにネオンは負けて何を失うわけでもない。鬼塚が言った「誰が相手でも楽しめ」という言葉に、勝てそうにない相手を含めてもいいのだろう。現に飛行場の皆もそういう風にしつつある。
「日下さん、いつもありがとうございます」
「なに、君の存在は調布に必要なものだからね。飛行場が活気づいてきたのも君のおかげじゃないか」
あの五人との試合に日下氏も一枚噛んでいたのだった。
そこではたと気付いた。
「あの、巣篭亭っていうお店をご存じですか?」
「おや、君からその名を聞くとはね。あの店は僕らの隠れ家さ。昨晩もヒムカイ君とささやかな祝賀会を開いたところだよ。いや、君もご招待すればよかったかな」
思った通りだった。
「今度は呼んでくださいね。それじゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ。良い夢を」
立体映像がふっと消える。
あんなひっそりとした店にワタルが知らない誰かと入り浸っていたわけではなかった。胸に入り込んだ小石が取れた気分だった。
立ち上がって軽い足取りで分子プリンターから紅茶を取る。
指で空中に輪を描くと、鬼塚の公開するログの一覧が浮かぶ。
レイヴンを恐れるよりも、何回戦っても勝てない鬼塚がどのように自分より上手いのかを知りたい。
一目でその一覧の膨大さが分かった。カップを置いて座り直す。
三年前からの、千八十六ものログ。日付を見れば平日に数個ということも珍しくない。
ざっと遡っていると一年分程でワタルの名に行き当たる。
絞り込んで表示し直すと、ワタルとの試合だけで全体の半数に及んでいた。ワタルが今よりずっと早いペースで試合していたのが分かる。今でもこのくらい試合がしたいと思っているだろうか。
鬼塚の望み通り、ワタルが横浜に帰りたがっても無理もない。
横浜は巣篭亭より警戒すべき場所なのかもしれない。
雲が増えて翌日。飛び立って早々に管制からの通知が入った。
飛行場に近付く一機。
機種の欄には、「レイヴン」。
推力最大、頭を一定の向きに上げる。同時に飛行場にメッセージを送った。
「あのレイヴンは私に任せてください!」
快い返事が届き、それと連動して交戦状態に入ったことを確認。
最大上昇率を保つ。上昇力で敵わない分を少しでも埋めたい。
だがダイブで来るというのも思い込みにすぎない。
見下ろす地表は羊雲の群れに覆われている。
右前方に、影。
高度は自分と変わらない。
こうなると相手の狙いがよく分からない。
水平の動きが主ならまだ少しは有利な部分もある。
右横転。
背中を向けたまま進む。
細い主翼が分かる。色は、
見覚えのある黄緑。
気が抜けて姿勢を崩しそうになった。相手は、もう来ないと言いながらこの前現れて清水達に揉まれた小松田だ。
彼のチームが早速レイヴンを採用したのだろうか。
何にせよあなどるべきではない。
小松田の主翼の傾きを監視。
水平のままだった背中が、
こちらに向けられる。
ネオンもバンクを深める。
小松田は昇りながらロール。
黄緑の背中が覆い被さる。
相手が落ちる前に、
横転頭上げ、
内側に飛び込む。
上瞼の縁に黄緑の影。
こちらを見失って動けずにいる。
U字の底から上がると、
横転する相手。
逃さず連射。
ブザー。
「くっそー、いくら何でもレイヴンならヒムカイ以外の奴には勝てると思ったのに……」
小松田がわざわざ管制を通して嘆く。レイヴンさえあれば誰でもワタル並の力を得られるわけではないと強調するかのようだ。
しかし、勝ち目があると見れば諦めず訪れるその根気。
「小松田さん、意外とタフですよね……」
「負けて誉められてもなんにも嬉しくねーよ!もう来ねえよ!」
「あ、はい、またいらしてください」
速力を充分に発揮して帰っていった。
家の玄関を開けると、まだ母親の出られない部屋の扉が目に入る。
父親も中で世話にかかりきりになっているのだろう。時期が来るまではこのままだと言われてある。
扉を見守りつつ、今は自分のことに集中するしかなかった。
今夜も鬼塚のログ一覧を開く。一年分遡り、相手の名前の欄にワタルの名を認めてその項目に指を向けた。
戦術を参考にする意味では古すぎるとは分かっていたが、そのログを開かずにいられない。
軌跡を辿り、風力や雲の分布を読み、その試合を思い浮かべる。
大きな綿雲の麓に潜む鬼塚。
ワタルは壁を意に介さず、雲ごと貫くダイブ。
雲から出てくるのは百も承知と鬼塚は跳ね上がって迎え撃つ。
二人の軌道が絡み合う。
降下したとき、ワタルに鬼塚の位置が把握できそうな状況ではなかった。
ワタル視点の映像を再生して精査、やはり雲を抜けるまで鬼塚の姿は全くない。
ずっと前のログまで全てワタルの勝利で終わっている。いくつか開いてみると、位置や天候に関わらずワタルは必ず鬼塚を認識していた。
毎週ワタルに相手をしてもらっているネオンにはよく分かっていた。ワタルはいつでも必ず相手より先に相手を見つける。
その秘密をもっと探りたい。
ワタルの試合のログが鬼塚のもの以外にもないか探すほうに切り替えたネオンは気付かなかった。
鬼塚が非公開としているログの数が十以上増えている。