Lv100第八十四話
「クルーラホーン -美波とワイン専門店のアンモナイト-」
登場古生物解説(別窓)
 二つの大きな水槽に挟まれて、私はその中に浮かぶたくさんの渦巻きのせいで本当に目を回しかけていた。
 指でつまむ程度のものからバレーボールほどもあるものまで。ゴーヤのようにごつごつとしたものから皿のように薄く滑らかなものまで。底でじっと動かないものからフリスビーのように宙を切るものまで。
 しかもそのどれにもイカかタコそっくりの顔や足が付いている。
 アンモナイトだ。
 アンモナイトに種類があること自体ついこの間知ったばかりなのに、それがこんなに。
「足元に世界地図のようなものがありますね」
 白髪頭のガイドさんが、朗々とした声で床を見るよう促す。
 確かに床には地図らしきものが描かれている。しかし円い水色の海の中には、大陸が一つしか描かれていない。
 それは北極近くから南極近くまで届く長さをして、東がえぐれた三日月型をしている……。

 二週間前の金曜。
「お買い上げありがとうございます、ごゆっくりお楽しみください」
「こちらこそ、どうも」
 私はデパートの中のワイン専門店で、店員さんが勧めてくれたとおりの赤ワインの瓶を受け取った。
 初心者の私に色々と教えてくれて本当に助かった。
 この季節、そろそろチョコレートのことでも気にするのが社会人女性のたしなみなのかもしれないが、今の私に必要なのはこのワインだ。
 アルミ缶を片付けるたびに気持ちが腐っていくような発泡酒や度数の高いチューハイではなく。
 私は下関からこの横浜に就職してきたのだ。
 下関にはいつでも海の気配があって、気持ちがふさぎ込むことなんてなかった。
 それが、横浜も海の街のはずなのに、地下鉄、地下道、パソコンの前、閉じたブラインド、狭い会議室。
 上司はいい人だが他に毎日話す相手がいないのでは、どうにも。
 壁の中で暮らしているといっても大げさではない。
 そこに穴を開けるのは酒くらいのもの……とはいえ、安酒に走るのはますますみじめだ。
 同じ酒を飲むにしても、せめて趣味として格好を付けよう。そう思ってデパートにやってきたのだ。
 気取ってもワインくらいしか思い付かなかったが、ワインなら穏便に付き合っていけそうだ。
 私は瓶の入った紙袋になんとなく愛おしさを覚えた。
 今日はこの一本があればそれでよかったが、今後もこの店とは付き合っていくかもしれない。
 そう思って店内を見渡すと、なんだか気になるスペースがあった。
 ワインの瓶を寝かせて並べる木の棚の間に、五十センチほど隙間がある。
 そこには水槽の載った小さな机があるが、壁にも何かプレートが貼り付けてあった。
 アンモナイト、と書いてある。
 ビルの壁は薄くピンクがかった石で出来ていて、ぼこぼことした不規則な模様の中に急に綺麗な渦巻きがあった。
 それが、アンモナイトの化石なのだという。
 二億年近く前のジュラ紀のものだと。
 ビルの壁が石でできているからって化石まで入っているとは思わなかった。
 まるで壁に開いた穴のように見えた。都会の壁に開いた穴だ。だって、ここだけ人間の世界と関係なさすぎて横浜じゃないみたいだから。
 鍵穴なのかもしれない。この瓶を差し込んだら開いたりして。さっき小さな紙コップで試飲しただけでもこんなメルヘンを思い付くくらいには酔うのか。
 くだらない安酒よりずっと良い酔いかただ。
 まさか関係ないわけじゃないだろうと思って水槽の中も覗いてみると、思ったとおりその中に飼われているのもアンモナイトだった。
 手の平にぴったり乗りそうな大きさの、綺麗なオレンジ色の殻。放射状にたくさんのうねが走っていて、さらにそのうねの上にも丸い突起がたくさん並んでいる。
 その下にはつるつるのイカの顔がくっついている。
 生きているときはこんな風なんだなあ、食用のもあるっていうけどワインには合うのかな。魚介類だから白のほうがいいのかな。
 そんなことを思って、割と無意識にスマホを取り出し、写真を撮った。
 そのシャッター音が店内に響いて、ちょっとだけ酔いが醒めて我に返った。
「あっ、すみません。写真撮っても大丈夫でしたか?」
 店員さんは柔らかく微笑んでいる。
「そこは大丈夫ですよ。SNSにも載せていただいて問題ありませんから」
 ああよかった、優しいな。
「アンモナイトお好きなんですか?」
「ああ、いえ。ちょっと面白いなと思って」
 その日はそのまま帰って、慣れないデパートに寄り道したせいでなんだか疲れたので早めに眠った。

 その翌日の晩、さっそく瓶を開けてつまみを並べ、せっかくなのでまた写真を撮ってから飲み始めて。
 いい気分で写真を見返していると、ちょっとおかしなことに気が付いた。
 壁の中のアンモナイトと生きているアンモナイトで、殻の形が全然違う。
 壁のほうは数式ででも表せそうな滑らかな螺旋を描いているのに、生きているほうはカボチャのようにごつごつしている。
 貝殻なのだから生きているか死んでいるかで形が変わるはずもない。ということは。
『アンモナイトって種類あるんだー』
 素直に思ったことを書き加えて写真をSNSに投稿した。
 アンモナイトはアンモナイトだ、としか思っていなかったのである。渦巻きであるということ以上に形に違いがあるとは思いもしなかった。
 店員さんにアンモナイトが好きなのか聞かれた。
 この都会で出会ったものの中では、良いと思っているほうだ。アルミ缶よりよっぽど。

 さらにその二日後、SNSからの通知が止まらなくなっていた。
 私の投稿をデパートの広報アカウントが引用した上、それがやたらと拡散されていたからだ。引用された私のほうまで高評価がものすごい数になっている。
『同じ種類を揃えられなくてすみません!石材に埋まったアンモナイトは種類が不明ということで、アクアリウム業者から勧められた種類をお見せしております』
 いやいや、全然謝ることではないのに。何気ない酔っ払いの投稿がデパート自体の手を煩わせてしまった。
 あの親切な店員さんが直接投稿しているような気がする。いや、それは願望で、そんな単純な組織になっているはずがないが。
 そのデパート広報の投稿への反応も「自分もアンモナイトに種類があるって初めて知った」がほとんどで、面白がるもの一色だった。
 しかも、驚かざるを得ない反応がひとつ。
『生体はドウビレイセラスで、石材のほうはイタリアのジュラ紀の地層から採掘されたものですね。当館でもジュラ紀のアンモナイトについて展示しています』
 横浜からそう遠くない、神奈川県内の博物館からの投稿だった。たったあれだけの投稿に博物館まで反応するなんて。
 アンモナイトの種類の名前も恐竜とかみたいに難しいんだな。
 いや、というか、こんないい加減に撮った写真だけでどこで採れた石か分かっちゃうんだ。すごいな。
 博物館の他の投稿を見てみると、生きているアンモナイトの写真もあった。デパートでさえ何気なく飾られるくらいだから、博物館にいても当然か。
 綺麗で、面白い形の生き物だな、と思う。
 アンモナイト、普通に好きかも。
 それからなんとなく公式サイトを見てアクセス方法のページに進み、通勤ルートの途中の駅で乗り換えるだけで行けると分かった。
 そこまでしてしまったものだから、完全にそのうち行くつもりになっていた。

 で、その次の次の土曜日。
 何も考えず博物館に来てみたら、とんでもない光景を目にすることになった。
 壁に開いた穴どころではない深淵だ。
 幅何メートルにもなる水槽が二つもあって、それぞれたくさんのアンモナイトを抱えている。
 両手で持ち上げるような大きさのものの殻に指先ほどの大きさのものが何匹か取り付いていたり、他ののんびりしたアンモナイトの裏から流線型をしたものが飛び出してきたりする。
 芯をくりぬいたリンゴを倒したみたいに真ん丸で横がくぼんでいるのや、羊の角みたいにくっきりした渦巻きの、表面の筋が細かいのやはっきりしたの。
 みんな巻いているのは同じなのに形のバリエーションがいくらでもあるし、色や模様はもう目がチカチカしてきそうなくらいだ。
 しかも当然、口の形が違うからそこから覗く顔もまた違う。
 広い展示室のもっと奥にも小さい水槽がたくさんあるし、テーブル型のケースには化石がずらりと並んでいる。
 デパートに二種類あるだけで感心していたところに、いきなり数え切れないほど。
 どちらかというと片方の水槽が賑やかで、もう片方は静かな感じがした。静かなほうは照明が真っ白で、少し冷たそうに見える。
 あんまりたくさんの種類を見ていると疲れる気がして、しばらく静かなほうを眺めた。
 そういえば海で貝殻を拾っていると名前なんか分からない色んな貝が次から次に見付かる。アンモナイトもそういうことなんだろう。
 ちょっと簡単に考えすぎていたのかもしれない。軽い気持ちで好きって思って良いものだったんだろうか。
 薄い円盤型の種類が、殻を斜めに倒してフリスビーのように素早く泳いでいる。
 細い縄を巻いたみたいに細かく波打った縁取りがしてあって、高級ビスケットのように見える。分かりやすい形のおかげで、ずらっと並んだ説明の中からもすぐに分かった。
 「アマルテウス」。なんだかすっきりした名前。
 ふと振り向くと、私の他にはガイドらしきかたが端のほうで簡単な演台のそばに立っているだけだった。
 白髪だけれど、背筋のぴしっとした男性だった。現役の学者さんなのかもしれない。ああいう立派な感じの人が長年かけて追うような奥の深い世界なんだろう。
 その人が演台を離れてこちらにやってきた。
「よければご説明しましょうか」
 見た感じの年齢から想像するよりずっとくっきりとしたよく通る声をしている。
「いいんですか?決まった時間とか」
「いやあ、ガイドトークの時間が待ちきれなくて早く来てしまって」
 ガイドさんは少し嬉しそうに微笑んで、二つの水槽の間に立った。
「足元に世界地図のようなものがありますね」
 そう言われて、足元に地図が描いてあることに初めて気付いた。しかし世界地図にしては陸地の形が変だ。三日月型の大陸がひとつあるだけだ。
「これは二億年近く前の世界地図です。大陸がひとつしかありませんね。全ての大陸が集まってひとつになったパンゲア大陸です。海のほうはパンサラッサ海といいます。それぞれ、全ての陸、全ての海、という意味です」
 パンゲアはうっすら聞き覚えがあるが海のほうは初耳だ。
「海にもちゃんと名前があったんですね」
「ええ。海のこともちゃんと調べないといけませんからね。この二つの水槽にも、大体この世界地図の頃のアンモナイトがいるんですよ。このフロアはアンモナイトの化石が大昔の海の形を反映していることを表しているんです」
 ガイドさんは地図に対して北西側にある水槽に近付いた。
「こちらの水槽には、パンゲア大陸に対して北側に生息していたアンモナイトがいます」
 そう言って右手を地図の北に向けた。
「反対の水槽にはパンゲアの東側の凹んだところにある、温かい海のアンモナイトがいます」
 ガイドさんは今度は三日月の欠けた部分をうろうろしている。
「この二つの地域のアンモナイトはパンゲアの分裂が進むことで交じり合うわけです。この東側の凹みの海をテチス海といいます」
 そして湾の奥やや北寄りの、クロワッサンでいったら裂けやすそうな位置を指差した。
「この辺りにユーラシアと北アメリカとアフリカになる陸塊が集まっています」
 どの部分が今の大陸でいったらどれなのかという境界線が引いてあった。
「ここが裂けて地中海とカリブ海になります。そういういところに次第に色々な系統のアンモナイトが広がっていって、地層ができた時代ごとにアンモナイトの種類が変わっていきます」
 地中海とカリブ海がくっついている?というより、
「アメリカとヨーロッパがくっついてたんですね」
「そうなんです。そのくらい大きな大陸移動があったのです」
 裂けるところの北、ヨーロッパのはずのあたりを見た。
 この前買ったワインの産地フランスと、壁のアンモナイトの産地イタリアもあるのだ。ブーツの形は見えないが……。
「あっ、そうだ。イタリアのアンモナイトもいるんですか?」
「イタリア?」
「デパートの石壁を見てアンモナイトに興味を持ったんです。イタリア産だということなので」
 私はスマホでワイン専門店の壁の写真をガイドさんに見せてみた。
「ははあ、なるほど。ネンブロ・ロザートですね」
「そういう名前のアンモナイトなんですか?」
「いえ、この石材の種類をネンブロ・ロザートとかアンモニティコ・ロッソというのです」
 石にまで種類と名前がある……。
 ガイドさんもイタリアらしき部分を見下ろした。
「テチス海の奥のほうの沿岸部ですね。ここでアンモナイトや貝の殻、珊瑚なんかの、生き物が作った石灰質が積もって、長い年月のうちに大理石になったわけですが」
「それで化石が入ってるんですね」
 するとガイドさんは南東の水槽の横に立った。
「イタリアはテチス海の奥のほうにありましたから、大理石に含まれるアンモナイトはこちら側のものに近いとは思うんですけれど、断面だけではこれ以上は……というところです」
「種類がたくさんあるからですか?」
「そのとおりです。断面だけが当てはまってもその他の形が全く違う種類がたくさんあります。それと、イタリア産のものはあまり出回っていなくてこの水槽にいないというのもありますね」
 デパートのほうでも種類が分からないと言っていた。
 水槽の中に、石壁の中のアンモナイトと同じくらいの大きさで、輪郭があまりでこぼこしていないものが見付かった。
 大体、あくまで大体、あんな感じだったのだろう。
 ガイドさんは半分振り返って三日月の大陸の北の端を指差した。
「後々日本になる土地もテチス海の端にありましたから、ほとんどはこの水槽にいるような種類がいたんですけれどね」
「日本にもアンモナイトがいたんですね」
「この地図の時代より後になるともっとたくさん見付かるようになりますね。まあでも」
 ガイドさんは大陸の北の海をゆっくり横切っていく。
「北の海にいたものの一部はこっちから回り込んで、日本に住みついていたようです」
 そして北の海の水槽の前に立ち、さっきのビスケットみたいなアンモナイトを指差した。
「このよく泳いでいるアマルテウスなんかが、日本の下関や富山から見付かっています」
 下関。
 故郷の名を聞いて、私はガイドさんの顔に真っ直ぐ振り向いた。ガイドさんは小首を傾げる。
「あの、私、下関出身で」
「おや、そうでしたか。下関市内にはジュラ紀のアンモナイトが発掘される地層があるんですよ。ご地元でご覧になったことは?」
「なくって」
 そのことになんとなく後ろめたい気持ちもあった。
「では、こちらの標本ケースを」
 ガイドさんと私はテーブル型のケースのひとつに取り付いた。
 中には水槽に全くひけを取らないほど色々な形の……、ただし、どれも黒や灰色や茶色やベージュの、アンモナイトの化石が並んでいた。
「このケースは日本のアンモナイトで、このあたりが下関のものです。あとは福井や富山、宮城など色々ですね」
「こんなに……」
 下関だけでもかなりの数と種類があった。つるりとしたもの、小さくてよく見ると縄を巻いたようなもの、筋が綺麗なもの。
 生まれ育った土地に隠れた秘密をこんなところで知ってしまった。
「ほとんどはあっちの水槽のものの仲間なんですよね?」
「そうです。主にヨーロッパ南部で見付かったものですね。つまり、さっきおっしゃっていたイタリアのアンモナイトも」
「下関に仲間が……」
「いたのかもしれません」
 下関から旅立った私は、北の海から旅立って下関にやってきたアマルテウスの逆だ。ここにある化石は、下関から旅立ってここにいるのだから、私と同じだ。
 もうアンモナイトは私にとって他人事ではなくなっていた。

 それから数日後。
 ビルや駅の壁も、地下道の床も、前のような閉ざされたものには見えなくなっていた。
 そのうちの一つに貝殻がたくさん埋まっているのが見えてしまったからだ。
 アンモナイトがあるとは限らないが、壁や床の石も地球のどこかで長年かけて作られて、横浜にやってきたのだ。
 それが分かってからは横浜の街が全然違って見えて、今度は軽い足取りでワインのお店に向かった。
 デパートの中には他の場所以上に石がよく使われているのが分かった。格調高く見えていたのは石のおかげだったのだ。
 お店ではずらりと並んだワインが出迎えてくれる。それに二匹のアンモナイトも。
 しかし、ちょっとだけアンモナイトの様子が変わっていた。
 水槽の棚が二段になっていて、壁のアンモナイトの前と水槽の横、それぞれに一本ずつワインが置いてあったのだ。
 「化石と同じイタリア北部産のおすすめ」、そして「この子と同じマダガスカル産のおすすめ」。
 イタリア産は分かるけどマダガスカル産ワインなんてあるのか。
 この前のフランス産といい、ワインとアンモナイトの産地が妙に重なっている。
「すみません」
 私は店員さんを呼びとめた。この前対応してくれた人だ。
「この二本と同じのをお願いします」
「二本ともですね。こちらはけっこう濃いですよ。試飲されますか?」
「お願いします」
 ワイン、アンモナイト、そして石で世界と繋がっていく。
 酒を格好付けて飲みたいと思って始めただけだが、意外と立派な趣味になりそうな気がする。
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