Lv100第八十二話
「ルンペルシュティルツヒェンとエコー -愛花とひまわりと昆虫館-」
登場古生物解説(別窓)
 とある昆虫館、バックヤードの一室。
 薄暗い中をなかば手探りで職員が動く。風が立たないようエアコンも扇風機も止められ、徐々に蒸し暑くなっていく。早くことが済まなければ、やり直せるのは何時間か後だ。
 職員の手の中で電子機器のモニターがオレンジに光る。無骨なデザインをした音声レコーダーだ。
 フェイクファーをかぶせられたマイク部分が、縦長の飼育ケースにそっと向けられる。中にはシダの葉が活けられているが、もちろんこれは録音の対象ではない。
 葉の上に一匹の昆虫が現れる。その姿はバッタによく似ている。緑の長い体、後ろを向いた細長い後肢。
 しかし、細長い触角を柔軟に振り回し、小さな複眼とともに薄暗がりの中を探っている。
 やがてそれが落ち着くと、虫は背中を覆う翅を震わせ始めた。
 チリリリリー、低く鋭い鳴き声が響く。
 それを正しく録音することができて、職員は、ふう、と息をついた。
 今年も白亜紀の鳴く虫ニッポノハグラの鳴き声を記録することができた。ローカルニュースやSNSでも、この地域の新たな風物詩として伝えられるだろう。

*****

 完全に木陰に覆われた森林公園の道を、それに合っていない陽気なファッションをした同級生、星井ひまわりがどんどん進んでいく。私はついていこうとして足がもつれかける。
 母がリュックの中にねじ込んだ水筒が重く、母がかぶせてきた帽子がわずらわしい。コミュニティバスを降りてすぐこんなひんやりとした森なのだったら必要なかったのではないか。
「星井さっ……、ひ、ひまわりちゃん」
 名字で呼びかけて、バスの中でそうしろとごねられたとおり、下の名前で呼び直した。
「ちょっと、はっ、早い」
「愛花ちゃんごめんね!でもほら、もうすぐだから」
 ひまわりが言うとおり、道の先に建物が見えてきた。目的の……あくまで主にひまわりの目的の、昆虫館である。
「これでゴキブリのことが分かるよっ!」
「あの、道であんまり、大声で」
「ママも喜ぶはず!」
 ひまわりは誤解を招きそうなことをわざわざ大きな声で叫ぶ。人気のないハイキングコースで助かった。
 別にひまわりの母がゴキブリについて知りたがっているわけではない。むしろゴキブリが家に出るたびにすごく怖がるのでなんとかしてあげたい、そしてゴキブリ対策を自由研究のテーマにしたいのだと、ひまわりは言っていた。
 だからその母と一緒に来るのは無理だったにしても、
「なんで私が……」
 今日何度目かの言葉が口をついて出た。
 するとひまわりが急に立ち止まってこちらを振り向いたので、私はつんのめって倒れそうになる。
「大丈夫だよ、動物園のライオンとか恐竜と一緒だよ。こっちに向かってきたりしないよ」
 無邪気にもそんなことを言って私を励まそうとする。私がゴキブリを怖がっていると思ったのだろう。
「そうじゃなくて」
 ひまわりは小首をかしげる。
「いつも一緒にいる、杉山さんとか、田口さんとか」
 ひまわりと同じように華やかな子らを誘えばよかったのではないか……と、名前を出しながら自分でも違和感を抱いた。
「だってあの子たち、こういうときつまんないから」
 あまりに率直な答え。
「あ、こういうときだけね。いつもは楽しいから」
 そう付け加え、人差し指を口の前に立てた。そしてまた歩き出す。
 正直に言ってしまえばそういうことなのだろう。クラスでも目立っている連中が昆虫館でゴキブリなど見たところで、ただ騒ぐだけで真面目な調べものにはなるまい。
 私自身はゴキブリをそんなに怖がってもいない。ただ悪そうな見た目の虫だと思っているだけだ。ひまわりが私を道連れにしたのは的確だったと言わざるを得ない。
 それにしても、今は間接的に私もひまわりの母のために動いているというわけだ。
 ひまわりは一見いつも好き勝手やっているかのように見えるが、その実、今回のように、二言目には「ママが」「ママに」「ママも」だ。
 母親のことばかり気にかけて自由研究のテーマまで母親のため、果てにはわざわざゴキブリを見に昆虫館まで来る。
 私のリュックに入れられた水筒の重みや、色々聞かれたあげく単に自由研究のためで交通費はコミュニティバスで往復百円、入館は市内の小学生なので無料ならと許された、私のままならなさと同じものを、ひまわりも抱えているかもしれない。
 母親のために我慢してゴキブリを見る羽目になっておろおろしているひまわり、というものが見られるかもしれない。私はそんな意地の悪い気持ちも持っていたのだった。

「こんにちは、いらっしゃい」
「ゴキブリが家に出ないようにする方法ってここで分かりますか!?」
 入館早々親切にも挨拶してくれた若い女性の職員さんに、ひまわりは臆面もなく大声でたずねた。一応大事に飼われているのだろうに、気を悪くしないだろうか。
 職員さんは一瞬視線を上に反らして、すぐに笑顔で答えた。
「そうですね、ここでゴキブリを詳しく見てみれば分かると思いますよ。簡単にご案内しましょうか」
「わあ、お願いします!」
 なんと、虫に敵対的な理由で来たのに分け隔てなく歓迎するではないか。
「ここには化石から生き返ったゴキブリの仲間もいるんですよ」
「ええっ、こんな身近なところに大昔の生き物が!」
 ひまわりは目を輝かせるが、
「でもゴキブリなんだけど……」
「確かゴキブリのほうが恐竜より古かったと思うよ」
「よくご存じですね」
 職員さんがひまわりの知識を誉める。
「ほら。だから恐竜よりすごいんだよ」
 そんなことですごさが決まるものだろうか。
「それでは、こちらに」
 職員さんはエントランスホールから見学順路へと歩き出した。
「ゴキブリとその祖先の歴史を知ればゴキブリが家に出てしまう理由もわかると思いますよ。長い歴史の中で出てきた種類と今の種類を比べて展示していますから」
 小さな展示室に入ったと思ったらすぐに隣の、ゴキブリ捕獲器のパッケージに似せた赤い屋根の飾りが付いた部屋へと進んだ。

 壁は腰くらいから上がガラス張りで、大きな飼育ケースが並んでいるのが見えた。飼育ケースより奥は作業スペースのようだった。
「恐竜より前にいたのは、ゴキブリそのものというよりゴキブリの祖先のちょっと違う虫だったんですよ」
 そう言って職員さんが見せてくれたケースの中にいる虫は、しかしほぼ大きめのゴキブリにしか見えず、身構えてしまう代物だった。
「これはアルキミラクリスといって、三億年くらい前のゴキブリの祖先です」
「ね、別に怖くないでしょ」
「こうやって見る分には……」
 ひまわりがさっきそう言い張っていたとおり、ガラスの向こうで丸太に止まってじっとしている虫を怖がる必要はないのだった。
 それに、色は落ち葉のような明るめの茶色だし、足もあまりとげとげしていない。ちょうど「悪そう」な部分がないことになる。
「この頃から今のゴキブリに近い格好をしていたんですよ」
「楕円形で平べったいですね!」
「でも何かこう……、羽が大きいような」
 大きな羽が背中から広がって、マントを背負ったような格好をしている。
「そうなんです。この頃は地面が湿っていて小さな虫には歩くのが大変だったらしくて、ゴキブリの祖先も木の間を飛んで移動していたみたいなんです」
「愛花ちゃん、すごくいいところに気付いたね」
 なんだかひまわりに協力したみたいになってしまった。
「今も熱帯の森には飛ぶのが上手い種類がいるんです。このポーセリンローチはすごくよく飛びますよ」
 紙飛行機みたいに言われてもな、と思って三億年前のやつの隣のケースを見てみれば、そっちの種類は薄いベージュ色をした水滴型の、小さな落ち葉のような虫だった。
「森にいるんですか?家の中じゃなくて?」
 ひまわりがたずねる。
「そうですね。元々ゴキブリも野生の昆虫でしたし、今もほとんどの種類のゴキブリは人間の建物には入らないで森の中で暮らしているんです」
 生き物は全て野生で生まれたのだから、よく考えたら当然のことだった。それなら今目の前にいる二種類とも別に問題になったりは……、
 いきなり両方とも一匹ずつ飛び立った。
「わっ」
 思わずのけぞってしまう私を見て、ひまわりがくすくすと笑った。しかし私をからかい続けることはせず、
「本当によく飛ぶんだ」
 ゴキブリとその祖先に落ち着いた目を向けていた。さっきからの余裕はただの軽口ではなかったのか。
「あっ、隠れてるのもいる」
 ひまわりが指差す先には、丸太に樹皮がゆるく縛り付けてあり、丸太との隙間にゴキブリの祖先が身を潜めていた。ひまわりは本当にちゃんと観察している。
「ほらこっちも」
 今の森のゴキブリのほうも素早く落ち葉の下や物陰に出入りしているようだった。
「平たくて出っ張りがない楕円形なので、昔から隙間に隠れるのは得意だったみたいなんです。家の中に出てくるゴキブリもそうですね」
 ひまわりは話を聞きながらもスマホで虫の写真を撮っている。スマホにゴキブリの写真が残ることもいとわず、着実に自由研究を進めている。私の意地悪は相手が気付かないうちにもう一蹴されてしまった。

 しばらく「平たくて出っ張りがない楕円形」の虫が隙間に挟まっているのが何種類か続き、ずっと物陰に隠れて暮らしていたんだなと納得しかけたところに全然違う虫が現れた。
 ほっそりしていて目が大きい、光沢のある深緑色の、固そうな虫だ。あまりコソコソ隠れず樹皮に止まっている。
「ゴキブリは終わりなんですか?」
 ひまわりが職員さんにたずねる。
「これもゴキブリの親戚なんです。ポノプテリクスっていって、体が甲虫……カブトムシやテントウムシみたいに固い種類です。カマキリの親戚でもあります」
「へえー。あれっ?」
 私もひまわりと同じことに気付いた。
「じゃあカマキリも」
「そうなんです。カマキリとゴキブリは近い仲間なんです」
 隣のケースには見慣れた黄緑のカマキリがいた。
「そういえば羽の感じが似てるけど……」
 そんなことが考えられるくらいには私もゴキブリを落ち着いて見てしまっていた。しかしカマキリはさっきまでのゴキブリらしい虫とは格好も暮らしかたも何もかも違いすぎる。
「カマキリが家に出てきたらただの迷子ですよね」
 ひまわりはカマキリに対してまでも可愛らしい言いかたをした。
「虫の形がその虫の暮らしと関係あることがよく分かる例ですね」
 さっきの「平たくて出っ張りがない楕円形」の話が説得力を増したことになる。
 カマキリのさらに隣には楕円形ではなく球形の虫……、ダンゴムシが、小さいゴキブリと一緒にいた。
「ダンゴムシも隙間に隠れるのは得意ですよね」
 私がそう言い終わらないうちに、そのダンゴムシは体を開き……、頭を起こして六本の足でサッと走り出した。
「えっ」
「実はこれも今のゴキブリなんです。ヒメマルゴキブリっていう、メスだけダンゴムシそっくりの種類です。丸くもなれますよ」
「えーっ、すごい!ゴキブリって色々なんですね!」
 横で見ていたひまわりは無邪気に感心しているが、ダンゴムシだと思ったものの殻からゴキブリの顔と足が出てくるのに直面した私は唖然としてしまっていた。ここに来てからちょっと変なことが起こりすぎているようだ。
「本当に色々なんですよ。シロアリもゴキブリに含まれるっていいますし」
 なんだかとんでもないことが聞こえた気がしたが今すぐには受け止められなかった。

 いかにもゴキブリらしいゴキブリが出てきて安心してしまうくらい、ものを見る基準がおかしくなってきた。
「恐竜時代の後半に、今のゴキブリと同じ仲間に含まれる本当のゴキブリが出てきました。これはペルルキペクタといって、白亜紀の中国で小さな恐竜や哺乳類から逃げ回っていた種類です」
「恐竜はゴキブリを食べてたんですか?」
「小さくて虫を食べる種類なら、そういうこともあったみたいです。ペルルキペクタの時代には虫を食べる動物の種類が増えたので、その前のゴキブリの祖先よりも隠れるのが得意になったとも言われています」
 樹皮や木の葉の下にしっかり隠れていたが、大きな羽が見えた。最初のほうにいたものの羽ほど大きくはないようだった。
 隣のケースにいた、どう見ても今の人間の家に出るゴキブリそのものも同じようにしっかり隠れていた。クロゴキブリという普通の名前が説明に書いてある。
 ここまで見てくれば私にも、ひまわりにももうとっくに分かっていた。
「大昔からゴキブリの隠れ家になる隙間が森の中にあって、それが家の中にもあるから家の中に出てくるっていうことなんですね!」
「お見事、そのとおりです!森の中だったら落ち葉の下や朽ち木の割れ目、家の中だったら片付けていない紙ごみや生ごみ、家の設備の隙間ですね」
 ひまわりは聞きながら勢いよくメモ帳に書きつけている。
「ゴキブリにとっては隙間の中が湿っているのも大事です。隠れているうちに体が乾いてきたらそこにはいられないですからね」
「じゃあ逆に湿っぽいところの隙間に気を付ければ」
「家の中からゴキブリが住みやすいところをなくせるっていうことになります」
 おおーっ、と、ひまわりが声を上げる。
 一応普通の知識のような気もするが、ここまで見てきたらかなり説得力を感じる。
 それにしても、隙間をなくせばいいんだと活き活きしているひまわりの家の中はいったいどうなっているのか、というより、ひまわりにとって活き活きとしていられる環境ってなんなんだろうか。

 ゴキブリが怖いのを我慢していたとまでは言わないが、慣れないものを見つめて気を張り、気付かないうちに疲れてしまっていた。
 ひまわりを置いていくようにゴキブリの部屋を出て、明るく綺麗なものに誘われるように重いガラス扉を開いた。
 その先は、花が咲き乱れ、たくさんのチョウが舞い飛ぶ温室だった。
 ハイビスカスやランタナといった低木の花に囲まれるようにして白い鉄製の優雅なベンチがある。ふらふらとそちらに近付いているうちに背後にひまわりの気配がした。
 私はベンチに身を預けたが、ひまわりは座らずに辺りを見回していた。
「宿題できそう?」
 聞くまでもないと思ったのだが、
「んー、うーん……。もうちょっと考える」
 なぜか今一つしっくりきていない様子なのだった。
 そして今度はひまわりが、空けておいたベンチの片側に触れずどこかへ歩き出していく。
「あ、あれ」
 先に置いていったのは私のほうだしひまわり相手に寂しくもならないが、ひまわりのマイペースぶりを見誤っていたかもしれない。
 まだ追いかける気力は出ないので、私は私でベンチの上や周りを飛ぶチョウでも眺めていることにした。
 白地に黒い網目の大きなチョウが、ゆっくりと頭上を通り過ぎていく。濃い茶色に薄い青緑の模様が入ったチョコミント風のチョウが花から花へ渡る。羽の先だけが鮮やかなオレンジ色であとは真っ白のチョウが素早く駆けていく。
 まだまだ見分けられないほどのチョウが現れる。
 そんな中に、おかしなものが混じった。
 羽のまだらが透明で、胴体がどっしりと太い。飛びかたも少しばたばたして、明らかにチョウではない。
 まさか最初に見た大きな羽のゴキブリの祖先ではないだろうが、また何かおかしな虫がこの温室にもいるのか。
「愛花ちゃーん、セミがいるーっ」
 ちょうどひまわりが大声で呼んできた。
 立ち上がってそちらに向かいながら妙なことに気付いた。さっき通り過ぎた虫がセミだとしても、今セミの鳴き声は温室の中ではなく外からしか聞こえてこない。それに、外にいくらでもいるセミを、わざわざ温室の中に南国の綺麗なチョウとともに放ったりするだろうか。
 ひまわりはイチョウの苗木らしき鉢植えの木の横から呼んでいた。
 しかし私がそこに着く頃には、ひまわりはすでにそこを通りすがった職員さんに声をかけているところだった。
 入館したときもそうだったが、異様に素早いし、人にものを聞くのに躊躇がない。それに、ゴキブリについて知るという用が済んだのにもかかわらずあの行動力。
 そうか、あれが好奇心を発揮している人間の姿か。
 ひまわりが連れてきた職員さんは父親より年上の男性だったので、少し緊張させられたが、職員さんは穏やかな口調で話し始めた。
「ここにいるのはね、セミの大昔の鳴かない親戚なんだよ」
 そう言うとおり、イチョウの鉢植えはたくさんあってセミのような虫もたくさん止まっていたが、鳴き声は全然聞こえなかった。
「セミの幼虫が土の中で育つことは知ってるかな」
「はい!何年もかかって地面の上に出てくるって」
「そうだね。その間セミの幼虫がどうやって暮らしているのか、おじさん達にも分からないことがたくさんあるんだよ」
 依然として穏やかに語るその言葉に、私は思わず温室の外、セミの鳴き声が聞こえるほうを振り返った。
 さっきの女の職員さんはゴキブリのことならなんでも知っているように見えたのに。セミは街中にも公園にもあんなにたくさん鳴いているのに。
 そのセミが何年も何をしているのか、ベテランらしき職員さんにさえ分からない?
「えーっ、そうなんですか!」
 ひまわりは声に出して驚いてみせる。私はそんなに簡単な言葉で表すことができない。
「それで少しでもセミのことが分かるように、最初から地面の上で育つセミの親戚を飼っているんだよ」
 職員さんはイチョウの苗木に止まっている虫を指差した。
「この大きいのがダオフゴウコッススで、」
 さっき飛んでいた種類と同じ、暗く鮮やかな赤の羽に透明のまだらがある種類だ。羽が大きく、毛が生えていて、ガのようにも見える。
「この葉っぱの上にいる小さいのがシナポコッススだよ」
 こっちはセミと比べるとだいぶ小さい。羽の模様はもっと簡単で、ただ羽に深緑の縁取りがあるだけだった。
 ゴキブリの祖先や親戚もそうだったが、まるで呪文みたいな名前は聞いただけでは覚えられない。ひまわりもメモを取っている。
 しかし、大昔のそんな虫よりその辺のセミのほうが不可解だというのか。
「壁に化石の写真がかかってるでしょう」
 職員さんがまた指差すほうを見ると、額縁に収められた写真の中で、薄いベージュ色をした石の板にセミの羽の形がくっきりと浮き出ていた。
「あれは鳥取で見付かったアブラゼミの祖先の化石なんだよ。研究が進めばああいう今のセミにもっと近いものを飼って、セミがどんな風にして鳴くようになったか調べられるんだ」
 私達は夏が来るたびに、飼えもしない虫のどうやって始まったかも分からない鳴き声に取り囲まれているのだ。片付ければ出て来なくなる単純なゴキブリよりよっぽど深い闇に包まれた虫ではないか。
 ひまわりは目を輝かせて職員さんの話を聞き続けていた。

 セミのことが頭から離れないまま温室の順路を通り抜けるうちに、階段を上り、温室の中の高台から建物の二階に抜けた。
 ほんのり薄暗い部屋の中に、低く鋭い、チリリリーという鳴き声が響いていた。
 セミではなくコオロギかなにかだ。少しほっとする自分がいた。
「あっ、キリギリスのコーナーかな」
 ひまわりが先に説明を読んで言った。名前を聞いたことはあってもツルやウミガメと同じ「お話の中の存在」という感じがした。
 並んだガラスの上には「キリギリス」「クツワムシ」「ハタケノウマオイ」というような今の虫らしい名前に続いて、また大昔の虫らしき名前……、「ピクノフレビア」と「ニッポノハグラ」があった。
 しかし今のものも大昔のものも並んで飼えていることが、私をまた安心させた。どうやら素直な連中らしい。
「鳴いてるの、あっちだね」
 そう、鳴き声は大昔の虫のほうから聞こえる。
 ピクノフレビアとニッポノハグラの両方ともよく似た声で鳴いていた。
 そしてどちらもバッタによく似た、少し背が高い感じの黄緑色の虫だった。ピクノフレビアのほうが大きい。一匹ずつ前のめりの姿勢になって、羽を震わせるたびに鳴き声がする。
「こうやって鳴くんだね」
「うん」
 どこがどうなって鳴き声が出るのか見て分かる。これは、楽しいと言ってよかった。
 ひまわりと肩を並べて覗き込み、鳴き声に聞き入りながら見つめても、おかしな感じがしなかった。

 昆虫館の外に出ると、太陽はすでに木々の向こうに隠れようとしていた。
 セミはいっこうに鳴き止む気配がない。歴史も育ちかたも謎に包まれた虫達……。
 ひまわりは少し上の空になってセミの鳴き声に耳を傾けていた、かと思ったら急にその場にしゃがみ込んだ。
 セミの幼虫が土の道を横切ろうとしていたのだった。
 そういえば私はセミの羽化を見たことがない。見れば少しはセミのことが分かるだろうか。
 しかしここで最後まで見届けることはできない。私達はのこのこと歩くセミの幼虫を踏み潰さないように気を付けて離れた。
 セミに混じって、コオロギが鳴いているのが聞こえた。いや、もしかしたらキリギリスの仲間かもしれない。
「自由研究、セミとか鳴く虫のことにしよっかな」
 ひまわりが言い出す。
「あれ、その、ゴキブリは?」
「うーん、ゴキブリのことはママにどうやったら出なくなるか教えてあげれば充分かなって。それより鳴く虫のほうがまとめたら面白そうだったから」
 最初から、ひまわりは母親にもテーマにも縛られていなかったのだ。それにあの躊躇のなさ、身軽さ……。
 ひまわりは、自分がいいと思った物事に忠実なだけなのだ。母親のことを気軽に話題に出すのも単にそういうことなのだろう。
 セミのことは訳が分からなくなってしまったが、ゴキブリとキリギリスとひまわりのことは分かったような気になれた。

 三日後。
 私は机に向かったまま、昆虫館で見たことをどう自由研究にまとめたものか未だに迷っていた。
 ひまわりみたいに素直に展示に感心していればすらすら書けたのだろうか。私は連れて行かれただけだから混乱してばかりだった。
 セミの羽化でも見るか、しかしひまわりもセミのことをやると言っていたからかぶるかもな……などと考えていたところに、そのひまわりからスマホにメッセージが届いた。
 なにかカブトムシのような、しかしもっと真っ黒で横幅があり、どっしりとした虫の写真。続けて、「動物園行ってきた!」との文。
 動物園に行ってきてなぜ強そうな虫なのか。
 首をかしげるキャラクターの画像を送った直後に、「昔日本にいたゾウのうんちを食べてた虫なんだって」と説明が届いた。
 ああ、また昔の虫か。しかもひまわりの奴、私を完全に虫仲間と見なしている。何がゾウのうんちだ。
 しかし、その簡単な説明がゆっくりと静かに私を驚かせた。いきなり実物を直接見せられるよりかえって私にはよかったのかもしれない。
 つまり、大昔は日本にもゾウがいて、そのゾウと関わり合って暮らす生き物もいたのだ。
 なんとなく、今と昔の日本列島の形の違いということが連想される。どこで聞いた話だったか。
 知りたいことを知る。そういう自由から、ひまわりの真似をしてみようか。
 「詳しく」と言っているキャラクターの画像を、ひまわりに送ってみた。
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