三月初めの朝。中学校の体育館ではどの運動部の朝練も行われておらず、空気は冷えて止まっている。
その寒さがかえって都合がいい。何機ものペーパーグライダーの性能が正確に比べられる。
私はステージの上で、三脚の上にレールを備えたカタパルトを操作している。ステージの下では、科学部の同じ班である私の相棒、歩羽(ふう)が、飛距離を測定するために待ち構えている。
ケント紙を切り抜いて貼り合わせたペーパーグライダーが、カタパルトのレールの上で真っ白に光って見える。
細長い胴体の前方に小さな三角の翼、中程に大きな三角の翼を持っている。
私はレールが水平であることを慎重に確かめ、レールの後端にあるスイッチを押した。
モーターが回転し始め、センサーとプログラムにより制御される。
機体はゴムローラーに押し出され、決まった速度で飛び出す。
それは安定を保ったまま、体育館の空中を滑っていく。
発進した高さの倍を越える距離を進んで、木の床に止まった。この機体が五回たて続けに出した成績である。
「あーっ、こりゃ完全に結論出ちゃったなあ」
「そうだね。シャロヴィプテリクスが明らかに性能が高い」
歩羽がスマホにまとめた計測結果を見ながら答え、機体の鼻先をつまんで拾い上げた。
シャロヴィプテリクス。それはこの機体の元になった、太古の奇妙な爬虫類の名である。
二億年以上前のキルギスの森に生息。細長い体を持ち、おかしなことに前脚ではなく後ろ脚が翼となっている。
大股開きになって長い後ろ脚と体の間の膜を広げ、短い前脚と首の間の膜で体を安定させ、木の上から滑空する……と言われているのだが。
「天才の私が作った飛行機だから正しいとは思うんだけどなあ、飛んでる動画がないやつがよく飛ぶとなんだかなあ」
私のそんな言葉に歩羽も黙ってうなずきながら、ステージの下からそっと機体を渡してくる。歩羽は私の工作や発明の手腕を認めてくれるのだ。
いろはの技術なら滑空する動物の性能を再現できるはずだと、歩羽は言ってくれた。
しかしシャロヴィプテリクスが飛んでいる動画がいくら検索しても出て来ないのを確かめたのも歩羽である。
私は手に持ったシャロヴィプテリクス型の機体と、段ボールのキャリーケースに収まった他の機体を交互に見つめた。
他の機体ももちろん、各々別の太古の滑空動物をかたどっている。イカロサウルス、ウェイゲルティサウルス、メキストトラケロス、シャンロン、ヴォラティコテリウム。小さいものは十センチ程度、大きいものは六十センチほど。
シャロヴィプテリクス以外はせいぜい発進した高さと同じくらいの距離しか飛ばなかった。しつこいくらい調整を重ねてもである。
これらの動物に関する正確な資料を探し出したのもやはり歩羽だった。ヴォラティコテリウムはモモンガに似た哺乳類で、他は全て脇腹に生えた魚の鰭のような翼を前脚で広げて飛ぶ爬虫類だ。
化石から生き物を蘇らせるのももはや当たり前な中、いくつかはすでに飼われているし滑空する動画も普通に見られる。
しかしシャロヴィプテリクスだけは、広く飼われているにもかかわらず滑空する動画が見当たらないのだった。
翼の形も洗練されているし、安定のための小さな翼もあって飛ばしやすい。よく飛ぶのは順当にも見えるが……。
「なんで本物が飛んでるところが見れないんだろう……こいつはミステリーだぜ」
調べる間にも何度もそう言っていたが、こうなるとますます気になってくる。
機体から歩羽へと視線を移す。歩羽なら察しがついているかもしれない……事実、そんな顔をして巻き尺など片付け終わり、スマホを操作しているが。
歩羽はステージに上がって巻き尺を置き、今度はスマホをこちらに手渡してきた。
見ればなんと、最寄りの動物園の飼育動物一覧にシャロヴィプテリクスの名が挙がっているではないか。
「T市動植物園の、むささび館……。えっ、滑空する動物専門の施設なんてあったのか」
イカロサウルスやウェイゲルティサウルス、他にも何種もの滑空動物が飼われているのだという。
「実はこの施設ありきの計画だった。ここに行けば多分答え合わせができるから」
「なんだよー、歩羽もひとが悪いな。でも、ちょうどいい。さすが歩羽」
この用意周到さのおかげで、私はいつもどんどん手を動かすことができる。
それに、今日は午後の授業も短い。
「さっそく放課後行くぞ!」
私がそう言い放つと歩羽は目を丸くしたが、すぐに頷いた。
三時半頃。T市動植物園には中学の最寄り駅からたった数駅で着いた。
トラにもキリンにもかまわず、真っ直ぐむささび館へと進んでいく。
園路の坂は木々に囲まれている。まだ葉が生えないものも多く淋しい風景に見えるが、落ち葉を踏む音は軽やかだ。
木の葉とは違って、次の計画はすでに私の脳裏に芽生えていた。歩羽が相手ならそれを臆面もなく口に出せる。
「飼うことはできるわけだよな、シャロヴィプテリクスを」
「そうだね」
「一般向けにも売られてる」
「そう」
調べているうちに、ペット向けに売られているのが目に入っていたのだ。
「つまり、普通に飼えるのに、誰も飛ぶところを見たことがないわけだ」
そこまで言ったところで歩羽が横から私の顔を覗き込んできた。
「いろは。生き物を飼うのは」
「ああ分かってる分かってる。今回はダンゴムシとかカマキリとはわけが違う」
歩羽には私の考えがお見通しというわけだ。
今までの科学部の活動でも、私の生み出した実験装置によって身近な生き物の能力をいくつか目の当たりにしてきた。
手早く自在に組み替えられるダンゴムシ専用迷路、光の明るさとカマキリの目の黒さを同時に測定するシステム、等々。
「ただ、シャロヴィプテリクスが飛ぶところを見れない理由によっては、と思ってさ」
「そう。よほど飼うこと自体が簡単だったら」
簡単だったら、シャロヴィプテリクスが飛べるように設計した飼育小屋でも作ってみせる。
そうすれば、シャロヴィプテリクスが立派に宙を駆ける姿を私の力で目にすることができる。もしかしたら世界初の快挙になるかもしれない……。
そのためにも、ひとまずプロの仕事を見ておかねば。私は上り坂に負けず足取りを早めた。
園の奥に進むにつれて、木々がますます増え、道の両脇に迫ってきた。すっかりハイキングさながらである。
そのうち、一本の木の幹に、巣箱がかかっているのが見える。
「あれは……やっぱりムササビの巣箱か」
まさに園内外の森にムササビが生息しているからこそ、むささび館と銘打って滑空動物を集めた施設が作られたのだ。
「巣箱の後ろ、ケーブルが出てる」
歩羽が指差すとおり巣箱のある木からケーブルが伸びている。それはいくつかの木を伝って、二階建ての小さな建物へと続いていた。
その建物がむささび館だったのだ。まさに、ムササビの暮らす森の中にある……。
当たり前のようだが、そのひっそりとした佇まいを見てやっと気付いた。滑空動物とは、つまり森の木々の間にある空間で暮らす動物なのだ。
「シャロヴィプテリクスも木の間で滑空してたんだよな」
「そうだね。他の滑空動物も、それぞれの時代と地域の植物の間で」
「そうか、植物も移り変わってたんだ」
降下する高さの倍の距離を飛べるシャロヴィプテリクスは、どんな植物の間を飛び回っていたんだろうか。この森よりもっとまばらな木々の間で暮らせたのかもしれない。
まずは生きている実物が今どう暮らしているか見てみよう。私達は薄暗い館内へ足を踏み入れた。
中で待ち受けていたのはなんと、外の森とそう変わらない光景だった。
木の幹が描かれた垂れ幕や木の葉の描き割りや造花で、コンクリートの内装が覆い隠されている。飼育動物のいる空間はそれらの間にあるガラスの向こうだ。最初の飼育スペースにはやはりムササビがいるようだ。
「すごいなあ。でも……」
「これは見せかたの問題で、飼いかたの工夫じゃない」
「そう、そうだな。中を見ないと」
とはいっても、ガラスの向こうもこちら側や館外とよく似て見えた。樹皮が付いたままの丸太が数本、高々と立ち並び、枝のような木材が付け足されている。
中の高い天井を見上げようとしてみれば、巣箱まで外と同じものが丸太にかかっていた。
「ムササビは外と同じが一番なのかな、当たり前だけど」
「ここでムササビが飛べるのかは分からないね」
歩羽は堅実にも周りの解説のボードを読んでいたようだ。
「他の滑空動物はどうなんだろうな」
「あっちの部屋に行けばいいみたい。他の部屋は日本の動物とムササビに近い動物だって」
まるで林の中のように見える館内だが、実は中央の部屋から三つの部屋に通じているだけの簡単な造りだったのだ。
対になって並んだ木の幹……のような垂れ幕の間を通ると、描き割や造花の雰囲気が一変した。
「ああ、さっき言ってたとおりだ。外と全然違う植物の形だ」
「シダみたいなのが多いね」
この部屋では、造花の形や垂れ幕の模様は日本の山林ではなく太古のジャングルを思わせる。
最初のスペースには白黒の鳥が木の枝に止まっていた。やけに長い尾を下に垂らしている……と思ったら、羽繕いのため首を曲げた拍子に、翼に爪があるのが見えた。
「これがアンキオルニスか」
鳥そのものではなく鳥に近い恐竜、だから羽ばたかず滑空しかできない。
ペーパーグライダーの飛距離ではシャロヴィプテリクスに遠く及ばなかったが、こうして生きて動いているところは鳥そのものにしか見えず、飛ぶのがあまりうまくないとは信じられない。
隣のスペースにいるのは小さな哺乳類のヴォラティコテリウム、巣箱からなにか小さい割に肉食じみた顔を覗かせている。
当たり前のようだが、本物はしっかりと毛におおわれてもふもふとしている。
「本物が飛ぶときは毛の影響もあるんだろうな」
「フクロウの羽みたいに空気の流れを変えるかも」
ペーパーグライダーによる比較はあくまで概略。分かってはいたのだが、生きて動いている本物からはペーパーグライダーとは全く違うものが感じられる。より正確を期すために作り直すとしても、もふもふの毛におおわれたペーパーグライダーを飛ばすのは至難の業ではないだろうか。
カメレオンに似た顔付き、イグアナに似た体のウェイゲルティサウルスは、脇腹の羽を畳んで高い枝の上に横たわっている。五十センチはあるだろうか、ペーパーグライダーとしてはやけに大きくて扱いづらかったが、生きている実物は堂々としている。
黒く大きな目がこちらを……、いや、私を意図して見つめているのではないのだろうが、とにかくガラスの外をじっと見下ろしている。
形だけ真似た工作物になくて、生きている本物にはあるもの。それに今、触れてしまったような……、
しかし、あれはしばらく動かないだろう。そう思って視線を反らすと、向こうのガラス面の前で歩羽が手招きしていた。
「シャロヴィプテリクスか」
私はすぐにそちらに向かうが、歩羽はうなずきながらも神妙な顔をしている。
歩羽の調査が難航しているときの顔だった。
早足でそちらに向かってみれば、確かにシャロヴィプテリクスの解説板がガラス面の横に据え付けられ、飼育スペースがそこにあった。
ヴォラティコテリウムやウェイゲルティサウルスと同じく、大きな部屋……が、金網で仕切られている。というより金網のケージが置かれていて、シャロヴィプテリクスのスペースは全体の四分の一もない。
さらに、ケージの内側にはシダが植えられ、杉や常緑樹の枝が生けられ、まるで小さな密林のようになってシャロヴィプテリクスの姿を隠している。
飛び回る生き物の籠というより、ひっそりとした隠れ家の造りだった。
「どこに……、あ」
先に見ていた歩羽より早く、太い枝の上のそれに気付いた。
一見、樹皮の出っ張りと、突き出た一対の枝のように見える。しかしそれは、トカゲとカエルとバッタを合わせたような小動物だ。
少し長い首、それよりずっと長い尾を枝に沿わせ、コンパクトな胴体を伏せている。
畳んだ後ろ脚が、折れた枝に見せかけられている。腿と脛をぴったり合わせて、間の膜が隠れている。前脚は胴体の下に引き縮められてよく見えない。
一瞬、憐れみが胸をよぎった。自由に飛び回れない狭いケージの中で身を縮めて過ごしているかに見えたからだ。
しかし、鱗と同じ灰色をした虹彩の中心の真っ黒い瞳と視線が合い、それは吹き飛ばされた。細い菱形の頭をわずかに浮かせ、つややかな丸い目を小刻みに動かし、周囲をくまなく見張っている。
何かあればこのシャロヴィプテリクスはすぐに動き出すだろう。しかし今は動かなくてよいということだ。
ウェイゲルティサウルスの目に感じたのと同じ何か。
「飛ばなくていいようにしてあるんだ」
「飛べないように、じゃあなく」
「こうすることが必要……?だとしたら、それはなんで……」
自分で飼って飛ぶところを見るという発想が、じりじりと後退していくのを感じた。今やそれはあまりに雑な方法に思われた。他の滑空動物の飼育スペースと比べれば分かることだ。
どうやらシャロヴィプテリクスを飛ばすのはそう簡単ではないようだ。元々疑問に思ったとおり、それがなぜなのかを知ることが大事だ。
ケージの外、イカロサウルスの飼育スペースに目線を上げた。そちらにはとてもイカロサウルスが飛ぶのを妨げるほどの枝葉は詰め込まれていないのだった。
他のケージと同じようにいくつかの大きな枝が立ててある。その切り落とされた先端に、脇腹に畳んだ羽がある以外は普通のトカゲのような姿のイカロサウルスが止まっている……。
急に、それが飛び出してきた。
そしてすぐにシャロヴィプテリクスのケージの上に降り立ち、カシャンと小さな音を立てた。
シャロヴィプテリクスはそれに驚いたのか元いた場所から姿を消し、もうどこにいるか分からなかった。多分下に落ちたのだろう。
「今のイカロサウルス、羽は開いてなかったよな」
「短い距離だったからかな」
飛べるからといって短い距離を飛び降りるだけなら羽を開くことさえしない、ということは。
「何か、分かってきた気が……」
そのとき、静かだった展示室内に他の足音が響いた。
「あらっ、こんにちは」
明るい茶色の作業服と黒い長靴を着た女性。飼育員さんである。平日の夕方近くという時間に客がいてむこうも驚いたようだ。
ふたりで考えを進めていたところに水を差されたような気分も多少覚えつつ、私と歩羽は飼育員さんに会釈を返した。
しかし、飼育員さんが続けてかけてくれた言葉はまさに渡りに舟だった。
「この後すぐウェイゲルティサウルスが飛び降りてくると思いますよ」
私達は顔を見合わせ、早足でウェイゲルティサウルスのスペースの前に出た。
先程の飼育員さんは業務用のドアを開けてバックヤードに入っていった。
しばらくすると、飼育スペースの壁のドアが開いて腕が出てきた。手には餌のコオロギが載った皿がある。
どういうことか気付いて私は視線を上のウェイゲルティサウルスに向け、歩羽はコンパクトデジカメを構えつつ一歩下がった。
皿がガラス面のそばの台に置かれドアが閉じると、ウェイゲルティサウルスは身をそちらに向けて乗り出した。 首を下に伸ばし、頭を左右にカクカクと振る。左右の目で餌を交互に見て、餌との距離を測っているに違いない。
そうか、これが生きている本物にあるものだ。
ウェイゲルティサウルスは飛び出すと同時に羽を開いた。
よく見えないがそれを前脚で支えているはずだ。
斜め四十五度の非効率な、堂々とした滑空。
ふわりと餌台の端に降り立った。
そしてすぐに皿に向かって駆け出し、コオロギを次々とくわえ取り始めた。全体を撮り終えた歩羽がすぐに私の隣に戻ってきた。
「自分で判断して、目的がある移動をしたな」
「え?うん」
「ウェイゲルティサウルスにとっては四十五度で飛べれば充分なんだ。シャロヴィプテリクスと比べて飛べる距離が短くても、それは問題じゃない。今の滑空動物も大体そんな性能で充分暮らしてる」
「うん」
ここの中と外にいるムササビも。
「多分、性能の違いは暮らしの違いを反映してるだけなんじゃないか。シャロヴィプテリクスが飛ばないようにしてあるのも、その暮らしの中で何かの条件が……」
「あの」
急に、先の飼育員さんに背後から声をかけられた。
「あっ、えと、はい」
「すみません。シャロヴィプテリクスに興味があるみたいだったので」
「ああ、そうなんです。その、滑空する動物のことを調べてまして」
私がたどたどしく話している間に、歩羽は鞄の中からなにやら取り出していた。
平型の書類ケースにシャロヴィプテリクスのペーパーグライダーが納められている。飼育員さんと話せたら見せようと用意していたに違いない。
「科学部の活動でこういうものを作って飛ぶ能力を検証していたんです」
そして機体を取り出して私に手渡す。ここで飛ばせ、ということか。
「あの」
「危なくなければ大丈夫です。お願いします」
飼育員さんも期待の目を向けていた。
ここには電動カタパルトはないが、調整のときは手で投げていたのだからその感覚はある。私は深呼吸をした。
胴体の前後軸に沿って、少しだけ力を込めて、空中に突き出す。
機体は素直に空中を滑り、さらに床の間際で床と翼の間の空気の働きによりさらに距離を伸ばす。
飼育員さんは、わあ、と嘆息を上げ、短く力を込めて拍手をしてくれた。今のささやかなフライトに対して意外なほど感心してくれたようだった。
「すごいです、本当に飛んだらこんな感じなんですね!」
やはり飼育員さんでもシャロヴィプテリクスが飛ぶところを見たことはないようだった。
そして、飼育員さんは私が拾い上げた機体をまじまじと見つめた。
飼育員さんが顔を上げると、何か嬉しいような悲しいような曖昧な顔をしていた。
「見に来てくれたのに申し訳ないです。本物のシャロヴィプテリクスが飛ぶところを見せられなくて」
「いえ、その、何か理由があるんですよね」
「インターネットでもシャロヴィプテリクスが飛ぶところが見られなかったので、見られない理由が知りたいんです」
歩羽が、慣れない人と話すのが苦手な私に代わって説明してくれた。
「そうですね、デリケートだからというか……、その飛行機が分かりやすいんですけど、」
飼育員さんはペーパーグライダーの前方にある小さな安定翼を指差した。本物では前脚に当たる。
「どうやって飛ぶかは想像が付くんですけど、この前脚でどうやって着地するかは分からないですよね」
「あっ」
ペーパーグライダーは丈夫な胴体で床に着けばそれでいいが、生身の動物はそうはいかない。
他の滑空動物なら、体を起こしてしっかりした前脚で木の幹や枝を受け止めれば安全に着地できる。しかしシャロヴィプテリクスの安定翼にしかならない短い前脚ではどうだろうか。
「顎を打ちそうですね」
「広いところで飛び跳ねて怪我したっていう事例が多くって」
「つまり、その……、スペースを大きくすると、逆にいけないんですね……?」
飛ぶところが見られない理由の核心に近付き、自分で飼うという発想にとどめが刺されつつあるのを感じた。
「ケージを小さくするというより、ケージの中を入り組んだ造りにしておく感じですね」
まさに今シャロヴィプテリクスがいるケージの中は入り組んだ藪と化している。
「今のところ、シャロヴィプテリクスが飛ぶ気にならないようにしておくのが長生きさせる定石になってるんです」
さっき歩羽に釘を刺されたとおりだ。本職の動物園でも皆苦戦しているのに、私の好奇心に付き合わせて成果も得られず寿命も縮め、などということを起こす気はもはやない。
飼育員さんに聞かれないようにそっと息をついた。
「ありがとうございます、色々教えてくださって」
「あっ、でもですね」
飼育員さんは急に声に力を込めた。
「いきなり飛び跳ねないようには気を付けながらですね、シャロヴィプテリクスを飼ってる動物園や研究機関で少しずつ飛ぶところが見られるように研究を進めているんです」
「そうだったんですね!」
飼育員さんの目が輝いている。
さっきペーパーグライダーの飛ぶ姿に喜んでくれたのも、本当はシャロヴィプテリクスが飛ぶところが見たいからだったのかもしれない。
「例えば植物の間を離して、あっ」
そこで頭上からチャイムが鳴り始めた。
せっかく飼育員さんがまだ色々教えてくれそうなのに、閉園までもう三十分しかないことを知らせてきていた。
「すみません。お引き止めしてしまって」
「いえいえいえ、こちらこそ、えっと、貴重なお話本当にありがとうございます。自分でもシャロヴィプテリクスの研究について調べてみます」
そこで歩羽が横から紙を差し出した。
「お邪魔でなければこちらをどうぞ。ペーパーグライダーの型紙です」
なんと、そんなものまで手渡すことになるかもしれないと思って用意していたのか。
「わあ、いいんですか?ありがとうございます!」
飼育員さんは喜んで受け取ってくれた。その型紙には私達のサイトとSNSアカウントが書き添えてあった。本当に歩羽は用意周到だ。
「また来てくださいね」
「そのときは、またよろしくお願いします。」
西日の差す山道を、歩羽と一緒に下っていった。
結局、歩羽の見立てどおり完璧に答え合わせができてしまったのだった。しかも、私が実地での学習を望むということまで分かっていたに違いない。
あえて天才を自称し続けなければ隣にいられない気がするくらい、歩羽は本物である。
と、その歩羽の姿が隣から消えた。
振り返ってみれば、道脇のやや低い木の枝を引っ張って見上げている。
「動物園まで来て植物かあ?」
「動植物園だから植物も展示のはず」
あっさりとそう答える。
それもまあそうかもしれないと、駆け寄って見てみた。木の枝からは小さな竹とんぼのようなものがいくつかぶら下がっている。
「これは……」
「カエデの種。羽で風に乗って広がる」
なるほど、これも空を飛ぶ生き物か。
歩羽が枝を揺らすと、カエデの種は一つひとつ分離して宙に舞った。勢いよく回転しながらゆっくりと落ちてくる。
着地したそれは竹とんぼの片側の羽だけになっているようだった。二つに分離して飛んだのだ。
「飛ぶ生き物というより、ものを作って飛ばす生き物か……、ペーパーグライダーと同じだな」
先程はムササビの足場にしか見えて見えていなかった木々が、ウェイゲルティサウルスやシャロヴィプテリクスと同じ、行動する生き物に見えてくる。なにしろ私達と同じことをしているのだから。
シャロヴィプテリクスの飛ぶところを見るのに焦らなくても、私達の見るべきものはまだいくらでもある。