Lv100第七十八話
「オロチ編その8 佐治川の大蛇 -ハルとダイチとハルカ-」
登場古生物解説(別窓)
 早朝のひんやりした空気に晒された道を、原付で駆けていく。
 街を見下ろす山々は落ち着いた緑と朱色の装いだ。
 今この瞬間は穏やかに見えても、内側では色々なものが目まぐるしく変わっている最中である。山も私達も。
 赤信号で止まると、進めてきた作業の内容が勝手に頭に浮かんでくる。
 昨日、重要な書類を園長に提出した。竜脚類各種の飼育における環境や作業などを体系的にまとめたデータ集だ。
 ゾルンホーフェン条約の審査を行うにあたって、タンバティタニスが飼育できると主張する根拠となる根本的な書類である。園長も厳密にチェックすると意気込んでいた。
 タンバティタニスの飼育計画そのものもまとめに入り、部分的には建設作業さえ始まっていた。
 信号が変わり、再び走り出してしばらくすると、「きょうりゅうの国」がある山の斜面のふもとに白い壁で囲われた一角が見える。
 タンバティタニスより先にプロバクトロサウルスらのために必要なスペースを先に整えているのだ。

 開園前に点検のため放飼場を歩いていても、まだ少し肌寒く感じる。
 これだけ涼しいとエウロパサウルス達もそんなには出歩かないかもしれないが、タンバティタニスの準備の合間に任された作業の機会である。実地に触れる喜びと責任が、私の中の休んでいた部分をほぐしていくようだ。
 注意を怠らず見回っていると、まさに異変らしきものが、複数ある竜舎のうちひとつの脇にあった。
 地面に積もった茶色い杉の葉が一部散らかっている。近寄ってみると柔らかい土が顔を覗かせていて、長く引っかいたような跡がある。
 手でそっと土を掘り返すと、白く滑らかな陶器のようなものが見えた。
 やはり卵だ。見付けることができてよかった。
 この竜舎を使っているメスのうち産卵の兆候があったライネが産んだものだろう。ライネはしばらくオスと接触していないので無精卵と考えられる。
 新しい命の誕生ではないことを惜しむ他にやることがある。
 業務用スマホを取り出し、医療研究課に電話をかけた。
「エウロパサウルスの卵が見付かりました。おそらくライネが産んだ無精卵です」
「ああ、連絡ありがとうございます。こっちまで運べますか?」
 話している間に私は猫車を引っ張り出していた。
 荷台に杉の葉をたっぷりと敷いてから、現場の写真を丁寧に撮り、卵の上にかぶせられた土を払いのけてまた写真を撮っておく。
 片手には余る、ニ十センチほどの卵が三つ。
 ひとつずつそっと穴から持ち上げ、ずっしりとした卵を落として割らないように、荷台に敷いた杉の葉の上に寝かせる。
 他の竜脚類のことを調べるようになるまで知らなかったのだが、大きさも手触りも、科学動物園の展示館で触れるようにしてあるアマルガサウルスの卵とよく似ている。
 直接見たことがないディプロドクスやマメンチサウルスのものとも。
 エウロパサウルスの卵を触れるように展示するのは難しい。一頭が年に数個程度しか生まない大切なものだからだ。
 猫車の揺れで割れないように卵の間にもまた杉の葉を詰め込んでから、園内の動物病院へと猫車を押す。
 医療研究課のかたが病院の前ですでに待ち構えていた。
「では、無精卵だったら仙台に送りますので」
「よろしくお願いします」
 卵は発泡スチロールの箱に移し変えられ、病院の中へ運び込まれていく。
 仙台では卵の研究者、灰原先生が、いざタンバティタニスを再生しようというときにどのようにして胚から幼体に育て上げ生まれてこさせるかの検証を行っている。
 それになぜエウロパサウルスの無精卵が役に立つのか。エウロパサウルスとタンバティタニスが比較的近縁なこと以外にも重大な点がある。
 小さなエウロパサウルスだけでなく、タンバティタニスと変わらない大きさのアマルガサウルスも、はるかに大きなディプロドクスやマメンチサウルスも、皆せいぜいニ十センチ程度の卵しか産まないからだ。違うのは産む数と生まれてからの成長である。
 エウロパサウルスは小さな卵から生まれるから小さいのではなく、ゆっくりとしか成長しないから小さいのだ。しかも年に数個の卵しか産まない。
 ただの小さい竜脚類ではなく、食料も住処も限られた島の環境に適応した竜脚類なのである。
 そんな制限のない大陸の竜脚類は卵をたくさん産み、孵化した子は素早く成長して巨体を獲得した。
 要するにエウロパサウルスも卵の段階ではもっとずっと大きな竜脚類と違わないので、エウロパサウルスの無精卵にタンバティタニスの胚を植え付ければ育つのではないか、というわけだ。
 もちろん、エウロパサウルスの卵ではなにか不足があった場合に備えて考えられる限りのリカバリー策が講じられていなければならない。
 しかし、タンバティタニスを再生する最初の大きな一歩を乗り越える鍵は私の足元にあったのだ。
 エウロパサウルスとタンバティタニス、一方を理解しようとすることが互いを理解することにつながっていく。それを進めていくために、私は作業に走らなくてはならなかった。

 少し前まではチャットで激しく議論を交わしていたのに、最近はそんなに活発にやり取りをするのは土木・建築関係の施工業者くらいになってしまった。
 それよりもチャットで決まった内容を書類にまとめる作業に追われている。
 たまに細部を詰めるためにチャットを使うことがあっても、もう大林さんの助けは必要なかった。私の書き込みに対してスムーズに答えが返ってくる。
 机に向かって書類を作る時間が長くなってしまうが、本当は土や飼料やエウロパサウルスの糞に触れていたい。いや、タンバティタニスのために実際にそうしているつもりで内容を考える必要がある。 

 机仕事ばかり続くものだから、かえって休憩中に外に出るという飼育員らしからぬことをしていた。
 そういうふうにしなければエウロパサウルスだけでなくプロバクトロサウルスのことまで見てはおけない。
 私にはプロバクトロサウルスの作業は全く割り振られていないが、それでも見ておきたかった。斜面のふもと近く、なだらかな放飼場を裏から見る通用路に進み、適当な丸太の切れ端に腰かける。
 放飼場の端を来園者から隠すように植え込まれている木々の間から、ゆるやかな円弧に曲がった背中がいくつも見える。
 園長には気が休まらないのではないかと言われたものの、私はパンをかじりながら完全に気を抜いて見ているつもりだった。
 それでもプロバクトロサウルスから発見できることはいくらでもある。いくら広く飼育されていても私にとっては未知の恐竜だから。
 すたすたと二本足で早歩きし、気になったものが地面にあったときだけ手をつく。
 放飼場に勝手に生えた雑草をつつき、平たいクチバシでちぎり取って噛みしめる。
 エウロパサウルスがしないことばかりだ。プロバクトロサウルスに対する理解が深まると同時に、結局エウロパサウルスに対する理解も深まっていく気がする。
 反対側の柵の向こうにはプロバクトロサウルスを眺めている来園者の姿がある。
 今のところ簡易版ではあるが、解説板にはタンバティタニスと一緒にプロバクトロサウルスに近い鳥脚類の歯も発掘されていると大きく書いてある。これで太古の丹波の世界を感じてもらえるだろうか。
 そんな来園者の後ろを足早に通り過ぎていくのは、どうやら大林さんのようだ。遠くで動く人を見るのはパソコン仕事ばかりしていた疲れ目に丁度良い。
 そんなことを考えていたら大林さんが姿を消し、間もなくこちらの通用路に現れた。
 やけに嬉しそうに駆け寄ってくるなと思ったが、まさに大林さんにとって嬉しい成果が出たところなのだった。
「シオングアンロンの導入決まったー!」
「わわ」
 ほとんど飛びつくような勢いに押されて、大林さんを押し返すようなポーズを取ってしまった。
「そうですね、本当におめでとうございます」
「ナラちゃんが熱心なとこ見せてくれたおかげだよーっ」
「いえいえ、中型獣脚類に本腰で取り組むところを見せたのは大林さんですから」
 福井で長期間の研修を受け、この「きょうりゅうの国」になかった中型獣脚類の飼育技術を身に着けてみせたのはほかならぬ大林さんだ。
「大林さんが意義や技術を示したから、日本で初めてシオングアンロンが導入できるようになったんです」
 私がそう言うと大林さんは照れ臭そうに、しかし誇らしげに満面の笑みを見せる。
 大林さんはただ私と話すためだけに放飼場の裏に来たようだった。
 もしかしたらプロバクトロサウルスを見たことより大林さんの笑顔を見て話したことのほうが、仕事の疲れを取り除いてくれたかもしれない。
「ナラちゃんもさ、よかったって言っていいのかわかんないけど、よかったじゃん」
「ああ……ザックスですね」
 ここで最年長だったエウロパサウルス、ザックスの詳細な解剖の結果が出たのである。
 腎臓と肝臓の軽度な異常。もし若い個体ならそれだけで絶命に至ることは決してない程度の。
 牧場等で飼育されているエウロパサウルスでよくある不健康を示すもの、例えば肥満や骨の異常などはほとんど見られなかった。
 ザックスの根本的な死因はまさに老衰による自然死だったのだ。
 私の確立したエウロパサウルスの飼育技術は、今のところ良いと認められる。
「じゃ!準備があるから!」
 そう言って大林さんはまた足早に去っていく。

 秋の間中続いた書類仕事はとうとう終わった。
 タンバティタニス飼育計画は審査機関に提出され、ゾルンホーフェン条約に基づいた審査にかけられた。
 しかしそれは計画が審査を通るか通らないか待っていればいいということでは全くない。
 むしろ審査機関から計画の内容について思ってもみなかった質問が矢継ぎ早に飛んできて、私だけでなく計画に関わってきた者全員がいっそうの知恵を絞り出させられた。
 ときには地域の教育委員会や周辺の地権者、農業従事者までもが巻き込まれた。計画の危機かと慌てるかた、二度同じことを聞かなくていいじゃないかと腰を上げないかた、元から連絡自体なかなか付かないかた、外部の人とは足並みが揃わず難しい対応を迫られた。
 もちろん、計画に不備や修正すべき点がないか、あれば修正できるかどうか確認し、良い計画とするのに必要なことである。避けたり投げ出したりするなどという考えはもはやない。
 私達は手を尽くして計画の穴を埋め続けた。
 そんな日々が大晦日まで続き、なんとか年明けを迎えて。
 一月の二日には、問題は全て解消されたとの連絡と、審査通過の証明書が届いた。

 一日経ってそのことが報道されたさらに翌日、一月四日の朝。
 市街地の道を原付で走ると、フルフェイスヘルメットでもさすがに冷える。
 商店街を飾る年末年始らしい雪のイルミネーションや門松に混ざって、竜脚類のシルエットをかたどったものや「丹波竜飼育審査通過おめでとう」ののぼりが見える。
 しかし審査通過も私にとっては、文字どおりいずれ通り過ぎることが分かっていた地点にすぎない。
 提出した書類の計画を実現するには、さらにもっと細かい部分を決めたり、建設中の設備やバックヤードで作業をしなくてはならない。
 街は視界の後ろに流れ去り、冬の枯れ山が周りに広がる。
 すぐにでも灰原先生が仙台からやってきて、化石から得られた遺伝子を基にタンバティタニスの胚を作成し、エウロパサウルスの無精卵に植え付ける作業を始めることになっていた。

 あっという間に春が来て、桜の花もわずかしか残らず散った頃。
 商店前に立てられたのぼりや橋にかかった垂れ幕にはタンバティタニスだけでなく、頭が長く二本足の姿も加わっている。三月に導入されたシオングアンロンである。
 さらに、タンバティタニスのいくつかは赤茶色に塗り直されている。
 まだ産まれてもいないうちから観察結果が反映されたということだ。関心が高くて素晴らしいことだが、いずれまた描き変えられる可能性もある。
 出勤してすぐに、まだ一般公開されていない広大なエリアの道を進む。
 黄土色をした緩い斜面には重機のキャタピラの跡がいくつも走る。砂の山に取り付くショベルカーが小さく見える。
 育ち切ったタンバティタニスが満足してくれれば良いのだが、杉ばかりの人工林だった「きょうりゅうの国」の風景がどんどん変わっていくようだ。
 放飼場の端には針葉樹が植えられつつある。目立つ外側には篠山層群の化石から再生された苗が、内側には現在のスギやヒノキが配置されている。
 その木々のさらに内側に配された、これまた巨大な建物の端に入室する。
 竜舎に直結された人工孵化室である。
 白衣姿の灰原先生が卵の管理作業をしていて、観察や測定の内容を見せてくれる。
「どうでしょうか」
「今日も二頭は順調です」
 ガラス窓で仕切られた隣の部屋は滅菌されて温度や湿度が管理され、五つの円筒形をした容器が並んでいる。
 そのうちの二つ中に、ニ十センチほどの卵が一つずつスポンジに包まれて収められている。五つの卵のうち、今まで生き残った二つだ。
 殻に開けられた小さな穴に極小のカメラレンズや測定器のノズルが差し込まれている。
 モニターの中では、白く濁った卵の内容物の向こうで、赤黒いものがときたま震えている。
 赤褐色に黒の絣模様。見えている部分はふっくらとしたアーモンド形だが、両端にまだ続いている。
 生まれる前のタンバティタニスの子供だ。
 まだエウロパサウルスの卵の殻に収まっているとはいえ、
 今すでにこの地上に、兵庫に。
 生きたタンバティタニスが蘇って存在しているのだ。
 先週、体の色が分かったときなどは報道が相当盛り上がった。すでに赤褐色をした成体のイラストなども描かれているが、成長してもこの色と模様が保たれるかは分からない。
 まずは無事孵化しなければ成長後に色がどうなるかも絵空事である。
 そう、今モニターの中で脇腹だけを見せている小さくあやふやな存在が、生まれ出て大きな姿に育っていくのだ……。
 眩暈がしてきた。好奇心から見せてもらっているだけに等しい私が、ここに長居しても仕方がない。
「ありがとうございました。失礼します」
「はい、どうもね」
 少し外の風に吹かれていたほうがよさそうだった。
 巨大な竜舎と放飼場から離れると、緑に囲まれた池が目に入る。しっかりと作り込まれたビオトープである。
 水色をしたシオカラトンボが草の上を飛び交い、なわばりを主張してぶつかり合っている。もう周りの生き物にも住み良さそうだと認められているのか。
 通路はプロバクトロサウルスの放飼場の隣にさらにまた増やされた放飼場のそばに続いた。
 そこではシオングアンロンがすでに歩き回っている。
 優雅な曲線を描く背筋に沿って、たてがみのような毛が生え揃い、風にそよぐ。体は薄い褐色と黒のまだら模様をした毛と鱗で覆われている。
 細長い顎と緩く曲がった首をあちらこちらに向けながら、長い後ろ脚で歩く。引き縮めた前脚と左右に揺れる尾はちょっと違うが、魚を探しながら小川を歩くサギを思わせる。
 そう、あのシオングアンロンは獲物を探している。
 岩の間、植え込みの下、倒木の裏。大林さんが工夫して選んだ隠し場所のどれに肉が隠されているのか探し当てようとしていて、退屈や不健康とは無縁にさえ見える。
 来園者はそんなシオングアンロンの姿に静かに目を奪われている。
 周りはどんどん固まっていく。王者の登場が、何より待ち望まれている。

 梅雨の気配が感じられるようになった、ある日の午後二時。
 灰原先生の発した連絡が、「きょうりゅうの国」を、博物館を、地元メディアを、全てを急かした。
「卵殻を叩く音が両方の卵からし始めました。タンバティタニスが二頭とも殻を割ろうとしています」
 私は竜舎に向かって走った。
 ただ卵から生まれるのを見ようというのではない。その段階に達する前に役目がある。
 道の途中で大林さんも真横に現れた。
 視線を合わせれば、大林さんの目にはあくまで私への祝福が浮かんでいた。
 去年の今頃は大林さんのほうがずっと乗り気だったものだ。そんなことを考えながら、私は大林さんと並んで走った。
 互いに言葉を交わすまでもなく、竜舎の裏の扉を開け、倉庫スペースに入ってチェックリストを取り、業務用スマホで灰原先生に電話を入れた。
「点検を始めます。居住スペースに入ります」
「はい、了解しました。早かったですね」
 灰原先生は思ったよりずっと落ち着いた声をしている。
 どうも焦る必要はあまりなかったらしい。私達は揃って大きく息をつき、肩の力を抜いた。
 そして、居住スペースと倉庫を仕切る二重扉の前に立った。大林さんは操作盤に手をかける。
「中に接触してはいけない恐竜はいませんか」
「中に接触してはいけない恐竜はいません」
「内扉は全て閉まっていますか」
「内扉は全て閉まっています」
「壁のシャッターは全て閉まっていますか」
「壁のシャッターは全て閉まっています」
 これまで居住スペース内の作業をするとき、扉を開ける前の点検は形式的な練習だった。それも今回までだ。
 大林さんが歯を見せて笑う。彼女はすでに何度となくシオングアンロンの放飼場でこれをやっている。
 外扉が開き、その中に私が入って、再び外扉が閉まってから、居住スペースに続く内扉が開く。
 天井から柔らかな陽光が注ぐ、公園を思わせる開放的な空間である。
 周囲は観察窓に囲まれ、地面にはごくなだらかな起伏のある砂が敷き詰められている。
 見上げると、透明な天井の下に張り巡らされた骨組みにキャットウォークが取り付けてある。いつか、あそこに首が届くほど大きく育ったタンバティタニスのために、餌かごをぶら下げるのだ。
 公園のようだという印象のとおり、一角は茂みになっている。小さな木は篠山層群で見付かった、ソテツに似た低木や針葉樹。大きな木は現代の杉やヒノキ。
 チェックリストの点検はもはや練習でも何でもなく、この後この茂みに身を隠す幼体にとって不都合がないかどうかに直接かかわる。
 中を通れる程度に隙間があって、隠れる場所に困らない程度に枝が茂っているだろうか。中を通ったとして何も邪魔になるものや妙な出っ張りはないだろうか。小石が落ちていたりは。
 卵を収める溝は崩れたりせず、規定通りの寸法のままか。
 茂みの中も外も何も問題はない。私は再び灰原先生に電話をかけた。
「点検終わりました。問題ありません」
「ありがとうございます。「ダイチ」の殻にひびが入り始めたところですから、そろそろ卵を搬入します。観察していてください」
 「ダイチ」。オスだと分かっているほうに付けられた名前だ。
 やがて、私が入ってきたのと同じ扉から医療研究課のメンバーが現れた。
 二人は両手で卵の透明ケースを抱え、一人はビデオカメラを構えている。
 すぐにでも駆け寄って卵が今どうなっているか見たかったが、彼らが驚いてケースを取り落とすところが想像できてしまう。私はじっと溝のそばで待っていた。
 卵はケースの中のスポンジから取り出され、そのままの向きで、本来産み落とされるところと似ているであろう溝の中に収められた。
 医療研究課がビデオカメラを固定する。観察窓の外で地元や古生物関係のメディア、教育委員会などの市民の代表といった人々が映像を見ているはずだ。
 そちらでは騒ぎになっているのか固唾を呑んで見守っているのか、それも分からない。
 コツ、コツ、と、二頭のタンバティタニスが卵殻を叩いている音しか耳に入らないからだ。
 殻の中で弱々しい首をなんとか外に向けて振り、幼体のときだけ口先にある小さな角、卵角を殻にぶつけようとしているに違いない。
 ダイチの卵にはすでに爪の幅ほどのひびが入り、それがわずかに浮き上がり始めている。
 その動きに気を取られていると、もう一方、メスの「ハルカ」の卵から、ピキ、という音が聞こえた気がした。
 そちらにも新たにひび割れができたのだ。
 卵殻の厚みという二頭にとって千里の旅にも等しい道程を、二頭は確かに一歩ずつ進んでいる。
 とうとうダイチの殻から破片が落ちた。
 三角の穴から白い卵角が覗き、その基部は赤く見える。
 黄色と黄緑からなるエウロパサウルスの幼体と全く違うことにどきりとする。赤っぽいことは分かってはいても、卵殻がエウロパサウルスのものなだけについ驚いてしまう。
 一度壊れてしまうと穴が広がるのは速い。口先が現れ、そして鼻が、破片を押しのけて現れてくる。
 フスーという、初めて殻の外の空気を呼吸する音が聞こえる。
 さらに、とても大きいがまだうっすらとしか開いていない目が……、ハルカのほうが先に。いつの間にかダイチを追い越していた。
 エウロパサウルスの幼体より少しだけ面長のようだ。成長するともっと長く、ディプロドクスやアマルガサウルスに似た顔になるらしいが、すでにその片鱗がある。
 すでにディプロドクスやアマルガサウルスの例を参考に餌台を設計し、計画で提示して放飼場に用意してあるが、やはりそれは正しかったようだ……。
 ハルカの後頭部が出たと思ったら、急に大きなひびが走り、殻全体が両断された。
 首や前脚のある前半身と後ろ脚や尾のある後半身、全身で突っ張ることでひび割れに力がかかり、殻が裂けたのだ。
 ダイチもそれに続く。今や二頭は殻から解き放たれた地上の動物だ。
 煉瓦色と黒色をした細かな鱗で覆われ、濡れてつやめいている。首も尾も手足も全く弱々しいが、丸い卵に収まっていた体が伸び、長い竜脚類の姿を現す。
 もはや用済みの殻を払いのけ、踏み台にして溝から這い上がろうとしている。まだほんの小さな前脚の親指の爪を役立てようとしている。
 本来溝を覆ったであろう土がないのは、二頭にとって良いことなのか悪いことなのか。どちらにせよ二頭とも、何度も爪を斜面にかけてはずり落ちて、少しずつ体勢を変えていた。
 つい手を貸して溝の上に持ち上げたくなる、たどたどしい動き。
 しかしそれは観察を放棄することに近い。人間の手で一億年ぶりに地上に現れさせられたタンバティタニスに対してすることではない。
 二頭の黒く輝く大きな目はもう開いている。判断して行動している。
 ダイチの、そしてハルカの両手が溝の縁にかかった。でも重心があるのは腰だ。もっと踏ん張らないと。
 後ろ脚の爪が斜面を引っかき、少しずつ、しかし確実に体が持ち上がっていく。
 ついに、ダイチの胴体が完全に地表に躍り出た。
 勢いでつんのめって腹ばいになるが、やがて四肢は地面を捉え直す。
 立ち上がると同時に、ダイチはその最初の一歩を踏み出した。
 ダイチを追うべきかハルカを見守るべきか、迷う必要はなかった。ダイチの歩みは全長五十センチ程の小動物らしからぬ遅さだったし、ハルカもすぐに地表に出て立つことができたからだ。
 鍛え上げられていないなりに、頭から尾の先へとなだらかに傾いたラインを形作る、優美な姿。
 トッ、トッ、と、一足ずつ前に出す。成体の竜脚類とあまり変わらない、非常にゆっくりとした歩み。
 ただ目指す先ははっきりしている。植え込みの下だ。あそこなら敵や日差しから身を隠せると分かっている。
 さあ、やっとタンバティタニスの飼育と観察が始まった。
 目の回るようなこの一年は、モシリュウに憧れて突き落とされた幼い頃は、ただの準備だった。
 私達のいるこの大地に、遥か昔どんなものが住んでいたか知るための。
 二頭の歩みに合わせ、腰を据えてやっていこう。
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