Lv100第七十五話
「オロチ編その5 スナーク」
登場古生物解説(別窓)
 九十九里で半分という言葉がある。
 その言に倣うなら、タンバティタニスの審査用の書類が半分近くできているかに見える現状は、実は一割程度の完成度でしかないとも言える。
 そのくらいチャットが白熱しているのだ。なぜならすでに決まったことでもそれでいいのか疑い続けなければならないから。
 首をよく動かすのだからそんなに移動する必要はないが念のため、という前提での面積確保は正しいのか。当時はそこまで植物が密集していなかったのではないか。
 冬には竜舎の中に完全に閉じ込めてしまっていいのか。行動選択の自由は。
 餌の取りかたのモデルは、分類が近いエウロパサウルスより口の形が近いと思われるアマルガサウルスやディプロドクスのほうがふさわしいのではないか。それを餌台の設計に反映させるべきではないか。
 威嚇のために尾を振るとして、向きは左右ではなく上下ではないか。ガストニアの尾に対する警戒のしかたを参考にしつつ、応用を利かせるべきではないか。
 きりがないが、そのままにしておけば生まれてくるタンバティタニスが困るか、単に審査に通らないかだ。
 盛夏、事務所の冷房はそんなによく効かない。
 どうしても考えをまとめるのに時間がかかってくる。冷蔵庫から今日何杯目か分からない麦茶を取り出す。
 そこに、やけににやけた園長が部屋に戻ってきた。くくっ、という含み笑いまでしている。
 正直に言ってそれすらも苛立ちの元になりそうなところだった。園長自身が始めた計画が遅々としてまとまらないときに何を笑っているのか。
 が、立場の違う生き物の挙動を理解できてこその動物飼育である。
「何か良いことが?」
「というより、災難を追い払えた、かな」
 園長は嬉しそうにそう言いながら、大げさな動きで自分の席に着き椅子を回して机に向かう。
「県と神戸のほうから、なんで神戸に作らないのかみたいに言われてさ」
「ああ」
 先日の会合にも神戸の代表者が出席していたが、できれば誘致しようとそのときから考えていたのだろうか。
 タンバティタニスは国内の学名が付いた恐竜の中で最大である。商売っ気を出せば、人口が多く交通の便も良い神戸に新しい施設を建てて観光名所に仕立て上げたくもなろうというものだ。商売っ気以外の諸々をかなぐり捨てれば。
「神戸では審査に通りませんよね」
「ちょっと持続的じゃなくなっちゃうもんね。コンセプトだいぶ変わっちゃうよ。それでさ」
 ひひ、と園長が笑い、分厚い紙束をふわりと振り上げる。
「これでひっぱたいてやったさ」
 まさか物理的に叩きつけたわけではあるまい。
「ああ、今決まってる分の計画を見せ付けたんですか」
「それと三田・丹波・丹波篠山のつながりに関する資料、そんで町の人がどんだけ篠山層群の恐竜を大事にしてるか、っていうところかな」
「なるほど」
 「きょうりゅうの国」はすでにこの三田市にある。それを拡張したうえで発掘地の両市と密接に連携を取っていくのはもはや確定事項であり、そこには私が疑問を差し挟む余地もない。
 拡張後の配置図も、すでに今の予定地の地形に合わせてだいぶ具体化されている。
 これを練り上げたチャットには、先に私が書き込んだ内容に対する異論が上がっていた。いつの間にか、私のつっつきに対して他の部署や施設の職員もすんなりと反応を返すようになっていた。
 そして、議論が止まったときに大林さんが誘導することはあまりなくなってしまった。
 皆が活発に議論してくれるおかげでその必要がなくなったからではあるが、それにしても何かが急に起こりそうな感じだ。
 そう思わせるのは大林さんの書き込み自体が減ったことと、数日前に大林さんが立てたスレッドである。
 スレッドの名前は「ティラノサウルス類」。
 新展示計画の中で唯一、未だ具体的に何の種類にするか決まっていないものだ。
 配置図の各区画にはそれぞれの恐竜の名前が書き込まれている。
 中心のタンバティタニス。ガムとアンズの他にもう三頭やってきているプロバクトロサウルス。
 福井県立勝山動物公園を中心に他園からやってくる予定の、どっしりした鳥のようなファルカリウスや鎧竜のガストニア。
 羽毛恐竜のシノヴェナトルやヴェロキラプトル、クチバシが頑丈なアーケオケラトプスといった、元から「きょうりゅうの国」にいる小型恐竜はカエルやトカゲ、哺乳類や水中の生き物とともに半分屋内に。
 順路の最初の区間からはタンバティタニスと他の恐竜があたかも同じ空間を共有しているように見えるが、奥に進むとそれぞれの暮らしが別々に見える。生息地の風景に見せかける手法は取り入れるが、基本は古典的な、しかし堅実なパノラマ方式である。
 そして、「ティラノサウルス類(仮)」。
 タンバティタニスのそばから歯が発見されている以上、なんらかのティラノサウルス類がタンバティタニスと同じ生態系の一員だったのは確かだ。「あの」ティラノサウルスの仲間ということで各方面からの期待は半端ではなく、ある種タンバティタニスとの二枚看板とまで言う人もいる。
 しかし他の恐竜と違って、どこから呼び寄せた何の種類を代役として立てるかは議論の最中というわけだ。
 今のところ、各々が違った種類を推薦している。私からは小柄なためすでにここの技術が応用できるディロン、展示課からはもう少し大きいグアンロン、そしてメガロサファリからは大型のゴルゴサウルスに挑戦してみないかという誘い……。
 十メートルになろうかというゴルゴサウルスはすさまじい規模と技術を要求するので論外として、あまり決め手になるものがなかった。グアンロンに賛成してもいいが、展示効果からいってどんぐりの背比べでしかない。
 タンバティタニスのそばから発見された歯は上顎の前歯だ。歯の大きさからすると全長五メートルほどでグアンロンよりやや大きい。ちょうどそのくらいの種類が少ない、半端な大きさである。しかもおそらくもっと新しいタイプだ。
 それでできるだけタンバティタニスに近い時代、地域というと……、
「シオングアンロンだーっ!!」
 左肩から、べしん、と紙束がぶつかってきた。
 大林さんが胸の前に資料をかかげたまま突進してきたのである。
「物理的に叩きつけないでくださいよ」
「でもまずナラちゃんに物理的に読んでほしい!」
 改めて差し出された資料を受け取ると、一番上にあるのはシオングアンロンという恐竜の記載論文……つまり、初めて発見されたときに新種であるということを説明するために書かれた論文だった。もちろん、ティラノサウルス類である。
 要旨の部分にいくつも赤線や注釈が書き込まれ、特に時代と地域はよく目立たせてある。大雑把にタンバティタニスと近い時代、当時は地続きだった中国の北西。
 表紙をめくれば、異様に細長く、尖った歯が生えて、まるでノコギリのような頭骨の写真が出てくる。そして、その写真の周りには特徴を表す書き込み。「つぶれてるけど元から割と細長い!」、「歯は三センチ弱 鋭い」、「後頭部幅広い 噛む力」、など。
 さらに、クリップで二つ写真が添えてある。
 一つは生体の横顔の写真。確かに肉食恐竜としてはかなり細長い横顔だ。中国の四川省にある、中国最大の恐竜飼育施設「四川恐竜中心」で飼育されている個体である。
 もう一つは、篠山層群で発見されたティラノサウルス類の前歯の写真。シオングアンロンの化石では前歯ははっきりしないが、両者の大きさはよく合う。
 その論文に続く資料は、まさにその四川省での飼育や研究をまとめたものだった。
「時代、地域、分類、大きさ……、ほぼぴったりですね」
「そう。でもシオングアンロンだと」
「新たに中型肉食恐竜の飼育技術を身に着けた上で、日本初の種類に挑戦する、ということですよね」
 シオングアンロンは、全長五メートル近い俊足の肉食恐竜である。背丈は人間ほどになり、大林さんが従来世話してきた小さな肉食恐竜達、大きめのニワトリほどのシノヴェナトルや大型犬ほどのヴェロキラプトルとは一線を画す。
「私としてはそこまで挑戦を重ねるのは賛成しづらいですが……、」
「技術のほうは対応できる」
 と後ろから園長。
「施設の拡張と同時に、うちに参加したいっていう技術者がかなりいるんだ。国内でティラノサウルス類が出てる産地から共同研究に来てくれる人もいる。それと、大林さんに中型の肉食が得意な勝山動物公園で研修を受けさせてもらおうかっていう話もある」
「なるほど。それなら……」
 スタンスを決めようとする私に、大林さんが熱い視線を注いでくる。
「今のところ私から反対する理由はなさそうです。この資料をきちんと読んでみます」
「やった!」
 大林さんはまるで私に決定権があったかのように喜んでいる。
 資料を読み込んでも大きな落ち度がなければ、大林さんはシオングアンロンに関する取り組みを続けるだろう。タンバティタニスと同じ竜脚類であるエウロパサウルス担当の私と、それ以外の小さな恐竜担当の大林さん、それぞれの本来のポジションではある。
 新しい展示計画ではエウロパサウルスはメインから離れた位置にあった。
 要望としてはここの意義を強めてほしいが……、ザックスは、もしこの夏を乗り切ってもそこに加わることはないのだろう。

 二日後、ついに大林さん待望のオンライン見学の日となった。
 フロリダの米国立自然史動物園とリアルタイムでつながるので、今回もディプロドクスのときと同じく早朝の集合となる。
 にも関わらず、私が事務所に着くとそこにはすでに資料を読む大林さんの姿があった。
「おはようございます」
「お、おう!おはよう!!」
 資料に没頭してこちらに気付かなかったようだが、少しも眠そうではなかった。代わりに、身だしなみにところどころ間に合わせの感がある。
「もしかして泊まり込みですか?」
「やー、絶対遅刻できないじゃん……ティラノサウルス見してもらえる日に」
 先日のディプロドクスも同じくらい重要だったはずなのだが、大林さんの意気込みは今回のほうがはるかに勝っていた。
 園長は都合が悪く、今回は参加できない。園長もたいそう残念そうにしていたが、私達二人だけで始めてしまってよいのだった。
 VRゴーグルを二人分用意してパソコンに接続し、動作を確認。アドレスとパスワードを入力してオンライン会議を起動する。
 画面に黒い肌の大柄な壮年男性、向こうのリーダー氏と、もう一人アジア系の青年が映った。今回はあちらも少人数での対応のようだ。
『こんにちは、招いてくれて本当にありがとう。今回もよろしく』
 先に声を発したのは私ではなく大林さんである。なんと大林さんが率先して英語で話しているではないか。
『よろしくお願いします』
『ああ、よろしく!ティラノサウルス類も扱うつもりだって聞いて驚いたけど、本当にやるんならますます君たちと大事なパートナーとして付き合わないといけないね』
『教わることばっかりになっちゃうかもしれないですけど』
 もちろん英語でそう言って大林さんは自然に笑う。この行動力は大林さんが恐竜に目覚めた原点であるティラノサウルス類に魅かれるあまりのことか。
『君達ならずっとそのままというわけでもないだろう。さて、君達の目標は五メートルのジォングヮンロンの飼育だったね』
 シオングアンロンはあちらではジォングヮンロンのような発音になるらしい。
『うちではティラノサウルスを幼体の頃からずっと研究してきたわけだけど、大まかにいってティラノサウルスは小さくてスリムな祖先に似た姿から成長とともに最後のティラノサウルスらしいごつい姿に変わっていくよね。その途中、人間でいえば小学生みたいな時期にジォングヮンロンみたいな大きさと体型になる』
『それなら、ティラノサウルスの成長記録を見れば』
『シオングアンロンのティラノサウルス類の中での位置付けが分かるということでしょうか』
『そのとおり。そして観察記録の中でも整理されていて、それぞれの時期の性質がよく分かるのが、狩りの模擬だ』
 狩りの模擬。肉食の古生物を再生して研究する上でたびたび行われるが、ティラノサウルスのものは特に大規模なことで知られる。
 そもそも、古生物を再生して飼育する大きな目的はその古生物の生体からしか得られない情報を得ることであり、肉食の古生物がどのようにして獲物を捕るか、その方法を知るというのも重大な関心事だ。
 しかし肉食古生物を他の古生物に「これを捕えていたはずだ」と闇雲にけしかけても、肉食古生物に狩りの経験がなくては、実のある狩りを実現する望みは薄い。またそんな所業に狩られる側の命と反撃される側の安全を費やすのも問題だ。
 そこで、無人ロボットに取り付けた肉を追いかけさせるなど、少しずつ狩りに近いことを行わせる手法が取られている。スミロドン、いわゆるサーベルタイガーに関するものが最も高度に進んでいて有名だが、ティラノサウルスの狩りはやはり非常に注目されている。
『本当に小さい頃から狩りをさせてるから、その記録を君達も見られるようにするつもりなんだけどね。まずは順番に映像を見てもらいながら解説して、それから無人車両からのリアルタイムの立体映像を見てもらうよ』
 大林さんの拍手とともにリーダー氏の笑顔から映像が切り替わる。

『これから見てもらうのは全部同じ個体、オスのテリーの映像だよ。まずは三歳くらい』
 薄暗いジャングルのような空間に、背の高い鳥を思わせる二本足のスマートな生き物が現れた。体長は二メートル弱。もちろんティラノサウルスの幼体である。
 日本の恐竜図鑑も、二十年近く前から新刊が出るたびにこのテリーやもう一頭のメス、バーニーの写真を新しく載せてきた。その初めの頃に載り始めた懐かしい姿だった。
 成体と比べればささやかなものだが、しっかりした頭部や胴体をしている。口先は低く尖っている。頭を支える首はすでにたくましい。
 後肢と尾はすらりと伸びている。小さな前肢を埋めそうなくらい長い羽毛が、斜めに差し込んでくる日の光で赤銅色や黒鉄色に輝く。ぴったり閉じた唇で歯は隠れているが、顔を覆う大きな鱗がなにか悪魔じみていて、それが大きな丸い目と相まってかえって魅力的に見える。
「わっ、かわい……綺麗……」
 ずっと英語を保っていた大林さんもついに日本語を漏らしてしまった。しかし、この美しさの前には無理もない。私も息を呑んでいるから日本語を発さないで済んでいるだけだ。
 しかしその金色の目が見つめているのは、これから彼が奪う獲物だ。
 カメラが引き、ひもで縛られた肉のかけらが映り込む。ジャングルのように見えた空間が、実はたくさんの植栽を施された大きな竜舎の中だったことも分かる。
 テリーが駆け出すと同時に肉も動く。紐で引かれているのだ。
 肉は砂地の凹凸により跳ねながら転げまわるが、テリーは少しも惑わされず追いすがる。
 瞬間、肉の激しい動きが止まる。
 テリーが迷わず一口でくわえてみせたのだ。テリーはくわえた肉を高く掲げ、フシュッ、と吐息を立てる。
 大林さんは拍手をしつつも真剣に問いを発する。
『この前の段階もあったんですか?』
『そうだね、最初からこんなに上手いわけじゃなかった。これより前、本当に小さな雛だった頃はただ肉のかけらで遊んでたよ。それに紐を付けて人の手でヨーヨーみたいに引っ張ったりしたんだ』
 飼育技術としては重要な内容だといえる。
『そのときの記録はあまり表に出してないんですよね』
『うーん、不安定な時期だったし、それに、言ってみれば、ちょっと可愛すぎちゃってね。実物を欲しがる人が出かねないから雛の画像や映像の発表は慎重にしてるんだ』
 三歳時点でこれなのだから大きさがこの二、三分の一程度の頃といったら、それがあのティラノサウルスであるというギャップも手伝って大変な魅力だろう。それは無暗な欲望をかき立てる危険なものである。
『正しいと思います』
『君達にはその頃の記録も分けてあげるよ』
『ありがとう!』

『じゃあ、次は一気に進んで十歳の頃を見てみよう。ジォングヮンロンと同じくらいの大きさだね』
 一目でさっきとは違って屋外だと分かる明るさだったが、やはり周りにはシダやヤシ、針葉樹などの植物が生い茂っていた。
 成長したテリーは丸みが減ってかなり精悍な姿になっていた。顎はだいぶ長く大きく発達し、後ろ脚は引き締まって長い。いかにも優れたハンターといった姿である。
 羽毛は背中と小さな腕のみを覆う。脇腹や首筋は黄褐色の肌をしていて、鱗はとても細かいようだ。
『狩りを模擬する方法自体はこの頃から今と変わらないよ』
 テリーは鼻先を上げて茂みの向こうを見つめている。というより嗅いでいるのだろうか。
 すぐにその茂みの向こうに、濃緑色一色の大きな箱が現れた。後部に餌の肉をくくり付けた、自動運転の電動装甲車である。軍用車両を改造したものなので、大型の自動車そのものの大きさがある。
 それは数秒だけテリーに姿を見せ付けるように通り過ぎ、すぐに去っていこうとする。
 テリーは駆け出して数歩で視界から消え、画面が車載カメラに切り替わる。
 下に肉の塊が見切れていて、奥からテリーが猛追してくる。
 周りのめまぐるしい動きから、装甲車が茂みの間の曲がりくねった道を走っていることが分かる。
 つまり、テリーはその激しい動きについていっているということだ。恐るべき速力と敏捷さ。
 装甲車が小さな灌木を周り込み、テリーを振り払ったかに見えた。
 が、次の瞬間には肉がちぎり取られていた。灌木にかまわず突っ込んできたのだ。
『すごい!車の速度は?』
 再び大林さんが拍手しながら問う。
『このときは二十マイルくらい……あー、キロメートルだといくらなんだろう。開けた場所だともう少し速かったけど、すぐに終わってたな』
 二十マイルが何キロか手早くスマホで調べ、大林さんに伝えた。
「三十キロくらいです」
「ありがと」
 そしてすぐにリーダー氏への質問に戻る。
『最後木に突っ込みましたけど、怪我はしてないんですよね?』
『それは大丈夫。若くて細い木だからいけると判断したみたいだね』
『わあ、賢い……。それも含めてかなり複雑な動きをしてましたよね』
『今のが一番複雑なパターンだったといっていいと思うよ』
 テリーの能力の高さで盛り上がっているが、私にも気になることはあった。
『五メートルくらいのときから大きな装甲車で狩りの模擬を行っていたのですよね。当時すでにあれだけのものが必要だったのでしょうか?』
『この時点だけだったらそんなことはなかったと思うよ。ティラノサウルスの成長がある段階で急に早くなることは分かってたから、頑丈な設備を早めに用意してたんだ。ジォングヮンロンが成体で五メートルならもっとコンパクトな設備でいいだろうね』
 流石にそれはそうだろうが、それを聞いて安心した。
『その急速な成長の真っ最中だった十五歳の頃を見てみよう』

 画面が切り替わるとテリーは全くの別人と化していた。
 高くがっしりとした顎。彫りの深い横顔。目は小さく見える。頑強そうな首や胴。すらりと長いというより、強くたくましい後ろ脚。尾は筋肉の束だ。
 そして、ウマのたてがみを思わせる背筋の羽毛を残して、あとはほとんど羽毛がなくなっている。
『わ、もう完全にティラノサウルスって感じですね』
『ゴルゴサウルスともかなり違って見えますね』
『そうだね。狩りはもう始まってるよ』
 テリーは十歳の映像の始めと同じく、鼻先を高く上げて鼻の穴をひくひくさせていた。装甲車にくくり付けられた肉の匂いを嗅ぎ逃すまいとしているようだ。
 そして、鼻を少し上げたまま歩き出した。迷うそぶりもなく木々の間に進んでいく。
『装甲車の居場所を分かってます?』
『そのとおり。何百メートルも離れてるし、もちろん見えてはいないよ』
 テリーは少しずつ足取りを早めていく。
 そしてもう鼻を上げなくても充分匂いが嗅げる距離まで近付いたのか、鼻を下げて歩きやすそうな姿勢に変わった。
 やがて木々の向こうに広い空間があるのが見えた。するとテリーは木々に沿ってさらに早足になって進んでいった。
 そして並んだ木の間をくぐる。
 そこに装甲車の後部があった。
 テリーはくくり付けられた肉塊めがけて飛び出す。
 今度もうまく肉をもぎ取った。
『匂いで装甲車の場所を突き止めましたね!』
『それに地形をすっかり覚えてるおかげもあるね。このときにはここはもうテリーの庭になってたよ』
 確かにそこにはテリーの確かな成長が見えた。ただ、もっと小さかった頃に至らないところもある。
『動き自体は大人しくなりましたね』
『ああ、やっぱり気になるよね。十歳前後が一番速く走ってたけど、成長するにつれて大人しくなっていったんだ。激しく飛び跳ねなくても餌は取れると気付いたし、体が丈夫になる代わりにあまり身軽じゃなくなったせいでもあるよ』
『あ、そういえば親から狩りを教わったりもしないんですね』
 それ自体は普遍的なことではあったが、狩りの模擬を人間の手で覚えさせる上で大事なことだった。
『ティラノサウルスでもそれは変わらないよ。だからこの記録の内容には他の肉食恐竜にも通用するところがかなりあるはずなんだけど、成長途中だとかティラノサウルスの特徴とか、そういうところには気を付ける必要があるね』
 映像はテリーが肉をもぎ取ってからも続いていた。
 テリーは大きな肉塊を踏み付けて押さえている。牧場で育てられたパラサウロロフスの肋骨部分だ。テリーは前歯で骨から肉をこそげ取り、それで取れる肉がなくなると奥のほうの歯で骨ごと噛み切ったりしていた。
『こうやって骨も食べるのも育ったティラノサウルスの特徴ですね』
『そういうこと。それじゃあ、今の姿を3Dで見てみよう!』
 前のディプロドクスのときと同じく、VRゴーグルで観察車両からの立体映像を見せてくれるのである。
 大林さんは素早く拍手してすぐにVRゴーグルを着けた。私もそれに続く。

 視界は暗黒から、針葉樹に囲まれた大きなガレージのような建物の姿に切り替わる。
 ガレージと木々はゆっくりと奥へ流れていく。視野全体の向きはある程度自分の意志で動かせるようだ。
『さっきと同じ装甲車の中からの映像ですね』
『うん。餌をあげるだけじゃなくて見学にも使えるように立体視用のカメラが何組か積んであるんだ。これからゲートをくぐって放飼場に入るよ』
 装甲車の動きが止まり、後ろから……装甲車にとっては前から、ガシャンという機械音が聞こえた。
 そして装甲車は右左に身をくねらせるようにゲートをくぐり、両側にかなり頑丈そうなフェンスが立ち並ぶ空間を行く。またしばらく進んだところで止まり、さっきの手順を繰り返す。
『フェンスは五重、ゲートは真っ直ぐじゃなくてお互いに離してあるんだ』
『一気に破られたりしないように?』
『フェンスの中でゲートの部分がどうしても弱くなってしまうからね。ずらしてあれば万一どれかのゲートが開いてしまっていてもフェンスの間で足止めできるし、ゲートに勢いよく突進されることもない』
 まるで軍事施設のような車両やフェンス……いや、車両は元々本物か。それにこの慎重な手順。ティラノサウルスにふさわしいと同時に、動物園のイメージからかけ離れた緊張感だ。
 最後のゲートをくぐるとそこは緑にあふれた森だった。そびえ立つ針葉樹、周りを固める常緑の広葉樹、ヤシにシダ。
 装甲車はしばらくそうした風景の中を、水たまりを避けながら進んだ。
『植物は植えられたもの?』
『実はほとんど元生えてたものからいじられてないんだ。元からティラノサウルスの生息環境の植物に割と似てたし、あんまり元の自然から変えるのもよくないから』
 囲っているのがコンクリートなどの壁ではなく小動物を通す金網のフェンスなことと合わせて、前回言っていた元の環境や生物への配慮が行き渡っている。
 すっかりそんな風景そのものを見せてもらっているような気になっていたときだった。
 木の陰にその大きな姿が現れた。
 金色の両目が少し意外なほど狭い幅に並び、揃ってこちらを見下ろす。
 その前に突き出た巨大な顎、後ろの重厚な後頭部。重い頭を軽々と吊り上げている太い首と胴。
 すさまじく大きな両膝が交互に前後するのに合わせて、鋼のような足はザッと音を立て、丸太のような尾が左右に揺れる。
 はあっ、と大林さんが息を呑むのが聞こえ、それはすぐに、ふう、という吐息に変わり、
『すごい』
 と一言。
 テリーは絶え間ない早足でこちらに迫り、装甲車は距離を詰められることなくテリーから退いていく。
 ただし、どうも両者ともあまり速くはないようだ。
『両目で正面から見下ろしてくる生き物はティラノサウルスくらいですねえ』
『確かに』
 大林さんは、テリーがゆっくりとしか追ってこないことをすっかり分かっていたふうで落ち着いている。
 と思えば、
「食われてえ……」
 などと漏らす。
「は?」
「ナニモイッテナイーヨ」
 これだけテリーに夢中でいながらこの遅さが気にならないのなら、遅いこと自体は別に普通なのか。では自分で聞いてみるしかない。
『ゆっくりなのですね』
『九マイルくらいしか出してないよ』
 今度はスマホが見られないが、二十マイルが三十キロだったから……普通の自転車を軽く漕いだ程度らしい。
『今はテリーももうすっかり大きくなってしまって、緩い速度で追い回させて最後に減速したところでないと噛み付きに来ないんだ。この三分の一の速さが一番体力を使わないことは分かってるから、普通に歩くよりはずっと運動になってるよ』
『なるほど』
 エンリッチメントの効果は充分あるというわけだ。
『テリーからしてみれば、確実に手に入るって分かってる獲物の後をゆっくり追うのは当たり前なのかもね』
 いい運動と言うとおり、のんびりとした追いかけっこはそれからニ十分ばかり続いた。
 餌に使われているパラサウロロフスやカスモサウルスはどんなふうに育てられたものか。他に栄養を補うようなものは。やはり冬は竜舎にこもるのか。この狩りの模擬以外にも様々なことを、私達はその間に教わった。
 そうしていると、不意に聞き慣れない声があちらから聞こえた。リーダー氏の横でずっと何か作業をしていた青年が、リーダー氏になにやら告げたのだ。
『装甲車の進路に大きい枝が落ちてるからそのうち自動で回避するってさ。ちょっと揺れるだけだと思うよ』
 その数秒後、視界がぐいっと大きく揺らいだ。
 まさにその瞬間。
 テリーが突然飛び出した。
 その口が視界の中で弾け、白い牙の列が楕円を成す。
 緊急操作で肉が車体から離脱。
 それはふっとかき消え、テリーの口に挟まる。
 テリーと装甲車はしばらくその勢いのまま互いに離れ、百メートルは距離を取って止まった。
 そしてテリーはその場に肉を置き、フシュッ、と息を鳴らすと、足で押さえて食事を始めた。
 取れると分かっている餌なら慌てて飛びついたりはしない。しかし不意に獲物がいつもと違う動きをしたら、逃げ出すのかもしれないと判断して……。
"For the snark was a boojum, you see."
 リーダー氏が詩の一節をつぶやいた。「怪物の中でも一番恐ろしい奴だったというわけさ」……。
「大林さん」
「最高」
 少しも見逃さなかったということがその一言で分かった。

 その見学から一ヶ月。
 チャットの「ティラノサウルス類」のスレッドで、私達が導入すべきはシオングアンロンであるという合意に達し、残った問題を洗い出しては潰し続けていた。
 新展示計画の中でティラノサウルス類改めシオングアンロンのスペースはやや広くなった。後から飼育し始めるのに中型肉食恐竜の施設として凡庸なものとするのは避けるべきだ。
 現在シオングアンロンを飼育しているのは四川恐竜中心のみ。そこで繁殖に成功して産まれた個体を預かるか、新たに再生された個体を譲ってもらうしかない。向こうでの飼育は順調なようなので、前者がより現実的といえる。
 大林さんが率先して四川恐竜中心に連絡を取り続けていたのだが。
 この日、大林さんと園長は朝から事務所の中で電話をかけたり資料を整理したりと慌ただしく動いていた。
 大林さんはこれから勝山動物公園に出発し、中型肉食恐竜を扱うための研修を一ヶ月間受けるのである。
「ナラちゃん、ザックスのこととか色々任されてたのにごめんね」
「いえ。大林さんが意欲的に進められていたことですから」
 ティラノサウルス類のことを進めるのが大林さんの本懐なのだ。それを分かっていることが大林さんにも伝わったか、大林さんは安心して微笑む。
「四川との連絡も任せちゃうけど、よろしくね」
 四川恐竜中心は、私達の「きょうりゅうの国」がシオングアンロンを預けるに足る組織かどうか判断材料を求めていた。大林さんが勝山での研修をこなしてみせれば交渉は大きく進展する。
 しかし元はといえばタンバティタニスである。
 大きな竜脚類を飼育するための参考になるものを少しでもかき集めるのが今の使命だ。四川恐竜中心もそこは分かっていて、本来の目的である竜脚類に対する姿勢も判断に含めていた。
 つまり……、飼育されている古生物のうちディプロドクスと並んで最大級の一角、四川恐竜中心のマメンチサウルスの情報を求めているか、ということだ。
 四川恐竜中心にも充実したオンライン見学の環境がある。マメンチサウルスも米国立自然史動物園のディプロドクスやティラノサウルスと同じようにオンラインで克明に見ることができてしまう。
 私にとってモシリュウの崩れ落ちた虚像そのものであったマメンチサウルスを、果たして直視することができるのか。
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